07
「今でも覚えてるんだけど、」
と、頬澄は言う。新幹線の中、スマホをじっと見つめる新波を横目で、じとっと見つめながら。
「体育祭で、お前がリレーの一走やってクラスが勝ったときあったろ」
「あったっけ」目線を外さないまま、新波は訊ねる。
「あったよ」
「いつ」
「三年のとき」ずり落ちつつある腰を、一度手すりを掴んで、上げて、座り直して、「なんで覚えてねーんだ、お前」
仕方ないだろ、と新波はようやく顔を上げる。
「だって、お前と三年間クラス一緒だったろ。リレーも多分、毎年出てたし。ていうかいきなり何の話だよ」
「あのとき、お前教室に戻った後、すげー勢いで帰っただろ」
「いや、覚えてない」
「あの後な、クラスのやつらめちゃくちゃ盛り上がってて、喜んで泣いてる奴とかいたんだぞ」
新波は目を丸くして、
「お前も?」
「なわけねーだろ」はぁーっ、と見せつけるように溜息を吐いて、「まあいいや、別に。どうでも」
「なんだよ。気になるだろ」
「お前のその切り替えの早さが不気味だっつってんだよ」新波の顔を手でぐい、と押しやって、「戻れ。基礎怪談消費に。サボるな」
「いや、」新波はその手首を掴んで、やわらかくどけて、「もう終わったんだ。貰ったリストの分」
沈黙して、胡散臭そうな目で頬澄は新波を見る。
新波は、そんな目で見つめられる筋合いはないぞ、という気持ちでそれを見つめ返す。
「…………二百本分、全部か? シリーズものを最後まで読んで?」
「まあ、昨日の朝からずっと読んでたからな」
「きも」
「なんでだよ」
きめー、としみじみ言いながら、頬澄は新波の肩に拳をぶつけた。
△
「来た!」
「どうも」
駅のトイレで狐の面を付けて、それからバスで十五分。ようやく着いた先は旅館だった。北陸地方。海近くにある町の空気には潮の匂いが染みついている。東京から新幹線。朝に出たというのに、もう真夏でなければ正午よりも夕方の方がやや近く感じるような時間帯。
ロビーには、つい一昨日見た顔が待っていた。
「びっくりしたー。なかなか見当たらないから、もしかして来れなくなっちゃったのかと思いました!」
「すみません。いつも使っている駅までの道が急に工事で……。もっと余裕を持ってくればよかったです」
出迎えに来たウサに落ち着いた顔で頬澄が応える後ろ、何が工事だ、と内心で新波は思っている。事の真相はもっとしょうもなくて、アラームが鳴っているのにいつまで経っても起きてこないから、と新波が一度起こしたにもかかわらず、頬澄がトイレの中で三十分の二度寝を果たしたからだ。
「タヌキさんもこんにちはですー」
「……どうも」
軽く、新波も頭を下げて返す。
今回のこの百物語旅行に当たって、『シーチ』としてのキャラ作りは、ちゃんと事前に頬澄と決めておいた。
怪談や、心霊に関わる現象について、自分からは一切言及しないこと。ただし、あらかじめ予習できた範囲内のことに対して知らないふりはしなくてもいい。
また、この旅行中に頬澄以外の人間とコミュニケーションを一切取らないというのはあまり現実的ではないから、多少の会話を解禁する。ただし、基本的には誰に対しても敬語で。あまり個人的な情報は見せないように。もしそれで、何か困った質問をされたときには、
「あれ、前と違って喋れるんですか?」
「……キャラがまだ固まっていないので、最低限ですが」
ぽかん、とウサは口を小さく開けて。
それから、あはは、と笑った。
「ま、マジメ……。えーっと、タヌキさん、」
「シーチです」
「シーチさんも、なんかこう、ホーマさんのとこの人って感じですね!」
「どうも」
こうして答えること、と決めている。
元からそういう風にしてんだ、と頬澄は言った。
「だって、霊能力者なんてどー考えても怪しいだろ。あんま完璧に演じすぎると、まあ人は近付いてこねーし、ついでに『霊なんていないって冷静に言えちゃうオレ超カッケー』みたいなガキが湧いてきたりするから面倒なんだよ。百害あって一利なし。だから、あえてこっちから一部を崩しておくわけ。そうすりゃとっつきやすいし、しかも『崩れてない部分は本当なんだ』って説得力がついてくる。だから、私もちょくちょく崩してるし、お前が崩れてても特に違和感はない」
