21
思えば遠くまで来たものだ、と。
この絶体絶命の状況に焦る一方で、どこかしみじみと考えている自分がいることに、新波は気が付いた。
だって、こんなことになるだなんて、夢にも思わなかった。両親は公務員で、自分も一度は公務員になった。それでいて、どうしてたった一年少ししか持たずに退職なんかして、そのときに同僚だか上司からだかかけられた呪いに、怯える羽目になるなんてことがあるんだろう。
そのうえ、中学の同級生が霊媒師になっていて、それによくわからない雇われ方をしているなんて。
今でも頬澄と最初に話した日のことを覚えている。
元々、顔はよく知っていた。田舎の中学で黒マスクを常に着用している人間なんて悪目立ち以外の何者でもないし、それに加えて友達がいないなんて言ったら、ほとんどあの環境では、妖怪と変わりがなかったから。頬澄真乃。直接的ないじめが行われるような学校ではなかったから、実害こそ誰も加えなかったけれど、皆が遠巻きに見ていた。
「おい」
と、彼女から声をかけてきた。廊下で、背後から。振り向くと、不機嫌そうに睨みつけて、こう言った。「邪魔」
一緒になってたむろっていた友人たちは、彼女が通りすぎたあと、口々にこう言った。「怖え~……」「あいつやっぱ性格ヤバいわ」「全然喋んねーもんな。何考えて生きてんだろ」
けれど新波はそのとき、こう思っていた。
気になる。
だって、面白いと思ったのだ。あの中学では、ろくに人間関係に新鮮味などなかったから。学年が上がるたびに行われるクラス替えも、ほとんど意味がない。四分の一は小学校の同級生だから間違いなくすでに友人知人同士であったし、前の学年ですでに同じクラスだったのもいる。そのうえ友達の友達、まで考えればもう知らない人間などどこにもいない。そんな、固定された場所だった。
だから、頬澄は面白いと思ったのだ。わからないから。他と繋がっていないから。だから、興味を持った。あの黒マスクの下にある顔がどんなものなのか。授業中ほとんど寝ているのはどういう生活習慣によるものなのか。体育でマラソンをしているときの走りっぷりは、まさか本気でやってあれなのか。気付けば目で追うようにもなって、けれど、そのことを誰にも気付かれていなかった。だって、誰も頬澄のことを気にしていなかったから。
輪の外に目を向ける人間なんて、誰もいなかったから。
だから自然の成り行きで、保健室登校が混じり始めた頬澄の鞄を、教室から届けに行くのは新波の役目になった。最初は隣の席だから、と理由をつけて。それ以降は、それが当然自分の役割だ、というような顔をして。何度も顔を合わせるうち、頬澄も話しかけてくるようになった。こんな声をしているんだ、と驚いたし、どういうつもりでこんなに刺々しい態度で人に接してくるんだ、とさらに気になったりもした。そういうことの全てが、未だに新波の記憶には鮮明に残っている。今でも連絡を取る中学の友人は多数いるし、もちろん彼らのことも好ましく思っていたけれど、申し訳ない。自分の人生を振り返るとき、我が物顔で現れる過去の代表人物は、頬澄真乃だった。なにせ一度、ゲロを吐きかけられたことだってある。給食の時間の後に保健室に行ったから、鞄を届けに追ったところ、何の前触れもなく、ぱしゃーっと。さすがに言葉を失ったし、あとでクリーニング代も貰ったけれど、その場での頬澄の反応と言ったらなかった。自分が吐いて汚した部分をぼーっと見つめながら、出てきた言葉は「ゾンビ映画みてえ」だ。あまりの他人事っぷりが面白くなってしまって、あはは、と声を上げて笑ったら、かえって我に返った頬澄の方が驚いていた。
卒業式の日に、連絡先も交換できないまま「元気で」と声をかけたときには、もう二度と会わないものかと思っていたし、実際彼女は成人式にも、同窓会にも、まるで顔を出さなかったけれど。
