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 新波の退職の理由は、些細なことと言えば些細なことだった。

 両親が公務員だったこともあって、とりあえず公務員になるという選択肢についてあまり迷いが生まれたこともない。国と地方のそれぞれを受けて、両方で内定が出た。地元に戻るか、このまま東京で暮らすか考えて、結局は現状のまま、東京に残ることを選んだ。実家に戻ってからの人生というのが、いまいち上手くイメージできなかった、というのもある。

 業務自体は結構順調だった、と思う。それなりに要領の良い方だったらしく、最初の一ヶ月ほどを過ぎれば、後はそのままずるずるここで一生を終えていくのだろうな、ということにもそれほどの疑いを持たなくなった。新聞の切り抜き、なんていう謎の業務がある一方で毎日少なくとも二十二時を過ぎないと職場を出られないことにはそれなりにフラストレーションも溜まったし、休日のサービス出勤についても思うところがないではなかったが、親の背中を見て育ってきた。だから、その程度のことで「辞めてやる!」と言い放つようなことも、特には生まれなかった。

 決定的なのは、今年の春の人事異動だった。

 課にやってきたのは、パワーハラスメントで悪名高い男だった。こういうことはそれなりに詳しい人間であれば若手職員だって認知している。たとえば、これまでそのハラスメントによって直属の補佐を一人療休、二人退職に追い込んだ、であるとか。精神的に追い詰められた職員が最後に残した遺書を机の中にしまい込んで、どこにも出さずに置いているような人間である、とか。

 あまり、新波はそういう話を頭から信じ込まない方である。大抵の場合、人間が人間を評価するにあたっては尾ひれというものがつく。まさかこんな大きな箱の中で、そこまでひどい人間がのうのうと生きられるはずもあるまい、という予想もあった。だから、結果的にはすべてを甘く見た、という形になってしまった。

 常に何かに苛立っている男だった。誰かが物を訊きにいくと、まずは舌打ちから入る。「そのくらい自分で考えられないのか」というのが口癖で、かといって話を纏めてから持っていけば、印刷してきた紙をポイと投げ捨てて一言「修正」とだけ言う。どこがですか、なんてことを言ったら返ってくるのは「それを考えられないなら給料貰うんじゃねえ」という怒声。

 まず真っ先に参ったのが、新波の一つ上の先輩だった。

 今年度に入ってからというもの残業の時間はどんどん深くなり、椅子を並べて寝床にするのも妙に上手くなった。時刻は午前二時を過ぎていて、頭の中では今日の睡眠時間の計算をしていた。週休ゼロ日にならないだろうか、とも考えていた。そうすれば、もう少しまともな睡眠時間が取れるじゃないか、と思って。睡眠不足が生み出す集中力の欠如は、飲酒時のそれとそう変わりない、という言葉を思い出していた。ここに入省してからというもの、たびたびやってくる日本語として成立していない業務連絡には疑問符を浮かべるばかりだったが、そろそろ新波にもわかってきたころだった。どれだけ普段はちゃんとした言葉を扱えていたとしても、疲労が溜まれば、人間はああなる。週休ゼロ日にならないだろうか。そうして業務時間を平らにすれば、一日に何時間眠れるだろうか。頭の中で計算しようといして、式に最初に置く数字がわからないことに愕然として、もう眠ろうと、そう思ったとき。

 ぷしゅ、と音がした。

 そのとき、執務室にいたのは二人だけ。新波の他は、大井という女性職員だけだった。席は隣同士。だから音は、はっきりと新波の右耳に届いた。

 膝の上で、缶チューハイの蓋が開いていた。

 何を言う暇もない。大井はそれを口元に当てると、信じられないほど背を反らして、ほとんど天を仰ぎ見るようにして、一気に飲み干した。

 カン、と机に置いたときには、もう音がすっかり軽い。信じられないものを見た、と新波が視線を逸らせないでいると、大井がゆっくりと新波の方に振り向いた。茫然とした顔だった。それも、一時的なものではなくて、恒常的に、顔に沁み込んでしまったように。

「私、もうダメかもしんない」

 そう言って、大井はふらふらと執務室を出ていった。ロッカーを開く音もしなかったから、ひょっとすると鞄を持つこともなく帰ったのかもしれない。新波もそれ以上は仕事が手に付かず、その日は一旦家に帰ることにした。

 そして次の日の正午の少し手前、別の階へ書類を届けて帰ってきた新波が見たのは、例の上司の前で大井が泣いている姿だった。

「泣くぐらいなら初めっからちゃんと仕事しろよ、なあ?」

 自分の机に着席して、隣の島の同期に内部チャットツールを使って訊ねた。

『何があったかわかりますか?』

『午後イチの会議資料まだできてないとか』

 ならなおさらこんなことをしている場合ではないのではないか。共有フォルダを確認する。確か、この間決裁が回っていたのを見たな、と思って。大井は几帳面な性格だったから、ちゃんとそれらしいフォルダ名をクリックしていくだけで辿り着けた。ファイルを開く。じっと見つめて、新波は首を傾げた。どこができていないのだろう。