そういうことだから、困ったらそういう発言に逃げろ、と。
今日来るのはとりあえず、そういうメタ――舞台袖側の発言に理解がある人間ばかりだろうから、と。ただし崩しすぎるな、とも。崩しすぎると悪ふざけそのものになってしまって、このキャラクターを作る意味が完全になくなる。だから、あくまで『ひょっとしたら本物たちが力を抜いているだけなのかもしれない』と思わせる程度に留めろ、と。
そんな複雑なこといきなり言われてできるか、とも思ったけれど。
やってみないことには始まらないから、とりあえずそういう前提で、新波はこの旅行を乗り切るつもりでいる。
「もう皆さんはお揃いですか?」頬澄が訊いた。
「そうみたいです。ご飯は六時からで、九時から百物語。その間は自由行動って聞いてます。あ、明日ってホーマさん予定ある?」
「たぶん、宿で寝ていると思いますが」
午前三時まで話していたら体力が持ちませんし、と言うのも聞かず、ウサは強引に頬澄の手を取る。
「あのっ! うち、明日の午前中のうちに折角だからって海で動画撮ろうと思ってるんですけど、ホーマさんも一緒にどうですか!?」
目を輝かせているのに、けれど頬澄はまるで動じない。
「行きたいのは山々ですけど、」肩を小さく竦めて「水着を持ってきていません」
「レンタルとか、ほら!」
「それと、あまり日差しに強くない体質なので、屋外が苦手なんです」
「あ……」
そうですか、とあからさまにしゅんとして肩を落とすウサに、けれどそれを慰めるような声色で、頬澄は言う。
「百物語の席順って、もう決まっているんでしょうか」
「え? ど、どうだろ。あんまり聞いてないけど……。あ、今尾さんたちが会場準備してるから、見に行けばわかるかも」
「そうですか。それでは挨拶ついでに、ちょっと見てきます」肩に優しく手を乗せて、「隣の席だったらいいですね」
ぱぁあ、とウサの顔が輝くのを見届けずに、頬澄は歩き出す。その背中にまで視線を向けているのを見ながら、その後ろを新波はついていく。
「お前、ちょっと性格変わったな」
「店構えが変わっただけですよ」頬澄は肘で、新波の鳩尾のあたりを叩く。「言い忘れてましたが、二人きりのときでも口調は崩さないように。つまらないところでボロは出したくありませんから」
承知しました、と頷けば、満足そうに頭が上下した。
△
「お、最後の二人が来ましたね」
「すみません、遅くなってしまって」
『羽の間』と表示の置かれた先の襖を開けば、三十畳ほどの和室の中に、機材がいくらか詰め込まれている。中に入っていった頬澄と新波に、お気になさらず、と頭を下げて首にかけたタオルで顔を拭く男が、今回の企画統括者の今尾という男だった。年のころは四十周りと見えるが、小太りの身体と眼鏡を除けば、結構な童顔にも映る。
「いや、やっぱりオーラありますね。狐面の霊能力者さんって。僕もお狐さんは大好きなんですよ。怖い話が好きなら、みんなそうだと思いますけどね」
「今尾さんのゲームにも出てきますものね」
「おっ、や、そっか。やってもらってますか、それも」
「もちろん。怖い話が好きじゃなければ、こんな恰好していませんから」
「やー。でも、狐面のお姉さんがパソコンでフリーゲームっていうのも絵面が……って、別に家じゃお面つけてないかあ」
「わかりませんよ?」
あはは、うふふ、と笑い合う。もちろんこの男のことも、新波は事前情報として頬澄から聞いていた。
今尾。元は機械音声を使ったホラー系のゲーム実況で有名になった男らしい。ゲーム実況、というのはその字面のとおりで、ゲームをプレイする画面をリアクション、あるいは解説を交えて動画化、あるいは配信するというものである。そしてその領域の中で、ホラーというジャンルの占める割合は思いのほか大きい。今尾のゲーム実況チャンネルは、登場するホラー要素に対する丁寧な解説と、複雑なストーリーのわかりやすい注釈または考察を魅力として、機械音声による実況者の中ではかなり突出したファン数を誇るそうだ。さらに昨年には自らホラーゲームを製作し、無料で公開。他の有名実況者たちがそのゲームをプレイ・配信していることもあり、さらにその知名度は伸びつつある。
