19
出勤して、始業ベルの鳴る前から仕事を始めようとファイルを探すと、昨日遅くまで進めていたはずのそれがなくなっていた。
そんなはずはない、と思った。けれど、ないものはない。共有フォルダの中に、それが残っていない。
「どうしたんですか?」
焦って何度もマウスをクリックしている新波に、大井が言った。隣の席。去年、新規採用として配属されてきた自分の面倒を見てくれた、年の近い先輩。
つい最近には、嫌な上司に詰められて、泣いているのを見た人でもある。
「いえ、昨日作業したファイルが消えていて……。誰かが動かしちゃったのかな」
「そんなわけないでしょう」
あまりにもきっぱりした言い方だったから、ぎょっとした。大井は顔をこちらにも向けないままで、続ける。
「保存ミスでしょう。人に押し付けたらダメですよ」
そんなわけがない、と思った。小まめに保存しながら作業していた。それに、朝から弄っていたファイルだから、昼に離席する際に全てを一度閉じて、午後の業務が開始するときに改めて開いている。そっくりそのまま、ファイルが消えるなんてことはありえない。保存しているフォルダの場所だって、間違いようがない。
ひとまず、その場は「すみません」とだけ言って流した。どうせ一度作った内容だから、復元するのにそこまで時間がかかるわけでもない。残業を一時間程度増やせば済む話。そして、その時間の増加に対して良心の呵責を覚える必要もない。月百時間の残業をした場合、産業医との面談が義務付けられている。だから、九十九時間で残業のカウントは止まる。それ以降はボランティア。特に自分が操作してそうなる、というわけではなく、勝手にいつの間にか調整されているのだ。どうせいずれそうなるのがわかっているのだから、多少の時間のブレは気にならない。
けれど、二度、三度、と続けば流石に思うところもあった。
誰かが、意図して自分の仕事の邪魔をしている。そういうことを、感じるようになった。
一番の容疑者は上司だった。例の、パワハラのひどい男。新波が反抗して机を蹴りつけて以降は鳴りを潜めたものの、職場の人間関係でそこ以外に軋む部分が見当たらない。どうしてたかが人間の好悪くらいでそういう行動に出るのか、理解はできないが知識としては知っていた。そういう行動をする人間が、この世にいるということを。
証拠がない以上、何を言っても無駄だろう。そう思い、新波は仕事のやり方を変えた。共有フォルダに保管する以外に、個人のパソコンにもバックアップを保存するようにした。そうするようになるまでが一週間。そうしてからが一週間。
個人のバックアップまで削除されるようになった。
だから、深夜に待ち構えることにした。
食事をパソコンの前で摂るようにした。日中はずっとパソコンの番をしている形。出張に出ることもあったが、さすがに人の目がある状態で勝手にパソコンを開けることはするまい。だから、操作可能な限られた時間は、自分が帰宅している時間だけ。そう思ったから、一番遅くまで残業した。日が昇るまであと何十分、という程度の時間。同階のエレベーター横にある、職員証で作動するキーケースに執務室の鍵を返却した。そのあと、エレベーターの近くの休憩スペースで、パーテーションに隠れて仮眠を取っていた。
そうしたら、やってきた。
まだ出勤するにはおかしな時間に、エレベーターの音が鳴った。後をつけた。手慣れた様子でその人は執務室の鍵を開け、新波の席まで動き、パソコンを操作した。個人のフォルダを開いて、作業ファイルを右クリックして。
削除のボタンを押した。
それを見届けたから、声をかけた。
「大井さん」
がたっ、と驚愕とともに、彼女は振り返る。なんで、と小さく呟く。同じ言葉を、新波も返した。
だって、と彼女は言った。
「そうしなきゃ……どうしようも。どうし、ようも」
そうして、泣きだした。
途切れ途切れの声で彼女が言ったのは、こんなこと。
あの一件以来、上司のハラスメントの矛先が全て自分に向いているということ。本当は減ったわけではないということ。新波にまた突っかかられるのではないかと怖がって、見えないところでするようになっただけだ、ということ。見えない分、より苛烈になった、ということ。
「辞めさせろ、って、新波さんを。やり方なんて自分で考えろ、って」
