03
「お前、これ見たことあるか?」
電車の中はもうそれほど混んでいない。ピークの時間帯を過ぎたのだ。中央線各停。普通に乗り込んで、普通に座れる程度の混雑具合で、頬澄が端の席に座ったから新波もその隣に腰を下ろした。
「なんだ、これ」
「どうせ知らねーと思った。お前流行に疎そうだもんな」
「その言いぶりだとお前は詳しいみたいに聞こえるな」
「詳しーぞ。私は」へっ、と勝ち誇ったように頬澄は笑った。
頬澄が差し出したスマホの画面に映っていたのは動画サイトだった。そのくらいのことはわかる。映っているのは、若い三人組だった。それも、新波と頬澄のような二十代中盤の若さでは収まらない。二人の男は大学生くらい、残り一人は高校生か、下手すると中学生くらいの女の子に見えた。
「ワニ、サメ、ウサ」緑の髪の男、黒い髪の男、そして最後に少女の順で指差しながら、頬澄は言った。「全員合わせて『イナバ。』」
と、言われても。
全然ピンと来ないままで画面を見ていると、頬澄がスマホにイヤホンを差し込んで、そのイヤーピースの片方を耳に嵌めてくれる。数秒もすれば、彼らが兄妹だということがわかった。「お兄ちゃんたち」とウサが言うのが聞こえたから。
「これからこいつらのとこに行く」
「え」
「私もやってんだ。配信者」
へえ、と素直に驚いた声を出してしまった。そういう人間がこの世にいるということはわかっていたが、まさか自分の友人知人の範疇にもそういう職業選択をする人間がいるとは思わなかった。「すごいな」
「全然。私が一万で、こいつらが七十万」
「一万?」
「チャンネルの登録者数が」
「すごいのか、それ」
呆れた顔で頬澄は新波を見た。「お前、私らの中学校の全校生徒の数覚えてっか?」
「三百弱」口にしてから、新波はちょっと信じられなくて、「お前、すごいな」
にたり、と頬澄は笑った。「そうだ。すげーぞ、私は」
さっきはすごくないって言ってたんじゃなかったか。そう思いはしたが、掘り返してもつまらないか、と新波はその言葉を封印する。
「って、待てよ。それじゃつまり、今からその……配信?をしにいくってことか?」
「動画撮影な。ただ、その動画はたぶん撮らずに終わる」
どういうことだ、と訊ねる前に考える癖がついている。質問は、相手がイエスノーで答えられるものを考えるように。オンザジョブトレーニングの場以外ではまるで回りくどい行動だと思うが、ここ最近は職場以外で過ごす生活がほとんど存在していなかったので、すぐには切り替えられずにいる。
動画撮影、というのはわかる。つまり、頬澄はこの『イナバ。』たちと共同で何かをするのだろう。対談かもしれないし、何かレクリエーション的な企画をするのかもしれない。が、その撮影が、撮らずに終わるとはどういうことか。そしてわざわざその場に自分を急遽雇ってまで連れて行こうとしているのはどういうわけなのか。
「……トラブってるのか? 向こうと」
妥当な判断に思えた。向こうには男が二人。一方でこっちは、自分がついていかない場合は、頬澄一人。わかりやすい想像が新波の頭の中にあった。つまり、共同で動画を製作するはずが、その事前の打ち合わせ段階で何らかの揉め事が生じた。これから行く場でその清算をする予定であり、そのために自分を保険として連れていきたいのだろう、と。トラブルの中身はなんだろう。わかりやすいのは金銭トラブルか。
「は?」
なんて思っていたら、イエスでもノーでもなかった。とんとん、と頬澄はこめかみを人差し指で叩く。頭大丈夫か、のサイン。
「ま、細かいことは気にすんな。お前はどうせ演技とか下手そうだしな。変に前情報見せねー方がいーだろ」
「気にすんな、って」
時給一万の仕事についてその中身を気にするな、と言われたら、だいぶ厄介な想像が頭の中に溢れてしまう。たとえば麻薬の運び屋とか。そうじゃなかったらオレオレ詐欺の金銭受け渡し役とか。
「だいじょーぶだよ」頬澄は新波の反対側、壁に髪を押し付けて、寄りかかりながら言う。「頷いてるだけでいいんだから。猿でもできる。さすがに猿以下じゃねーだろ?」
「握力は猿より低いと思う」
「気にすんな。私もだ」
着いたら起こして、と言って頬澄は目を閉じてしまう。「着いたらって、どこで降りるんだよ」と訊けば、目を瞑ったまま鞄の中から手帳を渡してきた。見ていいのか、と訊くときにはすでに寝息らしきものを立てている。嘘寝だろう、と思ったが、中学時代も授業のほとんどを寝ていたようなやつなので油断はできない。
