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「どこに逃げるつもりなんですか!?」
ワニが叫ぶ。けれど、見当など何もついていない。虫から逃れて、それで行き着くところまで。そのくらいしか、今は何も思いつかない。
こんなことなら旅館の間取りをもっとよく覚えておけばよかった。こちらに客室があるということくらいしか覚えていない。どこか、もっといい隠れ場所はあるのだろうか。階段は上るべきか? セオリーから言えば上らない方がいい。脱出が困難になる。けれど、そもそもこの建物の中から出て行くこと自体が可能なのだろうか。上の階層に上ることで何か得られる利益はないのか? たとえば、この旅館に放火してみるとか。一階部分から火を放てば、自分たちが三階まで上っている間に火が回って虫は死ぬかもしれない。煙はどうだ? 煙は上方に溜まる。窓を開けられなかったら、虫が焼け死ぬのと自分たちが窒息するのとで、どっちが早い? そもそも虫を殺せばこの場所から出られるのか?
考えも纏められないまま、振り向いた。
暗闇の向こうで、虫の蠢く気配がする。
「……どこかに、立てこもりましょう」
それが最善策とも思えなかったが、逃げ回るよりは現実的な判断に思えた。この旅館は回廊構造を取っていない。だから、走り続ければどこかで突き当たる。それなら、逃げた先で切羽詰まるよりは、今のうち、まだ少し距離の開いているうちに、どこかにバリケードを築いた方がいい。
「部屋の中に虫がいたらどうするんです?」
「それを踏まえて、探しましょう」
頭の中に走る不快感を、どうにか無視しようと努めた。大丈夫、所詮は虫だ。たとえ少しくらい見つけたって、踏みつぶしてやればそれで済む。嫌悪の感情も、身体の安全と比較すれば大したものにはならない。
目を付けたのは、一階にある部屋だった。客室ではない。畳でもない。椅子があって、フローリングがあって、いくらか本棚がある。休憩室? 詳細は定かではないが、気に入ったのは虫の隠れる場所がほとんどないということだった。押し入れのような収納スペースがないし、床も板が剥き出し。本の冊数も三十冊ほどで多くはない。ワニに「こっちです」と告げて中に入る。素早く本を捲る。ワニにも同じ指示を出す。間に挟まっている虫がいなければそれでいい。いたら叩き出す。本の中にいる程度だったら、本ごと捨てればそれで済む。はずだ。常識的な感覚で言えば。人の身体の中に入っているのよりは絶対に少ない。
「こ、こっちはいません!」
「バリケードを作ります」
ちょうどよく机がある。持ち上げようとする。
「これ、」動揺しながら、ワニが言う。「固定されちゃってますよ!」
迷うことなく、蹴りつけた。一回、二回、三回。ばき、と音がして根元が折れる。言葉を失うワニに構う時間はない。
「扉の前に置いていってください! 俺が壊します!」
当然、新波の足だって鉄でできているわけではない。いくつか机を壊したあたりでもう足の骨がどうかしてしまったのではないか、というくらいの痛みは走っている。が、それが行動を止める理由になるはずもない。六脚。すべて壊せば、あとは持ち運びの利く椅子だけになる。それも扉の前に置けば、できる限りのことはした。そういう形になって、落ち着く。
「……あれがただの虫なら、まあ、これを破ってくるということはないでしょう」そう言いながらも、すでに新波の頭の中には嫌なイメージが浮かび始めている。無数の虫が扉を食い破って押し寄せてくる光景。けれど、それも振り払う。そのときが来たらどうにかするしかない。踏みつぶして渡るでも何でもして。
「足、大丈夫ですか?」
気遣わしげに、ワニが声をかけてくる。どうだろう、と新波は足に手を当てる。どことなく、膨れているような気がした。服の裾を捲って確かめることもできたが、そうはしなかった。たとえば真紫に腫れあがった患部を目にしたとして、自分の気分が落ち込む以上の効果が得られるとは思えない。
「大丈夫です」思いのほか、痩せ我慢でもなくそう答えられた。さっきの音の爆発の方が、よほど気分が悪くなった。こっちはただ痛いだけだから、耐えることの種類が違う。
ただ、と新波は言う。
「痛みがあるのに目覚めない、というのはすごく厄介ですね」
夢のことを考えてみればいい。たとえば、ビルの屋上から落ちる、という内容だったとする。普通は、地面とぶつかった瞬間に驚きとともに目を覚ます。が、今はこうして足を痛めていても目が覚めることができない。これが夢に近いものだったとして、幻覚だったとして、の話だけれど。しかし虫を見た、という三人ともが夢から醒めるようにして元の場所に戻っているのだから、そうした推測をすることが無理筋だとも思わない。
「あとは、何をしてみれば」
「あ、そうだ、さっき」ワニが、バリケードの前から動く。床に散らばった本をいくつか手に取って、「このあたりに、この地方の民話、みたいなものが」
新波も一緒になってそれらの本を手に取った。ひょっとすると、という思いがあったからだ。置いてあるのは、市場に流通している普通の本、という雰囲気ではない。町の図書館にだけあるような、郷土資料のように見えた。この地域の名前に、歴史だとか、地理だとか、そういう言葉が付け加えられている。
『恐れ虫』だ。間違いなく、今のこの事態の鍵になっているのは。それ以外に考えようがない。そして、このことについて今尾は言っていた。この地方の伝承である、と。それならこの本の中に載っている可能性だって、十分にある。
「あっ、これです!」
ワニが言った。確かに、手には民話の文字がある。新波も彼の後ろに回ってその中身を覗きこむ。目次。その中に、確かに『恐れ虫』と書かれていた。三十四ページ、急いで開く。
内容は、こんなものだった。
ある少年は怯えていた。山遊びの間に不思議な影を見たというのだ。
山の怪に違いない、と彼は思った。あの鬼はいずれ人里に降りてきて、村の皆を食らい散らしてしまうに違いない、と思っていた。初めは彼の友人たちも馬鹿にして相手にしなかったが、次の日にはもう一人が見た。三日後にはもう五人が見た。一月が経つ頃にはすでに老人に至るまでのすべてが見たという。
それで、少年は己の恐怖を虫に込めることにした。月蛾(※オオミズアオと思われる)の繭に「鬼」と唱えて息を吹き込んだ。毎晩毎晩吹き込んだ。すると、羽化した月蛾は山へと飛んでゆき、鬼を背負って夜空に帰っていった。以来、山の怪を目にした者は誰もいなくなったという。
たった、これだけだった。
「ダメですね」ワニが、落胆して言う。「ほとんど今尾さんが言っていたとおりです。新しい情報は何も……」
「いえ、少し待ってください」新波は記憶を掘り起こす。「確か、オオミズアオに関する話はもう一つあったのではないですか」
もう一度、目次を見る。『鬼火』。そう書かれたページを開く。十七ページ。
短く、こう書かれていた。
墓場で見られる青い鬼火は月蛾(オオミズアオ)である、と老人は言った。
それならば月蛾を呪いに使うこともできるだろう、とその息子は考えた。月蛾の幼虫をたくさん集めて、村の長者の庭に穴を掘って埋めた。見事長者は死に、その財産は村の者たちに分け与えられたそうである。
ようやく、と。
ようやくここで、話が見えた、と。
新波は思った。だから、ワニに、確認のために訊いた。
「呪われるような心当たりは、ありますか」
彼は、顔色を蒼白にしながら、こう答える。
「あります」