そんな馬鹿な話があるか、と新波は思った。あれだけ自分は好き放題に人を罵倒しておいて、どうして一度真っ向からやられただけでそういう思考になるのだ。しかもそれを人にやらせるのも、やらされるのも。何もかもおかしいだろうと、そう思った。
「ハラスメント窓口に行きましょう」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
最初にも、そう思っていた。ちゃんとした窓口に報告すること。人事かどこかだろう。ポスターを見たことがある。けれど、そうした外部介入による正式な手続きを取るよりも、まだ自分が言った方が穏当だろうと思ったから、あのときはああいう態度を取ったのだ。けれど、そこまでされるのであれば正規の手段を取ることにも躊躇いがない。
けれど、大井は首を横に振った。
「あんなところ、役に立つわけないじゃないですか。そうじゃなかったら、あんな人があのポストにいられるわけない……」
「じゃあ、ずっとこんなことを続けるんですか」
「報告してどうなるんですか? 『あいつは仕事に耐えられないやつだ』って噂が立って終わりです。ハラスメントはする側じゃなくて、される側が悪いんです。……自分でも、そのくらいのことわかってるんです」
茫然とした。
この人は正常な思考能力を失っている、とすら思った。
「そんなわけがないでしょう。ハラスメントに対する意識がそんなに低い方がおかしい――」
「新波さんとは違うんです!!」
夜の建物で、大井は叫んだ。
両の拳を握っていた。俯いていた。顔は見えなかった。けれど、切羽詰まっていることだけは、間違いがなく、わかった。
「私は、奨学金だって返さなくちゃいけないし。ダブルスクールでかかった費用と合わせて、両親に養育費を返すのだってしなくちゃいけないし。この仕事を辞めるわけにはいかないんです。ここで生きていかなきゃいけないんです。ここで、ずっと続けていれば、そう、思って。――新波さんみたいに、たまたまここにいるだけの人とは違う! 違うんです!!」
もう、言葉もなかった。
何でも、選択肢はあった。目の前の大井を無視することもできた。その上で仕事を続けるやり方も、あるいは、上司に対してこのことを直談判したり、あるいは人事に連絡したり。そういうことが頭の中には浮かんでいた。
けれど、そうはしなかったのは。
こんな場所に、もういたくないと思ったから。
「新波さん、退職してください。あなたみたいな、余裕があって、自信があって――惨めになるんです。近くにいられると、自分が。し、死んでほしくなる、くらい……」
お願いします、と言って、泣きながら大井は頭を下げた。
それで、とうとう愛想が尽きた。
一年以上を過ごした職場の、すべてについて。
△
「時々、DMが来るんです。『お前の人気は音楽じゃない』『家族の絆ごっこで売れて楽しいのか?』『本気で音楽やってる人間に申し訳ないと思わないのか』って、そういうのが……」
ワニの言葉は切実で、だから新波も何か慰めの言葉をかけたかったが、しかし今はどうしてもそんな状況ではない。重要なのは一つ。呪いをかけられる心当たりが、自分だけでなく、彼にもあるということだ。
私もです、とワニに告げ、そして自ら立てた、仮説も口にする。
「これは、百物語とは別の怪奇現象なのかもしれません」
「別の、って」
「つまり、『羽の間』のオオミズアオが悪さをしているわけじゃない、単に私たちにかけられた呪いが、こういう形で具現化してるだけなのかもしれない、ということです」
「なんで、」
このタイミングで、という言葉が続くのだろう。だから、新波も考える。どうしてこのタイミングなのか。確証なんてどこからも得られないような事態だから、仮説に仮説を重ねるしかない。しかし、単なる偶然ということもあるまい、と思う。たとえば、この旅館がそうした呪いの力を増幅する心霊スポットであるとか、あるいは、百物語をしたことで、自分たちにかけられた呪いが活性化したとか。
「……なんにせよ、呪いを切り抜けるしかありません」
「ど、どうやって?」
ワニの言葉に、すぐさま答えることはできない。だって、どうすればいいのだ。確かに全容は見えた。これは自分たちに個別にかけられた呪いだ。それが月蛾の幼虫として襲い掛かってきているのだ。けれど、それがわかったところでどうすればいい? すべてを殺せばいいのか? 燃やす、そのくらいしか選択肢は浮かばない。それでいいのか?
