04
エレベーターを上って七階だった。七〇六号室。ホテルの内装にイメージとしては近い。まっすぐ奥に向かって廊下は伸びていて、両側に扉が三つずつ。突き当りには姿鏡が嵌めこまれていている。外灯りの入ってくるような場所がないから、たとえば知らないうちにここで眠ってしまったとしても、おそらく目覚めた時間が昼なのか夜なのかわからないだろう。
無言でついていく。それ以外に今、できることもないから。何をするんだ、と訊きたい気持ちもあったけれど、ここから絶対に喋るな、と言われたら喋らないくらいの忠実さはある。
ぴんぽん、とインターホンを鳴らすと、慌ただしい気配とともに扉が開いた。
「ホーマさん?」
「はい、そうです。こんばんは、初めまして」
「やー、どもども。『イナバ。』のサメです」
迎え入れてくれたのは、黒髪の青年だった。こうして直で会ってみても、やはり若い、という印象があった。新波自身いまだに大学生に見られることが多いけれど、こっちは大学生以外に見えようがない。
「今日は夜遅いとこほんとどうも。あ、あとコラボ受けてくれてありがとうございます。えーっと、それから……」
「とりあえず入ってもらえよ。失礼だろ」部屋の奥からもう一人、男の声がする。
「あ、そっか」
すんません気が利かなくて、とサメは奥に入っていく。どうぞ、と言いながら廊下を渡って、リビングに続く扉を開く。奥に二人、座っているのが見えた。頬澄が靴を脱いで中に上がる。新波も続いて靴を脱ぐが、そのあいだ、頬澄は空気の色でも見ようとしているかのように天井のあたりを眺めていた。
「どうぞどうぞ、座ってくださーい」
そう言ってソファを手で示してくれたのは、さっき頬澄から見せてもらった動画にいた、ウサだった。ローテーブルの前にクッションを敷いて、ぺたりと座っている。勧められるがままに頬澄が座ったので、新波も軽く頭を下げて、それに続いた。
「そっちが新しい助手って人すか?」
デスクチェアに座ったサメが、新波を見ながら訊ねてくる。一瞬、身体を固くしそうになったが、何とか自然体で耐えた。耐える必要があるのかは自分でもよくわからなかったが、仮面を被って一言も喋るな、というのには、人間味を見せるな、という注文が隠されているような気がしていた。
「シーチです。霊媒助手兼、カメラ係ですね。POVだけでは味気なくなってきたので」
「わかるー。あたしも前、文化祭で映画撮ろうとしたとき、すっごいムズいと思ったもん」
「映画を?」
「そー。低予算で面白いって言ったらPOVじゃない? アレみたいなさー」
「アレですね」
うふふ、とでも笑いそうな口調の頬澄に鳥肌が立ってしまって、俺の名前はバエじゃなかったのか、と突っ込む気持ちもどこかに消えてしまった。
「では、そんなところで。早速始めましょうか」
とは、最後の一人。部屋に入ったときからずっと立っている緑の髪の青年が言った。ワニ。意外にも、極端な髪色とは対照的にこの中で一番落ち着いているように見えた。
サメが口を尖らせる。
「せっかちすぎ。もうちょっと打ち解けてからだっていいだろ」
「もう時間も遅いんだから、巻いていった方がいい。俺たちは撮影が終わってもここで寝るだけだけど、ホーマさんはその後家まで帰るんだぞ。終電だってあるだろうし」
「えー。そんならうちに泊まってちゃえばいいじゃんね。あたしの部屋広いもん。ホーマさん寝れる寝れる」
ねー、とウサが笑いかけて、頬澄はそれに首を傾げるようにして応える。ワニの表情が僅かに強張るのを見逃さなければ、そして「それもそうか」とサメがワニの言葉を受け入れるのを見れば、新波にもだいたいこの兄妹の表面上の関係は把握できた。
ウサが活発、あるいは人好きな性格で、あまり物事のリスクは考えない。一方で、ワニは慎重派。知らない人間を家の中に入れるという行為に対して緊張感を覚えていて、サメとウサの手綱を握ろうとしている。サメの基本性格はウサ寄りに見えるが、ワニの言葉を受け入れることで全体のバランサーを務めている。
サメとワニの年恰好と顔立ちはとてもよく似ている。ひょっとするとただの兄弟ではなく二卵性の双子なのではないか、と思ったが、サメの方が兄らしい雰囲気があるように見えた。
「私はともかく」と頬澄が言った。新波を手で指示して、「シーチはあまり人と打ち解けませんから。本題にいきなり入らせてもらってもよろしいでしょうか」
よく言うよ、と新波は思った。ろくに教室で話もしなかったのはどっちだ、と思って。
