23
襖を開けて中に入れば、ウサが「わあっ!」と声を上げた。
上げられた方も驚くものである。ワニはびくり、と肩を震わせた。けれどその横に立つ新波は、微動だにしなかった。ついさっき目覚めたばかりだから、まだ周囲のものに対して機敏に反応することができないのだ。
「び、ビビったー! なんだよ、どこ行ってたんだよ!」
サメが立ち上がって、近付いてくる。「あ、ああ……」とワニはそれに頷き返しながら、車座の中に、人を探す。
頬澄の席は、空いていた。
「ホーマさんは、どこに……?」
「あれ? 会わなかった? お前らのこと探しにいってくれたんだけど。すれ違いかな……」
「すれ違い?」
そこでようやく、新波が声を出した。どうしてその言葉を繰り返されたのかわからず、サメは軽く頷き返すけれど、あの時間を共にしたワニは違う。新波の言うすれ違いが、あの五十一話で語ったすれ違いと同じ意味合いを持つことを察したのだろう。「まさか……」と言って、ほとんど絶望的な表情で、新波を見る。
けれど。
「そうみたいですね」
「うわあっ!」
彼らの後ろから、狐面の女はひょっこり顔を出した。そして、ごく普通の口調でこう訊ねる。
「どこに行っていたんですか? 部屋まで探しに行ってしまいましたよ」
「いや、え。えっと……?」
言い淀むワニ。
その一方で、新波は頬澄を見ていた。頬澄は、その視線に、何も言わずに応えていた。
だから、新波が答えた。
「神隠しに遭っていました。みなさんが百物語をしてくれたおかげで、戻ってこれたみたいですね」
冗談めかした声で、そう言った。
あはは、とサメが笑う。他の面々も、微かな笑い声を上げる。どう聞いたって、それは真剣に怪奇現象に遭遇した人間の言いぶりではなかったから。
「嘘ではありません。ですよね、ワニさん」
「え。ええ、はい……」
「いや怪しい。何してたんだこいつらは」
聞かせろよ、と言ってサメはワニの肩を叩くが、そこに回蔵が口を挟む。
「ま、そのへんにして締めよーや。もうだいぶ時間も遅くなっちまったしよ」
「うん、そうですね。それじゃあ、これにて百物語は閉会ということで」今尾がぽん、と手を打って言う。「どうだったでしょう。皆さん、日頃溜まった怨念やら何やら、たっぷり吐き出せたでしょうか」うーん、と周囲を見渡して、「それじゃあ一人ずつ、感想を聞かせてもらうかな。僕を最後に締めの挨拶をさせてもらうので、じゃあ、山城さんから」
「えっ、私!?」
ええと、と言いながら山城が座布団の上に座り直して話し始めれば、やべやべ、と言ってサメが席に戻っていく。それじゃあ、と新波が言えば、ワニは「え、」とだけ呆気に取られる。頬澄が席に戻り、新波がその後ろに座るのを見れば、もう一人で立っているわけにもいかなかったのだろう。サメの後を追って、席に戻った。
「ホラー系のイメージがついてからずっとこういうのに触れてきたんですが、今日は特に楽しかったです。みなさん、ありがとうございました」山城が、頭を下げた。
「それじゃあ次、異堂さんにお願いします」
「はーい。まあその、今回は拙い朗読でしたが、お付き合いいただいてありがとうございました。やっぱり本職の人たちは話が上手だなーと思って、色々勉強させてもらいました。って、イラストレーターが何勉強してんだ、って感じなんですけど」
異堂が話している横で、ワニは、二人を見ている。頬澄と、新波の、二人を。
どういうことですか、と説明を求める目。頬澄は、視線を合わせない。それが後ろ姿でもわかったから、新波はただ、首を横に振って答えた。
一瞬、何か言いたそうにワニが身体が浮かした。けれど、その何かを飲みこんだように、座り直しもした。
「それじゃあ次、ワニさんに」
「あ、え、はい」
「準備しとけよ」笑って、サメが彼の背中を叩く。
ワニはそれに笑い返して、こんな風に喋り出す。
「すみません、後半はほとんど体調不良で外に出てしまっていて」
