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「場所を変えましょうか」
気遣って、新波は言った。普通に考えれば、ただ誰かが使っているだけだろうと思うが、昨日のことを考えるとやや気分が落ち着かない。それなら、ロビーの方に戻ってそっちのトイレを使った方が気持ちが楽だろう、と思って。
そうですね、と素直にワニも頷いた。だから、扉を押して、もう一度廊下に出てきた。
電気が消えている。
さすがに、嫌な予感を無視するわけにはいかなくなった。
「……『羽の間』に行ってみましょうか」
「冗談でしょう」ワニの声は、冗談めかそうとしていたが、震えていた。
あのとき、自分が見た幻覚と同じだ。通路のずっと先、受付ロビーから赤橙の光が零れているのだけが頼り。『羽の間』に戻れば、虫の埋め込まれた面々が待っているのではないか、という予想が容易にできてしまう。
ぶるり、と身体が震えた。
前回は一人、今回は、二人。横目にワニの顔を窺った。暗さのあまり詳しくは見えないが、ついさっき、トイレに入るまで一緒に喋っていたのとさしたる違いがあるとは思えない。けれど、幻覚の中で『羽の間』に入ったとき、最初は今尾も普通に喋ってはいたのだ。
隣に立つ彼も、本当に彼自身であるのか。
「ロビーに行きましょう。誰かいるかもしれません」
けれど。
自分より年下で、ホラーが苦手だと言う彼を「信用できない」なんて理由で置いていくのも忍びない。一度は彼のおかげで生きて帰ったのだ。偽物だったときの後悔と、本物だったときの後悔を比べてみれば、迷うことなく答えは決まる。信じよう。そうして痛い目を見るなら、それでもいい。信じるというのは、何の根拠も見つけられないときに一番必要な行為なのだから。
『羽の間』の前を通り過ぎる。灯りに導かれるようにして、歩いていく。ロビーに着けば、フロントと、待合場所と、喫茶スペースがある。人は誰もいない。どう見たって、異常な空間であることはわかっていた。
一縷の望みをかけて、カウンターの呼び出しベルを鳴らしてみる。十五秒待ったが、誰も出てこない。人がどこかで動いている気配もなかった。
「そうだ、携帯」
期待に満ちた声で、ワニはスマホをポケットから取り出した。けれど、もうほとんど結果はわかっているようなものだ、とも新波は思う。
「電波、通じてますよ!」慣れた手つきで画面を操作して、「兄にかけてみます」
ワンコールも聞こえないうちに、音声は流れ始めた。
『番号を入力してください』
男とも女ともつかない、合成音声。それからプー、と長い機械音。一度「ひょっとすると」なんて思った分、ワニの落胆は激しかったらしい。スマホを顔に当てたまま、しばらく茫然としていて、
『番号を入力してください』
『番号を入力してください』
『番号を入力してください』
その音が、どんどん大きくなっていった。
思わず新波の身体も反応する。尋常な音の大きさではない。耳をつんざく、という形容が似合う。思わず眉をしかめるような音量は、どんどん手に負えなくなっていって、雨の静かな旅館の中で異様なほどに響き渡る。誰かに聞こえるのではないか。いや、誰かではない。『羽の間』にいる虫たちに嗅ぎつけられるのではないか。
『番号を入力してください』『番号を入力してください』『番号を入力してください』『番号を入力してください』『番号を入力してください』『番号を入力してください』『番号を入力してください』『番号を入力してください』『番号を入力してください』
「ワニさん!」
もう黙ってはいられない。耳のすぐ隣を航空機が飛び過ぎていくような轟音。これ以上は我慢ができない。切ってください、と叫ぶが、スマホを操作するワニは、慌てた様子のまま、電話から聞こえる声は決して鳴りやまない。
頭が割れるような音。爆発音、と言ってもいい。新波はワニの手からスマホを奪い取る。切断の赤いボタンを押す。押す。押す。切れない。押しているのに鳴りやまない。
ガチャン、と。
ワニが新波の手からスマホを取り上げて、床に叩きつけた。
小さく、死にかけの虫のような声をスマホは上げ続けている。番号を入力してください、番号を入力してください――
それを、ワニの靴底が踏みつけた。
踵で、体重を乗せて、ぐりぐりと、執拗に。無事なパーツなど一つも残しておくものか、という執念すら感じるような動きで。