「ん」と言って、あの日応えてくれたのが、ひょっとすると今日のこの日まで繋がっているのかもしれない。
何もかも、わからないことばかりだ。
人生なんて、蓋を開けて、最後までよく、観察してみないと。
だって、箱の外の世界だって、どこかにはあるのだから。
△
「迎え討ちましょう」
新波の言葉を咀嚼するのに、ワニはそれなりに長い時間を要したらしい。階段の途中で立ち止まった新波を振り返って、数秒無言でいて、それからようやく、「あ」の字に口を、ぽっかり開けた。
「な――何を考えてるんですか!?」
「これから部屋に行くにしても、どのくらい百物語が終わるまでに時間がかかるのかわかりません。だったら、バリケードを作る必要がある」
けれど、と頭を振って、
「あの大きな虫がいたら、バリケードを作っても長くは持ちません。あれだけでも、仕留めておく必要があります」
「仕留める、って」
想像をしたらしい。眉間に皺を深く寄せて、ぞわっ、と背筋に立ち上ってくる寒気に、ワニは身体を震わせた
気遣って、新波は言う。
「厳しいようなら、先に部屋まで行ってバリケードの準備をしておいてください。虫が部屋に入ってきそうになっても私が戻ってこなかったら、そのままバリケードを閉じてもらって構いません」
勝算自体は、ないでもなかった。
さっきの椅子で殴ったときの感触は、確かに鈍くはあったけれど、それでも虫には違いない、と思った。つまり、叩けば殺せる。嫌悪感こそあるが、それ以外は大したものではない。だから、自分一人でもやってやれないことはないだろう、と実際に新波は思っていた。
「……いえ、僕もやりますよ」
けれどワニも、同じく覚悟を決めたらしかった。
「大丈夫ですか、虫が苦手なのでは……」
「あの大きさの虫が苦手じゃない人なんて、むしろどこにもいないでしょう。条件は同じです。それに、いつまでも人の背中に隠れているのは、性に合いませんから」
それで、新波は思い出す。彼にかけられた呪い。音楽以外での成功者、と揶揄されること。天才肌、とワニが称した兄の存在。負けず嫌いな性格。
突き放す理由もないだろう、と思った。
これはきっと、彼にとっての克服の場面なのだから。
「それで、具体的にどうします?」
「消火器でも使いましょう。後は囲んで叩くか……」
いや待てよ、と考え直す。
位置関係の確認だ。今、自分たちは三階にいる。一方で、あの巨大虫は二階。
階段が使える。
「周りから、手分けして物を集めましょう。できるだけ重いものがいい」
「物、ですか?」
「階段から落とすんです。落下エネルギーが加わるから、投げるだけでもダメージが見込めるはずです」
そうして二人は、周囲から物を集め始める。それほどたくさんの物が手に入ったわけではない。なにせ客室の周りにいるのだ。大抵の扉は鍵が閉まっていて、新波とワニが開けられたのは自分たちの部屋のみ。それも、新波の部屋はいずれバリケードを作成しなければいけないわけだから、中のものを取り出すわけにはいかない。テレビ、金庫、それから椅子やら何やら。その程度が、ワニの部屋から持ち出せたもので、あとは観葉植物だとか、自販機前のベンチだとか、そのくらいが精々だった。
待ち構える。
ぞわぞわぞわ、と小型の虫がやってきて、その奥から、巨大虫がやってくる。
「やりますよ!」
新波の声を合図に、二人は投げた。片方は金庫、もう片方は、テレビ。
「ピィギイイイイイ!!」
階段の下で、もんどりうって巨大虫は倒れた。立て続けに、ベンチと観葉植物も落とす。ぐしゃっ、と音がして、二人は顔を見合わせた。なんとかなった、のか。
「それじゃあ、部屋に行って――――」
