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 月の、青白い明かりが部屋に差し込んでいる。

「……雨、上がってたんですね。気付かなかったな……」

 それを眺めながら、ワニが言った。雨上がりの濡れた大気の中を通ってきた月明かりは、それが理由なのか時折濡れたように揺らめいて、だから、この部屋まで海の中にあるように思えた。

「あとは、待ってるだけですか」

「そうなりますね。ホーマから、連絡が来るはずです」

 そう言って、新波はスマホを握りしめる。着信も何もない。合図をすると言うのだから、おそらく向こうから電話がかかってくるのだろう。決して見逃すことのないように、着信音量は最大にしておく。ぴっ、と間抜けな音が、部屋の中に響いた。

 はぁあ、と大きく、ワニが溜息を吐いた。それから、はは、と力なく笑って、

「なんだか、もう、笑うしかないですね」

 そんなことを、シーチに零す。

「子どもの頃から、ずっとこういうのが怖かったんですよ。だからかえって頑なになって、あるはずないって。そう、思ってたんだけどなあ……。こんなの見ちゃったら、どうしようもないですね」

 そうですね、と新波も相槌を打つ。

「さすがに、こんなのを目の前にしたら、という感じですよね」

 それでも、と本当は、心の中では思っている。

 頬澄は、あの『恐れ虫』の話にすら脚色が、嘘があると言った。実際、そう言われればそうなのだろうと納得できるだけの、理屈を見せて。

 けれどそれも、本当は理屈ではなく、耳触りのいいストーリーに過ぎないんじゃないだろうか? あらゆるホラーに、嘘は紛れている。こんな奥地の民話に描かれた言葉ですら、歴史ではなく単なる物語に過ぎないのなら、霊媒師なんて看板を引っさげて手品を披露している頬澄の言うことは信頼に当たるだなんて、どうしてそんなこと、自信を持って言えるだろう。

 それに。

 頬澄自身だって、自分のことを、信じているんだろうか。

 幻覚まで持ち出して、怪奇現象の説明ができてしまう彼女は。

 実在しないものが出てくる話なんて全部嘘だ、とまで言い切ってしまう彼女は。

 本当に、自分のことを――――

「あの、そういえば、なんですけど」ワニが、言った。

 いけない。首を振って、新波は考えごとを頭から振り払う。状況が落ち着いて、余計なことを考える余裕が出てきてしまった。しかし、まだ本当は、何も終わっていないのだ。集中しよう。決して、頬澄からの合図を聞き逃さないように。

 けれど、余裕が出てきたのはワニも同じだったらしい。訊いてきたのは、今の状況とはやや遠いことだった。

「シーチさんの、呪いをかけられる心当たりって、なんなんですか? やっぱり、こういう稼業の中で起きたトラブルとか……。あ、もちろん、話すのが難しいなら、全然いいんですけど」

 ちらり、と新波は部屋の入り口を見た。玄関の襖を閉じて、さらにその先の扉の向こう。虫が蠢く気配こそするものの、さっきのように、巨大虫が体当たりしてくるような気配もない。そして、背後にある窓の外も。ただ青白い夜が広がるだけ、遠い海鳴りが広がるだけで、何も、何も危ういことなど、ないように思えた。

 だから、少しくらいなら構わないだろうと、そう思った。

「いえ、私の呪いは、前の職で――――」

 そうして、新波も話した。

 自分が、前職を辞することになった経緯。そして、おそらく自分にかけられた呪いは、そのときのものだろうと。

「呪いがどういう形式で行われるものなのかは知りませんが、ワニさんがネット上で受けた中傷が呪いであるというなら、私のものも、呪いとして扱ってさほど変ではないでしょう。呪いの元が、同僚だったのか上司だったのか、それともその両方だったのかは、今となってはわかりませんが」

 いや、とそこまで言ってから、ふと思う。あの虫をよく調べてみたら、どちらなのかくらいはわかるかもしれない。後で頬澄に訊いてみようか。……いや、過ぎ去った場所に、それほどの興味も、今はもうない。

