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「……いや、まいったね」
消えたんです、とワニは言った。突然出てきた芋虫は、突然に消えたのだ、と。頬に手を当てながら、回蔵は胡坐をかいた腿に肘を乗せる。眉間に皺も寄せて、
「一応確認しとくが……若い衆がおじさんをからかって遊んでる企画、とかじゃないんだよな」
特にそのへんの狐の姉ちゃんが怪しいんだけど、と右隣を見る。まさか、と頬澄は手を横に振ったが、一つ一つの動作が白々しい。
「ドッキリでもいいじゃないですか」異堂が手を打った。「そんなに面白いものがあるなら俺も見たいな。やっぱり三人は、霊感とかあるんですか?」
新波と、山城と、ワニ。三人の目線が交錯する。どれも、こう訴えていた。
心当たりがない。
代表して山城が首を横に振ると、ますます異堂は面白そうな表情に変わる。立ち上がって、中央に置かれた繭籠に近寄った。「これが何か、悪さをしてるってことなんですかね」
「そんなはずはないと思うんですけどね。ただの蛾の繭だから……」
今尾が言いながら立ち上がって、同じく繭籠を覗きこむ。そして「あれ?」と声を上げた。他の面子も、その声に釣られて近付いてくる。
「どうしたんすか?」とサメ。
「いやね、なんだか最初に持ってきたときより、大きくなってるような気がして」
「羽化しかけてんじゃねえのか?」と回蔵。
「あ、でもそれはそうだよ」今尾が思い出したように言う。「百物語の終わりくらいにちょうどよくなればいいな、と思って、日数の経ったのを連れてきたから」
「ねえ、これってさ」ウサが、不安と好奇心がないまぜになった顔で、サメに向けて訊ねる。「羽化すると、なんかすごいことになるやつじゃない?」
「すごいことって?」サメが訊き返す。
「そりゃ、妖怪が出てくるとかでしょ。青行灯」代わりに、異堂が答える。
「あの、ワニさん大丈夫ですか?」気遣わしげに、山城が言う。「顔、真っ青ですけど」
確かに、彼女の言うとおりワニの顔色はほとんど蒼白と言ってよかった。血色が悪く、唇は白く変わりつつある。
「ちょっと、外に出てきます。気分が悪くなってきて……」
「私が付き添いましょう」
新波が名乗り出る。近寄って、肩を支えるようにして、ワニとともに廊下の方へと向かう。いいんですか、と問われれば、構いません、とも答える。元からそのつもりではあった。百物語の場にいると昨日のようになってしまうかもしれないから、と頬澄から事前に、小まめに途中退出をするように言われていたのだ。
他の面々からの心配の声を受けつつ、襖を開ける。隣を見れば今にも嘔吐しかねない様子で、新波は訊ねる。「トイレに行きましょうか」
「すみません、トイレは今は……」
「では、中庭……っと」昨日の調子で案内しようとして、思い直す。「雨か」
夕方から凄まじい勢いで雨は降り注いでいた。夏の雨は梅雨よりも手に負えない。旅館の中にいればそれほどは伝わってこないが、それでもまだ降り続いているだろうことは、時折建物を震わせる雷の音を聞けばわかる。
「いいです、構いません。あの部屋から出たかっただけです」そう言うと、著しくワニは顔を歪めた。「虫が、苦手なんです」
それはさぞかし、と新波は思う。つらかっただろう。大して虫に対する思い入れがない自分でも、ああしてもぞもぞ動いている幼虫を目の当たりにするのはかなりきつかった。元から苦手な人間にとって、ほとんど拷問に近しい体験だったというのは、想像に難くない。
そのうえ、怪我までしているのだ。
中庭近くのベンチにワニを座らせる。雨が月光を遮っているからか、随分薄暗い。蛍光灯の明かりすらも、ここだけは妙に弱いようにすら錯覚した。ワニは相当参っているのか、顔を覆って、身体を丸めて、俯いてしまう。
「……これ、もしかしてドッキリでもなんでもないんですか」
ぼそり、とワニが言ったのに「私の知る限りでは」と答えれば、深い溜息が返ってきた。
「実は、僕、」一世一代の告白をするように、「ホラーも苦手なんです」
さすがに、新波も驚いた。
「それでよくこの企画に参加できましたね」あんまりな言い方だったけれど、重ねて、「それに、事故物件に住んだり」
「負けず嫌いなんです」溜息混じりに、彼は言う。自分でもどうにもできない、と嘆くような声で。「兄がものすごく天才肌で……。比べられるのが嫌だったから。両親も音楽関係で、兄の方が才能があって、それでずっと悔しくて、」
