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「ね、シーチさんもそう思いますよね?」

「は」

『羽の間』に戻ってきてすぐにかけられたのは、そんな言葉だった。蝋燭の薄灯り。入口近くにウサ、頬澄、サメ、山城の四人が立っていて、ちょうど襖を開けた瞬間に会話に巻きこまれた形になる。

「いいえ。シーチもそう思いませんよ」

 何の話だったかはわからなかったが、頬澄が「ねえ?」と圧をかけてくるので、とりあえず同調しておく。「そうですね。私もそうは思いません」

「えー……。ひどーい……」

 む、とウサが肩を落とすのを見て、一体何の話をしていたんだ、と気にはなったが、見えない角度から頬澄が背中を押してくるので、軽く会釈だけしてそこを通り過ぎた。ワニ、異堂、回蔵の三人は、すでに席についている。話し込んでいるといえばワニと異堂の二人もそうだったが、どうにもホラーの話をしているようには見えなかった。ごくごく普通の同年代の友人同士のように談笑している、というのが受ける印象には近い。

 時計を見ると、もう十五分の休憩は終わる頃だった。もう座っておこう、と自身の席に戻ろうとすれば、「なあ」と回蔵がその背に声をかけてくる。

「今尾のやつ、どっかで見かけたか?」

「いえ」振り向いて、簡潔に答える。「何かありましたか?」

「いや、もうそろそろ再開の時間だろ? あいつ、時間に余裕を持つタイプだから、なんか妙だと思ってな。いつもだったらもう席に戻ってるはずなんだが……。いや悪い、考え過ぎだな。気にせんでくれ」

 けれど、回蔵の不安は、一つ的を射たものだった。

 他の面子が自身の席に座って、予定していた再開時刻を三分過ぎて、それでも今尾の姿が見えない。

「どうしたんだろ」真っ先に口を開いたのは、サメだった。「迷ってたりして」

「迷うような造りでもなくないですか」それに、素朴な反論を見せたのが異堂。ワニも、異堂の言葉に頷いている。

「ちょっと呼んでくるか」

 そう言って回蔵が立ち上がろうとしたとき、それを制するように新波は立ち上がった。出過ぎた真似かとも思ったが、今日の仕事は雑用なのだから、このくらいのことは許されるだろう、と思って。

「私が捜してきます」

「そうですね」間髪入れず、頬澄も頷いてくれる。「むしろ、休憩明けで繋いでしまった方がいいでしょう。コメントもざわついているみたいですし。回蔵さん、しばらく仕切りをお願いしても?」

 ああ、と回蔵は頷き、座り直す。すれ違いざま、悪いな、と頭を下げられたので、新波も同じく頭を下げ返す。

「あの、トイレかもしれません」

 とは、山城が言った。

「さっきまで、話しすぎて喉が乾いたのか、水をたくさん飲んでいたので」

「わかりました、ありがとうございます。では、そちらから見てきます」

 外に出て、襖を閉めて、まずは右左を見る。左の方がロビーへと続く道。右の方が、さっき回蔵と話していた庭へと続く道。何となく、ここに集まるような人間たちはより薄暗い方へと進むようなイメージがある。右に向かって、新波は歩き出す。確か向こうにも、トイレの表示はあったはずだ。

 自然早足になるのは、脳裏に過る光景があるからだった。昨年のこと。夜方の残業中にトイレに向かったところ、そこで人が倒れているのを目撃したのだ。当時の職場のトイレの明かりはセンサー式で、その人が倒れてから随分な時間が経っていたから、真っ暗闇に足を踏み入れた途端に死体のように人が浮かび上がってきた、という形になる。ほとんど叫び声さえ上げそうになった。単なる過労と寝不足だったらしく、その肩を揺すれば男もすぐに目を覚ましたが、あれが本当に、たとえば心臓発作だったりしたらと思うと、その後三日程度は肝を冷やした。

 いまも、ひょっとすると、と思う。トイレで倒れているのではないか。当然、ただ腹を壊しているだとか、あるいはそもそもトイレ以外の場所にいるだとか、そういう可能性の方が高いのはわかってはいるのだけれど、人間は経験から物事を推測してしまう生き物である。頭に浮かんでくる『トイレの床の上に突っ伏した今尾』の像を拭えないまま、トイレまで辿り着いた。

 電気が点いていた。そしてどうやら、スイッチがあるのを見れば、その電気はセンサー式ではなかった。

 個室の扉が、一つ閉まっている。

「今尾さん?」

 声をかけた。人違いかもしれない、とは思わないでもなかったが、ここに来るまで、『羽の間』あたりに人の姿がないことは確認している。そしてこのトイレの向こう側にあるのも、精々が庭くらいのものだ。宿泊客であれば自分の部屋のトイレを使うだろうし、ここにいるのが今尾以外である可能性は低い、と思う。

 コンコン、と個室の扉をノックした。

「今尾さん」

 返事はない。

「……もし、今尾さんでなかったら申し訳ありません。ただ、中で倒れているというわけではなければ、声を上げるか、ノックを返すかしていただけませんか」

 返事は、ない。

 人違いなのかもしれない。

 トイレの邪魔をされて苛立ち、こちらの声に反応しないだけなのかもしれない。

 けれど、もしも中で倒れていたとしたら、一刻を争うことになるかもしれない。新波はやはり、迷わなかった。

 個室は、上下に隙間がある。だから、上か、下から覗き込めば状況が知れる。

 いきなり上というのも、と考えた。もしも倒れているようなら、下から見れば、ある程度身体が見えるはず。そう思って、新波は身体を折り曲げて、トイレの床に顔を近づけて中を覗き見た。