「オッケーです。それじゃ早速打ち合わせしましょう」サメが言って、「ウサ、作ってたやつ出して」
「はーい」
机の下から取り出されのは、何枚かの紙だった。コピー用紙に定規で線が引かれて、漫画のラフのようなちょっとした絵と、その横に台詞が書かれている。
これ、と頬澄がそれに指を置いて言った。
「撮影コンテですか」
「そだよ!」
えへへ、とウサは笑う。
「本当に映画みたいですね」
「こういうの作るの好きなんだー。ホーマさんはこういうのやらないの?」
「やらないですね。いつも流れで撮ってしまっています。少し確認させてもらっても?」
「じっくりどーぞっ」
頬澄がそれを手元に引き寄せたので、新波もそれを、顔を動かさないまま確認する。
事故物件、という文字が見えた。
「大体の流れだけ説明させてもらいますね」
横から、ワニが言った。
「基本的には僕たちの方がメインで撮らせてもらいます。事故物件には実際に幽霊がいるのか検証、ということで。いくつかのシーンはすでにこちらで準備しています。ですので今日は、その赤く丸が付けてある部分だけ。最初の挨拶の後にゲストとしてホーマさんたちを紹介する部分と、いつものようにホーマさんに『ここには霊は……いません!』と言ってもらうところで、」
「いますね、ここ」
ピタリ、と会話が止まった。
ぺらり、と何食わぬ顔で頬澄は絵コンテを捲る。
「え、どしたんすか」三兄妹のうち、一番早く再起動を終えたのはサメ。半笑いで、茶化すように言う。「今日、そういうドッキリっすか」
バン、とそのとき、大きな音がした。
この部屋の間取りはまだ新波にはよくわかっていない。だから、それがどこで鳴ったのかはわからなかったけれど、少なくとも玄関からではないということはわかった。
「……なんだ、今の音」とワニ。
「え、ちょちょちょ、怖いんだけど」立ち上がってワニの後ろに回るウサ。
それに目もくれないで、頬澄は言う。「家の中、結構もう探索されました?」
「あ、ああ」サメが頷く。「そりゃ、まあ。広いっちゃ広いけど、別に。普通の部屋ですし。フツーに。別に何もなかったすけど」
「そうなんですね」こくり、と頬澄は頷いた。「そうですよね。マンションの部屋って、そういうものですよね。私は実家は結構田舎の方なんですが、広い平屋建てだったんです。子どもの頃はそれほど不思議にも思わなかったんですが、家の中に、一度も立ち入ったことのない部屋がありました。入っちゃいかんぞ、なんて言われたわけじゃなくて、なんとなく不気味で、奥まったところにあるから入ったことがなかったんです。不思議だと思ってたんですよね。台所にかけてある鍵棚に、一度も使ったところを見たことのない鍵がかかっていたから……」
「ちょ、ちょっと待って!」
大きな声で、ウサが言った。
「めちゃくちゃ怖くなってきた。おしっこ漏れそう」
「もうお風呂場は見ましたか?」頬澄はそれにも構わず、言葉を続ける。「お風呂場の、天井の蓋を開けて」
サメがワニの方を見た。
「手持ちのやつって充電できてる?」
「してある」
「んじゃウサ。お前俺の後ろからカメラで撮っとけ。もうこっから動画にしちゃおう。ホーマさんもいいっすか?」
「構いませんよ」
「構うよ!」ウサが叫んだ。「いや、無理無理無理。超こわいもん。無理」
なんだよ、とサメは呆れたように笑って、ワニが別の部屋から取ってきたカメラを受け取る。
「んじゃ俺が撮るよ。POVとかいうんだっけ、こういうの」
ピッ、と音がする。録画ボタンを押したのだろう。
「みなさーん……。今日は、いきなり緊急事態でーす……」
わざとらしさを強調するような囁き声。カメラの先を、彼は他の面々に向けた。
「以前から進めていた『事故物件に住んでみよう!』企画。またいつもどおりウサの我侭だったんですが、今回はなんと、オカルト系配信者のホーマさんも我侭に付き合ってくれることになりました」
どうも、と頬澄が頭を下げる。背中を触られたから、新波も同じようにした。
「ウサが前からホーマさんホーマさん煩かったから、うちのチャンネル見てくれてる人にもある程度伝わってるとは思うんだけど……。一応説明すると、ホーマさんは霊能力者なんだそうです」
と言っても、とサメは笑って、
「動画内で『ここに霊がいます』なんて言ったことは一回もナシ! 毎回『ここに霊は……いません!』って決め台詞を言っちゃう、ある意味硬派?な霊能力者さんなんですが、なんと今日は…………いるんですよね?」
「はい」きっぱりと、頬澄は答える。「います」