げほ、と咳をした。新波はその背を撫でる。彼の言うことは、負けず嫌いというよりも。
「人に弱みを、見せたくないんですね」
「……そう、ですね。結局、こんな情けないことになって」
「差し引きはゼロでしょう」淡々とした声で、「昨日、私もワニさんに助けてもらいましたから」
ふっ、とワニが顔を上げた。顔色は相変わらず悪い。けれど、どこか険の取れた顔つきだった。
「……シーチさんが見たっていう話、本当なんですか」
「本当です」迷いなく、新波は頷く。
けれどその後、こうも付け加えた。ただし、ホーマから聞いた話なのですが、と。昨日受けた、幻覚を見る条件についてのくだりを、一通り。
「意外でした」
聞き終えて、そう告げたときのワニの声は、もうやわらかくなっていた。
「霊能力者を自称する人って、もっとなんでもかんでも霊のせいって言うものかと」
「私もそう思っていました」
「シーチさんも?」
「あ、」
言っちゃいけなかったかな、と口元を押さえると、やはりワニは意外そうな顔をした。
「もしかしてシーチさんって、あんまりそういう業界の人というわけではないんですか?」
「……すみません。ちょっとまだ、キャラが固まっていないので」
「…………ふ」
口元を綻ばせて、ワニは笑った。アイスブレイク。ようやく、初対面のときから間にあった壁のようなものが溶けたように、新波は感じた。
並んで、ベンチに座った。雨の音が響いている。風も窓に吹き付けているのがわかる。肌に触れる夜の空気が夏のそれと思えないほど冷たいのは、きっと近くに海が佇んでいるからだった。
かち、と電灯が一瞬、明滅した。
二人は同時にそれを見上げて、それを拍子に、ワニが呟いた。
「……このまま戻らなかったら、マズいでしょうか」
「いいんじゃないですか」それに軽く、新波は答える。「サメさんもウサさんも、無理強いするような方ではないのでは」
「僕もそう思います。けど……」溜息。けれど、さっきまでの深刻なものとは違う。ごく普通の、苦労人の声。「出なかったら、あとから文句言われるかもなって。それに、これまで冷静沈着みたいなキャラで通してきたから、今さら虫が怖いとか、そんなこと言いづらくて」
「そのときは、」脳裏に、頬澄のあのにたり、と笑う顔が浮かぶ。「嘘を吐きましょうか」
「嘘?」
「ええ。二人でよくわからない虫地獄に迷い込んでしまって、必死で彷徨っていたとか、そういうことで」狸面の奥で笑っているのが、きっと声でもわかる。「口裏合わせをしましょう」
ワニは笑った。いいですねそれ、と言って。肩がすとん、と落ちた。気が抜けたように。それから、急に肩を竦めて、
「すみません。実はさっきから、トイレに行きたくて」
「ああ、私もです」
「怖くて行けなかったんですけど」頭を振って、「……なんか本当に情けないな」
「私もですよ」
立ち上がって、少し歩いた。二度目になるトイレ。嫌な記憶はあるけれど、と思ってから、ふと新波の心に差しかかるものがある。
そういえば。
ワニの傷は、一体何だったのだろう。
思えばだ。自分の見たものは、頬澄が説明してくれた。催眠状態に似た、意識の混濁した状態で見る夢幻。そう言われれば、確かに納得できなくもない。
けれど、ワニの身体に残っていた細かな噛み傷は?
幻を見るだけならともかく、その幻に傷をつけられるなんてことがありえるのか?
考えた。頬澄が言いそうなことを。たとえば、そう、こんな。
「因果が逆なんだよ。幻を見て傷ついたんじゃなくて、傷ついたから傷つく幻を見たんだ。たとえば岩場で足をぶつけたとか、そっちの方が先にあって、脳が感じた痛みに反応してそういう幻もできたってわけ。寝小便と同じだよ。海の夢を見たから漏らすわけじゃなくて、漏らした感触に反応して海の夢を見るってわけ」
我ながらこのイメージはどうなんだ、と思わないでもないが、仕方がない。未だに彼女に対する印象は十年前のものが強い。黒マスクをつけて、口を開けば罵倒ばかりで、語彙が全体的に汚くて、まあそういうの。この十年間で何らかの変化が見られていたとしたなら、これから知っていくことになるだろう。
しかし、結構的確な説明だ、とも思った。傷がついた方が先。なら、その傷を見せてもらえばわかるかもしれない。じっと見れば、それは虫の噛み跡ではない、ということが知れるかもしれない。トイレを済ませたら、ちょっと打診してみようか、そう思って、ワニが扉を開けるのの後ろについていった。
そうしたら、見た。
個室の扉がまた、一つだけ閉まっているのを。