 同情されるかと思ったが、ワニの反応は、少し意外なものだった。

「…………シーチさん、普通に公務員とかで働いてたんですね」

「え」

「あ、いや。そういう意味じゃなくて」

 すみません、と小さく謝って、

「新しいスタッフ、とは聞いてましたけど、てっきりそういう職種の人をよそから引っ張ってきたんだと思ってました。ホーマさんと二人でいるのも、妙に様になってましたし」

 それは、と新波は言いかける。それは、単に頬澄が古い友人だからで……けれどその言葉を口にすることなく、胸に押しとどめた。こんな状況だから、とつい自分の話はしてしまったけれど、頬澄の情報まで勝手に渡すのは、いくらなんでも酷い。まだあまり頬澄の出している動画は見ていないが、たとえば『中学にも行かず各地で除霊行脚をしていました』なんて設定があったとしたら、わかりやすく矛盾が発生してしまう。だから、そうですか?なんて、曖昧な言い方に留めて、ワニの言葉を受け止める。

「それに、この状況でもパニックになったりしないで動いてくれたので……。その、こんなこと言うのもアレですけど、かえってよかったんじゃないですか?」

「よかった?」

「だって、どこにでもいますよ、そんな人」

 まだ二十になるかならないかの歳だろうに。

 先ほどまでとは一転、落ち着いた声で、ワニは言う。

「無意味に攻撃的な人とか、それを受けてどういうわけか反抗しないで、他の人に苦痛を分け与えようとする人とか……。身の回りにも、少なくとも高校通ってる間は見かけました。今でも、ネットなんかでは大量に。もちろんそれぞれ事情があるっていうのはわかりますし、そのあたりを汲んでシーチさんは仕事を辞めたんでしょうけど……」

 そこで、ワニは言い淀んだ。

 ほとんど面識だってなかった相手の事情に踏み込み過ぎた、と感じたのかもしれない。だから、気まずげに口ごもったのに新波は「続けてください」と声をかける。「最後まで、聞いてみたいです」

「……本当にやるべきことって、そのくらいじゃ辞められないことなんじゃないかと、思うんです」

 本当にやるべきこと。

 普通に生活をしていて、まさかそんな言葉を聞く機会があるとは思わなかった。どうして人は生きているんだ、とか、そのあたりと同じ程度の抽象度。けれどそれは、ワニの人生には確かに組み込まれた言葉らしい。あまりにも迷いなく、口から滑り出していた。

「僕も、まあ。中傷とか食らって、めちゃくちゃ腹が立ちますよ。こいつらぶっ殺してやる、とかどうせ大したことない奴らの癖にぐちぐち言いやがって、とか、そのくらいのことは思ってます。でも、音楽を辞めようとか、そんなことは一度も思ったことがありません。ただ、ムカつくだけなんです」

「それはつまり、私は……」

「言い過ぎかもしれませんけど……」

 いえ、と新波は首を横に振った。決して、そんなことはなかったから。

 その程度のものだった、ということだろう。

 確かに、自分でも思う。なんとなく勉強して、なんとなく大学に行って、なんとなく就職した。その程度のものだった。ただ他にすることもないから、真面目にしていただけ。それができるだけの家庭環境に生まれてきただけ。だから、それを手放すときも、あんなに簡単に手放せてしまったのだ。自分でも、そのくらいのことはわかっている。

 けれど、他人にそれを肯定されたのは初めてだったから。

 なんとなく、過去の自分の行動に、赤く丸をつけられたような、喜びがあった。

「そうですね。……思えば、呪いすら、いいきっかけだったのかもしれません」

「いいきっかけ……。そう。そう、ですね」

 ワニも、その言葉に頷いて、ぽつりと、

「そっか――――僕、こんな目に遭っても、全然音楽、辞める気ないのか……」

 好きなんですね、と新波が言えば。

 そうみたいです、とワニも応えた。

 しばらくそのまま黙って、二人で並んでいれば、虫のかさかさと動く音が止みつつあることに気が付いた。

「……終わったんですかね?」

 ワニが訊ねるから、新波はスマホを見た。まだ、着信はない。けれど確かに彼の言うとおり、そういう雰囲気が、扉の向こうからは感じられる。百物語が終わったのかもしれない。となると、残るは頬澄が電話で言っていた恐れ虫の技法にもう一つ足すという手順だけ。