まずは謝罪。それに今尾が「いやいや。百物語って酔いやすいタイプの人がいるみたいですから。すみません、今度はもっと換気しますね」とフォローを入れる。いやいや、とワニは首を横に振って、
「たぶん、僕自身のせいです。実は、ホラーがすごく苦手なんですよ」
「え」サメが声を上げた。
「え」ウサがワニを見た。
「このとおり、家族にも言ったことがなかったんですけど。だって、なんだかビビリで恥ずかしいじゃないですか」
ワニは頬をかきながら、はにかんで言う。狐と狸以外は皆、彼のことを意外そうな目で見ていた。
でも、と彼は言う。
「なんだか今回の百物語のおかげで、色々吹っ切れた気がします。……実を言うと、さっきシーチさんと外に出ていたときも、奇妙な体験をしてきたんです」
お、と今尾が言う。異堂とサメとウサが、身を乗り出す。
けれど、その好奇心もワニは軽く笑って躱してしまって。
「そっちはまあ、シーチさんの許可が取れたら、今度の百物語にでも話します。できればまた、呼んでください。ありがとうございました」
清々しく、頭を下げた。
その後も、順番は回っていく。サメが、ウサが、頬澄が、回蔵が。考えていたのだろう。まるで淀みなく終わりの言葉を述べていく。そして、今尾に順番は回ってきた。
「さて、それじゃあ主催者がぐだぐだ言っても仕方がないので、手短に。今回は僕の呼びかけに集まっていただいてありがとうございました。どの話もすごく質が高い上に、途中でハプニングもあったりして……本当に、この年でいい思い出ができちゃいました」
へっ、と回蔵が隣で笑う。
「先ほどワニさんからもありましたが、できれば来年も……なんて考えちゃってますので、もしも皆さん、都合が空きましたらまた来年も来ていただければ幸いです」
「そうだそうだ」回蔵が茶化すように、「死ぬほど売れっ子になっててもその日だけは死んでも空けてくれ。幽霊になってでも来てくれ」
笑い声が満ちる。
そして、締めの言葉を今尾が口にする、その前に、ふと彼の目線は部屋の隅に向いた。
そこに座っているのは、新波。
「おっと。それから、設営を手伝ってくれたシーチさんも。何かもし、一言あれば」
口を開こうとしたところで、頬澄が動いた。おそらく、それは他の人間からは見えないほど小さな動き。手を背中側に回して、新波に指を見せている。
その指の向かう先は、襖に閉ざされた、窓の方。
了解、と小さく口の中で呟いて、新波は立ち上がった。お、と皆が驚く視線を受けながら、歩いていく。頬澄が指さした場所へ。
そして、襖に手をかけて、言った。
「このような機会に呼んでいただき、ありがとうございました」
開く。
わあっ、と声は響いた。
そこにあったのは、緑色の海だった。
遠くに見える夜の海に、その水面の月が砕けて舞い散るような、絶え間ない無数の光。ちらちらとそれは舞う。踊る。どこか遠くを目指して、水面から空へと、上っていく。
月蛾の群れ。
その美しい翅が、月明かりに輝く、光だった。
「また、よければお声かけください」
そう言ったときには、もう誰も、彼の言葉を聞けていない。
席から立ち上がって、窓辺へ寄って。時も言葉も忘れたように見入るものもいれば、感動の声を上げる者も、あるいはこの光景を伝えようと、カメラを慌てて持って来るものもいる。
ただ一人、座っているのは頬澄だった。目線が合って、新波は彼女の下に歩いていく。
座ったままの彼女に、何も言わずに手を差し伸べた。
彼女はそれをじっと見つめた。そして、カメラがどれも自分の方を向いていないことを確認すると、ふん、と言ってそれをはたいて、自分で立ち上がった。狸の面の奥で新波は、やっぱりな、と笑っている。
窓の外に夢中になる彼らの、少し後ろに。二人は並んで立つ。
決して、狐の面は狸の面を見なかったけれど。
狸の面は、狐の面を見つめながら、こう言って溢した。
「ありがとな」
月蛾が、月に上っていく。
物語の終わりを、彼らはずうっと、最後の明かりが消えるまで、ずうっと眺めていた。