仕方がないので、勝手に中身を見せてもらった。今日の日付を確認すると、こう書いてある。
『21:00~ 立野駅』
△
駅から十分も歩かないうちに着いた。ファミリータイプだろう、落ち着いたオートロック式のマンション。ああいう仕事をしている人間はてっきりもっと華やかな場所に住んでいるだろうという偏見があったから、少し意外な気持ちになった。
部屋番号がわかるわけでもないから、もうあとは頬澄についていくしかない。大人しく後ろで待っていると、彼女はごそごそとまた鞄を漁り出す。
「お前、犬と狸どっちが好きだ?」
なんだその質問は、と思いながらも特に迷うことなく答える。「狸」
「んじゃほい」
「…………なんだよ、これ」
「見てわかんねーのか」
そりゃ、見ればわかる。
それはどう見ても、お面だった。やや不気味なデザインで狸の顔が描かれた、白い面。でも問題は、どう考えてもそこじゃない。
「これが何か、って話じゃなくて、これは何をするためのものか、ってことを訊いてるんだよ」
「こんなもん被る以外に使い道ねーだろ」
言うや、早速彼女は実践してくれる。自分の分らしい面を取り出して、かぽっと手慣れた様子で被った。向こうの面は狐のそれ。狸の面と同じく、いかにもオカルト的な怪しい雰囲気を醸し出している。
というか、被ってしまえば怪しい人そのものだった。
「はよ被れ。顔バレすんぞ」
「ああ、そういう」
なるほど、とそこでようやく納得がいった。頬澄は顔出しで動画を撮っているわけではないのだ、と。マスクをした人がラジオのようなものをしている場面をいくらか見かけたことがある。ああいうもので、身元がバレないようにしているのだ。最近にCMなんかで見かける配信者たちは、みんな顔出ししているからそういうものかと思っていたけれど。
狸の面を嵌めながら、新波はさらに気を回す。
「なんて呼べばいい?」
「あ?」
「名前。顔を隠してるってことは、名前も隠してるんだろ?」
「ホーマ」
ちょっと考えてから、「ああ、頬澄真乃だから、縮めて」と頷いた。
「んじゃ俺はシンエ……なんか語呂悪いな」
「バエとかでいいだろ」
「おい」
「蠅って意味じゃねーから。あれだよ、あれ。なんちゃら映えってやつ。バエてるぞ~、たぬきヅラ」
何を言っても無駄か、と溜息を吐いて諦めることにした。まあ、別に名前が何だったところで物事には支障を来さない。そもそも、中に入ってから撮影しないかも、なんてことを聞いているのだ。実際のところ、タヌキとか、そのくらいの名前で十分なのかもしれない。
「んじゃ、今から向こうの部屋のインターホン押すから」
頬澄は振り返って、面の前に一本、人差し指を立てた。「お前、こっから先、絶対喋んなよ」
「は?」
「わかったか?」
ああ、と頷いた。指示には面食らったけれど、言わんとすることはなんとなくわかる。とりあえず、立っていればいいと。余計なことは言うな、と。そういうことだ。これもまた、それなりに慣れてはいる。上司に同行してどこかに説明に向かうときなんかは、基本的に会話は上司に任せて、自分は手持ちの資料から根拠事項を補足するのに徹するとか、そういう形式。
頬澄の指が三つ、数字のボタンを押す。それから呼び出しのボタン。
そう間を置かずに、女の叫び声が響いた。
「う、うわーっ! びっくりしたー!」
もっとも、それはだいぶ平和なものだったけれど。
遅れて、あはははは、と明るい笑い声もやってくる。舌ったらずな甘い声で、言葉が続く。
「ホーマさんですかぁ?」
「はい、そうです」
仮面の下で動揺した。
頬澄の言葉遣いの問題だった。中学時代から敬語を使っている場面を一度も見たことがなかった。それが、今、年下だろう相手に急に敬語を使い出しただけでない。声色がまるで変わっていた。まるで生まれてこの方、部屋の窓からしか外の世界を見たことがありません、というような声だった。
「すごーい。その恰好で電車乗ってきたんですか?」
「まさか。瞬間移動してきました」
きゃはは、と屈託のない笑いが続いたあと、微かに男の声が聞こえた。少女の声は遠くなり、振り向いたことがわかる。「あ、うん。そうだね」と。
がちゃり、と音がして、玄関の鍵が開いた。