 バン、と大きく机を叩く音がした。そう思って上司の方を見たところ、どうも叩いているのではなく蹴りつけたらしかった。資料が破り捨てられるなんて場面を、新波は生まれてこの方初めて見た。

「俺が悪いって言いたいのか? なあ?」

 声の調子は恫喝そのものだった。上司の大声と、大井のか細い声のいくらかを聞いていたら、ようやく全容も見えてきた。先週回していた会議資料について、昨日上司は確認して、今日のうちにやっておけ、と修正指示を出した。修正というより、差し替えに近い量を。そして大井は力尽きた。シンプルに言うと、まあそういうことらしい。

 どう考えても、もう何もかも手遅れだった。今さら会議資料の作り直しができるわけでもない。何を言うにしても、まずは会場準備を終えてからの話じゃないのか。そう思いながら聞き耳を立てていたら、新波はあることに気付いた。大井が何かを言おうとするたびに、上司は机を叩いたり、大声で怒鳴ったりする。それによって、向こうの言葉を封殺しているのだ。昔、そんな恫喝のテクニックがある、ということを聞いたことがある。

「お前、俺が指示出したとき『できない』ってちゃんと言ったかよ。言ってねえよな。どうすんだよ。お前が『できる』って言ったから、俺はそれを信じたんだろうが。信頼にちゃんと応えろよ。お前昨日帰ったんだろ、家に」

 もうすぐ昼休みで、新波はメールボックスを開いた。内部メールで、こんなものが届いていた。差出人は上司。宛名も何もなくて、件名は『挨拶文』とだけ。内容はこんなもの。

『差し戻し』

 机の上を見ると、何の修正点も記入されていない決裁文書が、ハンコを押されないで返ってきていた。

「あの、」

 バインダー片手に、新波は立ち上がっていた。二人のところまで歩み寄って、大井を押しのけるようにして上司の前にそれを差し出した。

「修正点はどこでしょうか」

 なんだこいつは、という顔をして上司は新波を見て言った。「自分で考えるのが仕事だろ」

「この挨拶文は例年のものを参考に、」

 バン、と上司が机を蹴った。

「お前、取込み中なのが見てわか」

「静かにしてもらっていいですか」

 だから、バン、と新波も机を蹴り飛ばしてみた。

 面白いくらいに上司は黙りこんだ。いきなり自分の手の指がボロリと落ちたのを目にしたような、呆気に取られた表情で。

「今、私が話していますから。最後まで聞いてください」

 もう七回目です、と言いながら新波は上司の前にバインダーを出した。決裁に必要な文書はたったの三枚程度だったけれど、その他の資料も添付している。

「毎年変化を付け加えているのは時事に相当する部分だけでした。大きな法改正もありませんから、その他のところに変更を加える点はないと判断し、その部分だけ更新した形を案として決裁に回したのが三週間前です。その後七回、差し戻しをいただいています。何度か修正点を訊ねさせてもらいましたが、その間一度として明瞭な指示がいただけませんでした」

 ぺらり、とそれを捲って、

「言葉として不自然な部分は一つ残らずこちらで修正をかけたつもりです。また、例年通りのテンプレート的な表現を控えるように、という意図なのかと考え、三回目の決裁からは形式を変えた別案もつけています」

 執務室の中も、途轍もない静寂に包まれていた。正午を告げるチャイムが鳴っても、誰も席を立たずにいた。

「それでも差し戻しをいただいたということになると、もうこちらではこれ以上の改善が思いつきません。自分で考えるように、という事務の方針については承知していますが、私の業務も挨拶文作成だけではありません。申し訳ございませんが、直接修正点をご教示いただけないでしょうか」

 穏当なことを言ったつもりだった。

 正直な話、新波はこの上司のことを一度として優秀だと思ったことはなかった。周囲の職員たちは「あの人は人格に問題はあるけど、能力が優秀だから」ということを口々に言ったが、それはマネージャーとしてではなくプレイヤーとしての話なのではないか、と常々思っていた。常に周囲に当たり散らして不機嫌を伝播させるような人間はどう考えても組織の中で評価されるものではないだろうと思っていたし、何なら「こっちはテメーの脳内当てゲームして給料貰いに来てんじゃねーんだよボケ」くらいのことは言いたくなっていた。

 三十秒くらい、無言だった。上司は新波を見ていたし、新波も上司から目を逸らさなかった。結果として、その三十秒の後、上司は何も言わずに席を立ち、どこかへ消えていった。ベテランの職員がようやくやってきて、「あの人、癇癪起こすといつもああだから、気にしないで。印刷、今のでやっちゃおう」と大井に言い、新波には「苛烈だね」と言った。

 そうだろうか、と思いつつ「すみません、血の気が多くて」と新波は答えた。

 それから一ヶ月くらい、若手の間では人気者になった。「強い」とか「スッとした」とか、大体そんなことを言われた。

 一ヶ月経って最後に、大井から「退職してください」と言われた。

 そうして、新波は退職することになった。

 終わったことだから、特に後悔はしていない。



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― 新着の感想 ―
[一言] 辞める流れが理解できない。
[一言] 訴えろよ(笑)
[気になる点] 最後の流れが今一つ理解できない… 主人公の反抗が原因で大井にヘイトが向かったとかなのかな
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