ドン、と入り口の扉が揺れた。
びくり、とワニの身体が震える。「な、なん……」
ドンドンドンドン!と、今度は連続して揺れる。まずい、と新波は思う。だってこんなの、一体どうすればいい? 明らかにこれまでの幼虫たちが出せるような音ではない。となると、人? だったらいい。話が簡単になるだけだ。けれど、こんなときは一番嫌な予想が当たるもので――――
バキン、と扉が破れた。
「キィアアアアアアアアアッ!!!」
絶句した。
そこにいたのは、自分たちの胸のあたりまでの体高を持つ、巨大虫だったから。
これほどの大きさになれば足の顫動まではっきりとわかる。ぶるぶるぶる、と巨体を震わせて、何度も何度も、頭から机と椅子に、体当たりを繰り返す。体表に傷がつく。体液が滲んで流れる。
傷がつけられるのか。
そう思ったら、迷わなかった。
「食らえ――――っ」
椅子を一脚、手に取って、振り被って、叩きつけた。
「ピギャァアアアッ!!」
「――――ッ!」
甲高い、笛のような悲鳴。顔を顰めつつ、けれど、することは間違えない。この部屋の奥に逃げる場所はない。怯んでいる隙に、どうにか正面から逃げ出さなければ、後はない。二度、三度、椅子を振り下ろして、頭を完全に下げさせて、
「ワニさん! 走り抜けてください!」
「いっ――――」
「早く! どうにもならなくなりますよ!」
ワニも、長くは迷えなかった。彼自身この状況はわかっている。目に涙を溜めて、一度瞼を下ろすと、次には決死の表情で虫の頭を踏んだ。ぐにり、とゴムのような弾力。「アァアアアアアアア」と金属を擦るような声。ワニが巨大虫を越え切れば、新波も後に続こうとして、
「がッ――――」
頭を上げた巨大虫に、思い切り身体を突き上げられた。
肺への衝撃。思わず呼吸は止まる。もう一度体当たりをかまされて、尻餅を突いて倒れ込む。虫はその隙を逃さない。小さな虫たちが身体に集ってくる。細かな痛みが全身を走る。どしり、と身体の上に巨大虫はのしかかってくる。褐色の顔を近づけて、口を開いて、頭に近付いて――――
「うわぁあああああああッ!!」
それを、後ろからワニが、椅子で殴りつけた。
ゴチュ、と音がして巨大虫が悲鳴を上げる。背を反らす。その隙を逃せない。咳き込みながら虫と自分の身体の間に足を引き抜いて差し込む。それを、思いきり蹴り上げた。
巨体は引っくり返って、すぐには起き上がれそうにもない。身体を叩いて虫を払って、立ち上がる。
「助かりました!」
ワニに礼を言って、二人で部屋を出る。なんとか逃げ切れそうだ。
そう思った瞬間には、次の問題が起こっている。
「虫が――――」
床に、もはや足の踏み場もない。
海のように、蛾の幼虫たちは集っていた。
「どうすれば――――」
「走って! 立ち止まっちゃいけない!!」
ワニの手を引いて、また走り出す。たった一秒その場に留まっただけで、すでに虫は靴を登り始めている。少しでも静止すれば集られる。そのまま食い殺されるかもしれない。とにかく走った。ぶちゅ、ぶちゅ、と靴裏が虫の体液で濡れていく。
階段を見つけた。
まだ、そこまでは虫も来ていない。
当てはない。が、このままここにもいられない。駆け上がった。
客室のフロア。目立った場所はどこにもない。果たしてどこかにまた立てこもるべきなのか。いや、一度破られたということはそれはもう通用しない対応として捨ててしまった方がいいのか。そもそも山城ほのかは部屋の中で虫の湧く夢を見たと言っていた。ならば、そもそもが避難所として機能しないのか。
ワニはもう思考能力を失っている。ただ走るので精いっぱいという様子で、振り向いてもただ新波の背中だけを見失わないよう追いかけているだけだった。自分がなんとかするしかない。でも、どうやって? 思い浮かばない。発想というのは知識と経験の堆積が作る偶然でしかない。今の自分にはそのどちらもが欠けている。それを持っている人間が、彼女が、この場にいれば――――
「…………そうか」
立ち止まった。
それに反応できなかったワニが、背中に当たる。「シーチさん?」と不安げに呼び掛ける。
そうか、と新波はもう一度呟いた。頬澄にさえ、連絡が取れたら。この場を打開する方法だって、思いつくかもしれない。問題は、その連絡手段がないことだったけれど――――
「必要なものは、もう、揃っていたんだ……」
新波は、ポケットからスマホを取り出した。ワニがぎょっとする。さっきの記憶が鮮明に残っているのだ。
「そんなことしたら――――」
「大丈夫です」
きっぱりと、新波は言う。確信に満ちた手つきで、連絡先から、ダイヤルを行う。
もちろん、宛先なんて決まっていて。
『番号を入力してください――――』
入れる数字は、4、8、7。
百物語の場で、頬澄自身が、口にしていた数字。
頭が割れるほどに響いたはずのあの機械音声は、その三つの数字を入れただけで、簡単に止んだ。三回分のコール音の後、がちゃり、と音がして、声が聞こえてくる。
『――――もしもし。シーチですか?』
ええ、と新波は応えた。
信じられないほどの安堵の気持ちを、心に抱えて。