「ギギギギギギギギギィッ!」
意気揚々と引き上げようとしたワニの顔が、固まる。びたんびたん、と身体を床に打ちつけて、巨大虫は暴れ狂っていた。ィイイイイイイと歯を軋らせるような声を上げて、のたくって、そして、こちらを見た。茶色の顔が、こちらを、じっと見ていた。
そして、ものすごい勢いで階段を上り始めた。
「ひっ――――」
ワニが怯む横で、新波は考えている。どうにかするしかない。真正面から? 体当たりをされたら? 階段なんて不安定な足場で迎え撃ったら、バランスを崩して虫など関係なく死んでしまうのではないか? どうやって、どうやったら――――
「おォオ!!」
そういう迷いのすべてを無視して、新波は跳んだ。
迷いのない人生だ。やるべきことがあったら、やるべきようにやるだけ。そうして、ここまで生きてきた。こんなところまで辿り着いてしまったけれど。
それでも、性に合っていると思うなら、それをやめる必要なんてない。
巨大虫の顔に新波の全体重と位置エネルギーを乗せた足が、突き刺さった。
「ピッ……!」
巨大虫はそのまま倒れる。そして、階段を転げ落ちていく。一番下まで落ちたときには、流石に仰向けになって動かなくなっていたが、そんな風にして飛び込んだ新波だって、無事で済むはずがない。巨大虫の上に、被さるように転がって、その身体に小さな虫が、纏わりつきつつある。安堵に浸れたのはほんの一瞬だけ。服に上ってくる虫を叩き落として、それに肌に噛みついて細かな痛みが現れればそこにも手をやって、そんな事態に見舞われてもなお、やるべきことを間違えない。走る。バリケードを作りに、自分の部屋に辿り着くまで。けれど、虫たちはわらわらと彼の足元に寄り集まって――――
「どけよォ!!」
それに、ワニが消火器を噴射した。白い煙に包まれて、それに虫たちが巻き込まれたかどうかを知るすべもない。が、とにかく怯むくらいはしたのだろう。新波は階段を駆け上がる。ワニは噴射を終えれば、巨大虫の落ちた場所に向かって空の消火器を投げ棄てる。大丈夫ですか、と新波に問いかければ、大丈夫、と新波は、無理に笑って答えた。
部屋に戻る。バリケード作りは、お手の物になった。
和室ではあるが、その前にある玄関は普通の内開きのドアだ。だから、その前に金庫やら椅子やらを置いてやれば、それで済む。ついでに押し入れから布団を取り出してやれば、重さを増すには十分になる。
そこまでやってから、さあっ、とワニが顔色を変えた。
「山城さんの、」
「え?」
「山城さんが言っていたところじゃないですか。布団の下から、虫が湧き出てくるって。バリケードを作る前に、確かめてません!」
そう言って、部屋の中の点検を始める。釣られて新波も同じように部屋の中を確かめるが、心のどこかでは、こうも確信している。この部屋には、虫はいないのではないか。そう考える理由はいくつかあって、一つは、この場所を選んだ頬澄のことを信じているから。もう一つは、頬澄に倣って、疑うことを覚えたから。
山城ほのかは、本当に虫の夢を見たのか、ということ。
自分とワニの二人はここにこうして迷い込んでいるのに、どうして同じ虫の幻を見た彼女だけは、そうではないのか。もちろん、場所が離れていたからとか、その程度の言い訳は立つけれど。彼女だけは、怪奇現象としての幻ではなく、単なる悪夢として虫を見たのかもしれない、とも説明はつけられるけれど。
ごくシンプルな、可能性として。
彼女がただその場を盛り上げるために、新波の話に乗った嘘を吐いただけ、という可能性も、十分に新波は考慮できていたから。
落ち着いて、部屋の中を調べた。調べ終わっても、虫の姿一匹もなかった。
そうして、確信の裏付けは取れて。
それでようやく、人心地がついた。