 どうして連絡がないのだろう。まさか、向こうからはかけられないのか。もう一度ダイヤルしてみようかと、画面を操作し始めたところで、

 コン、コン、コン、と。

 扉が、叩かれた。

「シーチさん」

 ワニが立ち上がって、傍に来る。こくり、と頷いて、新波も身を固くする。音は、固いものだった。虫の身体からは出ない。人の指の骨が、扉を叩いたときに鳴る音。

 だから、つまり。

「ホーマか?」

 かちゃり、と。

 きぃいいいい、と。

 襖の向こうで、扉の開く音がした。

「…………え?」

 思わず、ワニが声を洩らす。無理もない、と新波は思う。

 だって、ありえない。ついさっき、自分たちはあそこにバリケードを築いたはずなのだ。扉は内開き。だから、そんなに簡単に、開けられるはずがない。

 人間、だったのなら。

「――――本当に、ホーマか?」

 すっ、すっ、と床を滑るような足音がする。

 かたり、と襖が動く。新波は、ワニと共にそれをじっと、瞬き一つもしないで、見つめて。

 すうっ、と。

 襖が、開けられて。

 そこに立っていたのは、狐面の、和装の女だった。

「ホーマ、さん」

 ワニは安心したように、そう呟く。けれど、新波はそれでもなお、身体を動かせずにいた。

 本当に、頬澄なのか?

 こちらを見つめる視線は、あるいはその立ち姿は、自分の知っているものではなかった。月光にその身を白く照らされて、指の一本、髪の一本に至るまで、何かが満ちている。あるいは、何かが欠けている。新波がまだその名前を知らない、何かが。

 手には虫籠。

 茶色い、月蛾の繭が眠る籠。

 彼女は近付いてくる。何も言わない。畳の上に足を滑らせて、何ひとつとして言葉を口にしないまま、新波の前に立つ。

 虫籠が、畳の上に下ろされた。

 蓋が開かれる。頬澄の白い指先が、繭を摘まみ上げる。

 彼女は立ち上がり、じっ、と新波を見つめた。

 繭を持たない方の腕が、すうっ、と持ち上げられる。その手が狸の面をそうっと外して、畳の上に落とすと、手のひらが、ぺたり、と新波の頬に当てられる。冷たい体温。耳の下をなぞるように指先が動いて、背に湯を注ぎこまれたような感覚が、新波を襲う。

 そうして彼女は、繭を近付けた。

 ゆっくりと。新波は動けない。ゆっくりと、繭が近付いてくる。

 唇に、触れた。

「あ、あ――――」

 彼女が、狐の面の下でそう言えば、抗うことはできない。新波の閉じられた口が、微かに、けれど確かに、開いてゆく。

 繭は、舌の上に乗った。

 それだけでは終わらない。頬澄の指は、まだ離れない。繭を指先で押したまま、もう片方の手は頬を離れない。少しずつ、指先は奥へ奥へと進んでいく。前歯に爪が触れて、それでも止まらない。舌を指で押さえられる。どうしようもできないまま新波の顎は緩んでいく。どんどん指は奥へと入り込んでいく。

 繭が、喉に触れた。

「あ、かっ――――」

 嘔吐きそうになる。けれど、頬澄の指はぴったりと喉を抑え込んで、その震えすら許さない。苦しい。涙が自然に流れる。唾液が口の中に溢れてくる。新波が身体の脇に下ろしていた指先が、びくん、と動いて、ようやく持ち上がる。彼女の肩を掴もうとする。

 そしてとうとう、喉が動いた。

 ごくり、と。

 彼は、蛾の繭を、飲みこんだ。

「――――シーチさん!」

 ようやく目の前の光景に思考が追い付いたらしいワニは、胸を押さえてよろよろと後ろに下がっていく新波に、駆け寄った。もう頬澄の手は離れている。左手を差し伸べたまま、そして右手は唾液に濡らしたまま、ただ、苦しむ新波を見ていた。

「が、あッ――――」

「大丈夫ですか!?」

 うぅうううう、と新波の口から呻きが洩れる。ワニがその肩を掴む。新波の顔が、天井に向けられる。仰け反って、真白い喉仏がくっきりと浮かび上がる。うぅうううう、うぅうううう、と呻きは続いて、やがて。

「――――あ」

 その喉を、何かが通った。

 そして、開いた口から、不意に、飛び出してきた。

 ワニが目を見張る。そして、見たままの名前を、口にする。

「――――月、蛾」

 新波の口から出てきたのは、まさに。

 まさに、美しい、緑色の蛾だった。並大抵の大きさではない。翅を広げれば人の顔を覆いつくせるほどの、大きな大きな、月蛾だった。

 ワニが呆気に取られたのも一瞬のことだった。それは羽ばたいて、彼に向かって飛んでくる。

「うわっ!」

 けれど、顔に当たるはずだったそれは、何の衝撃も残さずに、彼をすり抜けて行った。ワニが閉じた目を開いたときには、その姿は、もうどこにもない。

 それどころか、もう彼らは、和室の中にもいない。

 中庭近くのベンチに、座っていた。

 何もかもが幻で、その幻がすっかり終わってしまったかのように。




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