「やっぱり、僕もお面をつけてくればよかったかなあ。こんなおじさん顔を人前に出すのって、やっぱりちょっとな……」
「やめておいた方がいいですよ。ものすごく暑いですから」
「え、やっぱりそうなんですか」
「痩せ我慢をしています」
あはは、うふふ、と笑い合う。一連の会話のどこを取っても、特に引っかかりを覚えることもない無難なやりとりではあったが、そのことが新波にとっては信じられないことではある。談笑。それは頬澄から最も遠い言葉だと思っていた。
「そうそう、これは今度から助手を務めるシーチです。今日は人手として連れてきましたから、設営でもなんでも言ってもらえれば」
「あ、そうなんですね。どうもどうも。今尾です。お世話になります」タオルで拭った右手を差し出される。
「……シーチです。よろしくお願いします」握り返す。
まじまじと、今尾は新波の顔を見た。正確に言うなら、その顔に被さったお面を。
「シーチさんは狸さんなんですねえ。なんとなく僕はこっちの方が親近感が湧くなあ。顔が似てるからかも」
「……恐縮です」
「まあ、あまり肩ひじ張らないで貰えれば。なにせただのホラー趣味のおじさんが開いただけの会ですから。プロの怪談師さんが来るわけでもないですし」
あら、と口を挟んだのは頬澄。
「そんな、そんな。イラストレーターの異堂さんに、芸人の回蔵さん、アイドルの山城ほのかさんでしょう。どなたもホラー分野で活躍している方ですし、回蔵さんなんかはプロの怪談師さんと言ってもいいのではないですか?」
「あー……。まあ、言っちゃうと回蔵って、僕の大学の同級なんですよね。僕もホーマさんと一緒で、怪談師界隈との接点が全然ないんで、回蔵にはそういうイメージが……。あと異堂さんはゲーム作りのときにお世話になりましたし、ほのかちゃんに至ってはその……まあ、姪っ子なんですよ。実はね」
しーっ、と人差し指を顔の前に立てて、「一応、あんまり関係ないようにしてるんで、よろしくお願いします。身内で変なイメージつけたくないんで……」
それはもちろん、と頬澄は頷く。
「見ての通り、イメージ戦略への理解が深いですから。我々は」
「あはは。いやあ、説得力がある。まあ、というわけで基本的には身内の集まりみたいなものなんです。僕の伝手で集められる範囲ですしね」
なるほど、と表には出さずに新波は納得している。ということは、ここで一番の外様は自分たちというわけだ。
ここに至るまでの経緯も、あらかじめ聞いている。元は今尾が立てていた企画に、『イナバ。』が乗り合わせる形になったそうだ。なんでも『イナバ。』がゲーム実況で今尾の作ったホラーを扱ったのを切っ掛けに、夏のホラー企画のために今尾にコラボの話を持ち掛け、それなら現在進行中の企画にぜひ参加してくれないか、と話が進んだらしい。
自分たちがいるのは、『イナバ。』……というかウサの希望だそうである。どれだけ入れ込まれてるんだ、とその話を聞いたときは驚いたけれど、頬澄自身は「まあ私、結構女子中高生とかに人気あるからな」と涼しい顔だった。やっぱり見た目だよ、とも言った。ひょっとすると、頬澄自身が中高生のころに好きだったイメージが、今の姿に反映されているのかもしれない。
がらり、とまた『羽の間』の扉が開いた。
今度は入ってきたのは、緑髪の青年。名前はもう知っている。ワニ。
「……すみません。一応、こっちでも後で録画したのを動画編集するように、機材を置きに」
「ああ、はいはい」
カメラを手に現れたワニの下に、とことこと早足で今尾が向かっていく。設営も忙しそうだから、挨拶はこのくらいだろうと思って、新波は頬澄を見る。
「それじゃあ私は、他の方たちを捜して挨拶でもしてきますね。シーチはここで今尾さんのお手伝いを進めてください」
「了解」
頬澄が去っていく。今尾とワニの前を、一言二言言い残して通りすぎて。
残された新波も、「手伝いますよ」と言って、二人の下に近寄る。
じっ、とワニは、狸の面を見つめた。
「…………どうも」
「よろしくお願いします。ワニさん」
印象は変わらず。
三兄妹のうち、この青年だけは、まるで霊も、霊能力も、信じていないように思えた。