大丈夫なのか、と新波は不安になった。霊がいます、って。本気で言ってるのか。ウサは怯えている様子だけれど、ワニはあからさまに胡散臭そうに思う態度を隠しきれていないし、サメはサメで、カメラの向こうに意識が向いているらしく内心が見えない。
むず痒いような、アウェー感があった。
「というわけで、早速その『いる』ってところに、向かっちゃいたいと思いま~す……」
小声で、茶化すようにサメは歩いていく。その後ろをワニがついていき、さらに頬澄が続く。風呂場にそんなにぞろぞろと何人も連れ立って行ってどうする、と一瞬新波は移動を躊躇った。
「い、行きます……?」
小声で訊ねてきたのは、ウサだった。答えるわけにもいかないが、頷いたり首を横に振ったりするのはどうなのだろう。いまだに今日の自分に与えられた役割が何なのかわからない。しかし、確か頬澄は『隣で頷いているだけの仕事』と言ったはずだ。ここは素直に、頬澄に従っていくことにしよう。一瞬だけウサを見てから新波も彼らの方に向かう。結局、ウサも一緒になってついてきた。
「ここですか」
サメが言っているのが聞こえた。
「そこですね」頬澄が答える。
「開ける感じで?」怯えたような声で、サメ。
「それくらいなら、大丈夫だと思いますよ」
サメは笑った。「こえぇ~!」とそれほど怖がっていないような声を出して、浴室の天井を見つめる。
広かった。内心で新波は少し驚く。こういうサイズの浴室が東京都内のマンションの中に存在しているということに。もちろん、知識としてはわかっていたけれど、実感がついてきていなかった。これなら自分でもバスタブの中で足が伸ばせる。大きな鏡がついていて、自分たち五人の姿が写っている。その横にはシャンプー、コンディショナー、ボディソープ、洗顔料……それらが各人の分だけあるのだろう。カラフルな頭を揃えている。
そして天井には、蓋がついている。
「これって上、何が入ってんすか? 前から気になってたっちゃ気になってたんすけど」
サメが訊けば、頬澄は淀みなく答える。「一般的には、水道管や換気管が設置されているみたいですね」
へー、と興味深げにサメが頷く。内心、新波も同じ気持ちだった。そうか。どこの浴室にもあるなと思ってはいたが、そういうスペースになっているのか。
「俺の背じゃ届かないな。ワニ、ちょっと肩車してくんね?」
「大丈夫か?」
「まあ、引っ越してきたばっかだし足台になるもんもないしな」
ちらり、と新波は頬澄を見た。するとそれだけで思うところは伝わったらしく、彼女は言う。
「大丈夫でしょう。うちの助手を補助につけますよ。転びそうになったら支えます」
何も言わずに、新波もそのとおりにする。ワニは一瞬警戒するような目でこちらを見たが、サメに急かされて、結局はその目線も切った。
「よっ、と」
「カメラ、落とすなよ」
妙に堂に入った肩車だった。
というのはいささか奇妙な表現かもしれないと新波は自分で思ったが、そう思ってしまったものは仕方がない。この兄弟はこうして片方が片方を担いで、手の届かないような場所にあるものまで取ってきたのだろうな、という不思議な感覚が胸に溢れた。たとえば、人の家に生っている果物だとかを。
「さあ、何があるか……緊張の一瞬です」
三、二、一、と。
やはり面白がっているような声でサメは言って。
「どん!」
蓋を、開いた。
「…………あれ?」
そして、拍子抜けの声。
「暗くて全然見えないじゃん」浴室の入口、頬澄の隣に立つウサがサメの気持ちを代弁した。「何があるのか全然わかんない」
「ワニ、ライト」
「ちょっと待て」
体勢を変えないままワニがどうにかポケットの中からスマホを取り出そうとしているようだったので、新波はもう少し近付いた。いつバランスを崩しても支えられるように。けれど、ワニはやはりどうにも手慣れた様子で、肩車を保ったまま携帯を取り出した。
「ほら」
「さんきゅ。それじゃ、改めて。みんなビビッて叫んでお母さんに怒られたりするなよ? 三、二、一、」
どん、と言ったのと。
ウサが、「うわぁああ!」と叫び声を上げたのは、ほとんど同時だった。
サメは半笑いのような顔のまま固まって。
ワニは首を傾けながら、茫然としている。
新波だって、当然動揺しているのを押し隠している。平常らしい態度を取っているのは頬澄だけ。落ち着いた声で、彼女は呟く。
「だから、言ったじゃないですか」
黄ばんだ紙に、くすんだ赤文字の書かれた守り札が、びっしりと配管に巻きつくように張り付いていた。