「…………?」

 そうして、疑問を覚える。

 どうして、足首すら見えないのか。

 中にあるのは洋式便器だった。となると、その便器の上に立っているわけでもない限り、座っている人間の足首は少なくとも見えるはずなのだ。そして便器の上に立っている、というのは常識的には考えづらいシチュエーションである。

 もしかすると、誰も中にいないのか。

 トイレの鍵は棒鍵だった。回転式のものであれば、十円玉でも使って開けられる、と昔聞いた覚えもあったが、このタイプはわからない。だから直接的に、個室仕切りの上部に手をかけて、懸垂するようにして中を覗き見た。

 やはり、誰もいなかった。

 そのまま足をかけて、仕切りを上る。中に降りる。鍵を開く。人影はない。

「…………なんだ?」 

 特段鍵の部分に仕掛けがあったような痕跡もない。一体、どうしてこの個室は閉まっていたのだろう。何度かスライドしてみるけれど、鍵が馬鹿になっているということもなさそうだ。

 まあいい、と気を取り直した。何にしろ、ここに今尾はいなかった。無駄な運動をした、と背を向けようとして、ふと、その便器の閉まった蓋の上に、何かが落ちているのが気にかかった。

 それは、繭のように見えた。

 屈みこんで、よく顔を近づけても、やはりそう見える。今尾が一人であの『羽の間』に運び入れたというオオミズアオの茶黒の繭。それに、よく似ていた。

「なんでこんなところに……」

 理由はまるでわからない。まさか、蛾だってこんな場所で繭作りをすることはないだろう。なら、人が持ってきたのか。何のために? 手に取ってみると、ひどく軽い。

「持っていってみるか」

 いくつかの可能性が、頭の中に浮かんでいた。一つは、自分たちとはまるで関係のない蛾の繭であるというもの。この地方にはオオミズアオが多いというのなら、そういうこともあるのかもしれない。あるいはたとえば、今尾が他に予備の繭を持ってきていて、それをトイレに置き忘れたというもの。他にもいくつか思い浮かぶが、どれを取っても決め手に欠けている。

 ひょっとすると、今尾も入れ違いで『羽の間』に戻っているかもしれない。自分も一度、戻ってみよう。そしてもし今尾がいたなら、それでいい。この繭に心当たりはあるかを訊ねて、もしないようであれば、外の草むらにでも置いてくるとしよう。

 そう思って、トイレの扉を開けて、ぎょっとした。

 電気が消えている。

 一歩、二歩、と歩いても、やはり廊下の電気は点かないまま。通路のずっと先、受付ロビーから赤橙の光が零れているのだけを頼りに、歩くことになる。もうこちら側から歩くのは三度目なので、表示がよく見えなくとも『羽の間』までは辿り着けた。配信の邪魔をしないように、そっと襖を開く。

「お、来た来た」

 そう言って振り向いたのは、今尾だった。

 やはり入れ違いになっていた。下手に探し回らなくて正解だった、と自分の判断を褒めて、ぺこりと頭を下げて、新波は定位置に戻ろうとする。

「ちょっとちょっと。どうしたんですか」

 それを、今尾が止めた。

「……なんでしょう」

「いやいや。もうシーチさんの番、来ちゃってますよ」

 自分の番?

 一体何の話を、と視線を巡らせれば、奇妙なことに気付く。

 蝋燭灯りのぼんやりと明かる和室に、人の影は自分を除いて七つ。

 埋まっている席は、今尾、山城、異堂、ワニ、サメ、ウサ、回蔵。その七つだけ。

 ぽっかりと、頬澄の席が空いている。

「……ホーマは、どこへ?」

「……?」今尾は首を傾げたのも束の間。「さあさ、座ってください。もうみんな、順番周ってしまってますから」そうして手で指し示すのは、空いた頬澄の席。

 どうすべきか、と考えた。

 まるで今尾は、頬澄のことを忘れたかのように振舞っている。が、どう考えてもそんなことはありえない。一体これはどういうわけか。そう考えたとき、ふっと頭の中に、一つの可能性が思い浮かんだ。

 ドッキリか、と。

『イナバ。』の動画を視聴しているときに、レコメンド欄にいくつも出てきた。こんなことを嘘で仕掛けたら、相手は一体どんな反応をするのか、という趣旨の動画。ホラーものにも数多くあるらしい、ということも知っている。

 もしかすると、最初から仕込みだったのだろうか。

 自分は何も知らない『ホーマの友人』役で、百物語の最中に本当に奇怪な出来事が起こったときどんな反応をするか、それを見られているのだろうか。

 引っかかるところはないでもなかったが、それが一番手近で、合理的な解釈に思えた。言われた通りに、新波は頬澄のいた席に座る。「ドッキリですか」と口にするのは簡単だろうが、そうはしない。どういう意図だったにしろ、頬澄には二晩家に泊めてもらった恩がある。いきなりぶち壊しにするよりかは、もう少し引っ張った方がいいだろう。

「ええと、」一つ、咳ばらいをして、「それでは、話させていただきます」

 もちろん、新波には怪談を話した経験などありはしない。だから、語り口は頬澄を真似して、内容は記憶の中にある、実際に起こったことを頼りにして。

 こんな風に、語り始める。


「これは、嘘の話なのですが……」




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