音が止んでも、まだ頭痛が残っている。あのまま続いていたら、比喩でなく頭が割れていたかもしれない。ぐわんぐわんと耳の中に残る反響に、自分の声の大きさがわからなくなりながらも、何とか新波は声を発する。
「い、いいんですか」
「構い、ません。私用のには、大したデータは入れてませんから」
げほ、とワニが咳き込んだ。新波もその気持ちがわかる。あまりにもひどい音だった。内臓に損傷が出たのではないかとすら思う。吐き気をこらえるように、天井を見上げた。
「――――――は」
見上げなければよかった、と思った。
ロビーだけは、どういうわけか足元の間接照明が生きている。蝋燭灯りにも似た橙の淡い光が、天井の闇までを少しずつ弱めている。だから、はっきりとその姿が目に映ってしまった。
「シーチさん?」
ワニも、新波の様子に気が付いた。呼び掛けても応えが返ってこないのを不思議がって、何を見ているのだろう、と同じように頭を傾けた。
「う、」
見なければよかったのに。
「うわぁあああああああああっ!!!!」
びっしりと天井に張り付いている、蛾の繭なんて。
「はあっ、あああぅっわ!!」
十や百ではきかない。数千はある。親指ほどの蛾の繭が、天井のいたるところ、隙間なく敷き詰められている。もはや死体と間違えることもない。生きている。物量が大きくなれば、その息遣いがわかるようになった。繭の、その蛹の中で、どろどろになった幼虫たちの命が無数に自分たちの頭上に陣取っているのがわかる。目元に生温かい息を吹きかけられているような不快感。ワニは思わず新波に縋りつく。それで、ようやく新波も意識を取り戻した。
ここにいていいわけがない。
「行きましょう」
ワニの肩を掴んで、無理矢理に歩かせる。走り出す。玄関は自動ドア。指をかける。開かない。足が出た。
ガン、と。
ガラスぐらいなら簡単に割れるような力を込めたはずなのに、罅一つ入らない。
「む、無駄ですよ!」
ワニが叫んだ。
「僕のときは海に出たんです! だったら、外に出ても意味がない!」
ならどこに、と考える。『羽の間』は論外。旅館の部屋も、山城が眠っている間に見たというのだから、どうしようもない。だったら後は? ロビーに居続けて、虫が降ってくるのを待つか?
ふと、頬澄の言葉を思い出した。この旅館に来る前、自分に怪談のリストを渡した彼女が、言った言葉。
「ネット怪談の方が、商業で作られたホラーよりも怖いことっつーのはまあまあある。なんでかって言うと、リアルだからだ」
覚えている。まだ教えられて、日も浅い出来事だから。
「基本的に映画だとか小説だとか、そういうのになるホラーっていうのは、前提からして偽物なんだよ。本物なわけがない。だから別に何も感じない。表面はざらっと撫でるかもしんないけど、二日もすれば元通りだよ。それに比べて普通の怪談はもうちょい重い。実際あったのかも、と思わされるからな。ちょい考えればあるわけねーってわかるけど、特に顔も見えないような相手が口にしたことなんかは、嘘の確証を取りようがない。だから、嘘だってわかりながらも、もうちょっと深いところまで手が届く。それが一つ目のリアル」
一つ目?とあのとき自分は訊ねた。ああ、と頬澄は頷いた。
「もう一つは、リアルタイムだってこと。そのリアル。よく言われるだろ? 『その怪談、最後に全員死んでんだから誰も伝えらんねーじゃん。はい嘘確定』とかさ。普通の怪談っていうのは、語られる時点で終わった話なんだよ。だから、えげつない勢いで人が死ぬ話なんかは、そもそもが実話怪談になれない。どっかには逃げ道を作るしかない。だけど、ネット怪談は最後に書き込みを途絶えさせれば、それで完成するってこともある。だから普通のよりももっと怖くできる。関係者全員死ぬっていう怪談を実話って体でできるわけだからな」
関係者が全員死ぬ怪談。
リアルタイムで、という点では今、自分が立たされている状況は、普通の怪談よりもそっちに寄っていて。
そんな終わりはゴメンだと思うなら、自分で考えて、自分で動くしかない。
「とにかく、ここを――――」
ぼたり、と。
背筋も凍るような、音がした。
やわらかなものが、固いものに当たる音。見るまでもないのに、見てしまう。二人揃って、床の上に落ちてきたものを、注視してしまう。
虫が。
ぼとぼとぼと、と。
「離れますよ!!」
ワニの手を取る。外には出られない。『羽の間』の方向はすぐに突き当たってしまうから、向こうに逃げる意味は薄い。
だったら、とにかく旅館の、奥の方に逃げていくしかない。
行き当たりばったりでも、とにかく、今は。
必死の思いで、駆け出した。




