01
まいったな、と新波永一は思っていた。
なにせ、職もなければ家もない。絶体絶命の大ピンチで、そのうえ真夏は夜になってもその熱を決して地上から消し去りはしないのだ。黒いポロシャツに汗はじわじわ滲んている。駅の人だかりはいつまで経っても絶えることなく、むしろ夜が更けるにつれて賑わいを増しているように見えたが、それだって暑苦しく思えてくるほど余裕がない。
隣には、服やら何やら詰め込んだボストンバッグが一つだけ。
それとポケットに入った財布だけが、今の新波の持てる限りの財産だった。
二十三歳。大学を出て、就職して、事情あって退職して、その事情にも程があって、こんなことになっている。
まいったな、ともう一度、新波は思った。何度思っても、思いすぎるということはない。まさか自分の人生にこういう場面が来るとは思いもしなかった。中学時代に国語の時間だか総合の時間だかに書かされた作文のことを思い出している。題材はずばり、『十年後の自分予想』。あれに確か自分はこう書いた。なにせこれから十年後と言ったら、自分が物心ついてからと今に至るまでと同じくらいの長い時が経っているのだから、きっとそのとき自分はもう今の自分とはかけ離れた存在になっているのだと思う。ゆえに、変にここで十年後の自分に呪いをかけるようなことはしない。今の自分より広い視野を持って、自分のやりたいことをやっていてほしい。ただ、両親が心配するだろうから就職くらいはしておいた方がいいと思う、と。
そんなささやかな将来像すら叶えられなかった。
これからどうするか、と夜灯りの中で考える。同年代と比べればそれなりに貯金はあるつもりだが、何せ労働していた期間が二年にも満たないから、余裕はない。社員寮も後にして、手元には家具も何もない。売れるものもない。実家に頼るということも考えたが、自分の両親は良くも悪くも少し前の時代を引きずっている人たちだから、自分はすっかり終身雇用されたものだと思っているだろうし、いきなり「クビになって家がない」なんて電話をかけたらそのまま受話器の向こうで卒倒する音が聞こえてくることは想像に難くない。それに、もう成人して、大学まで出してもらったのだ。これ以上の迷惑や心配はかけたくないという気持ちもある。
ということは、とりあえずこの東京の街で生き続けるための行動を起こす必要がある。どうやって? それはもちろん、家を得て、職を得て……。しかしここで重要な問題になってくるのは、現住所不定で大して貯金もない人間に賃貸を紹介してくれる不動産屋がどこにいるのか、ということだ。ついでに言うなら、住所のない人間を雇ってくれる会社も。たぶん、ある。あるだろうということは、知識としてはないが、推測としては成り立つ。それがなかったとしたら、たぶんもっとこの国は壊れ果てている。今が壊れていない、という話ではないけれど、程度問題として。
よし、と新波は決めた。
とりあえず、今日はここで寝よう。そしてどこかで風呂に入って、着替えて、そういう仕事を斡旋してくれる場所を探しに行こう。そして貯金を貯めて、ゆくゆくは家を借りよう。
じゃあとりあえず今日のところはおやすみなさい、という気持ちで目を瞑ろうとして、
「暇そうにしてんな、お前」
声をかけられた。
あまり警戒しなかったのは、低くもなければ野太くもない、女性の声だったからだと思う。「はい?」と顔を上げれば、思ったよりもずっと近い距離から覗き込まれていて、ぎょっとして仰け反る羽目になる。
それを見て、目の前の女性は、ひひひ、と笑った。口元は綺麗に三日月を描いて、目元も弧を描いて、意地の悪いキツネかタヌキが人を引っかけてご満悦、というような顔。
思い出すというプロセスを、意識することもなかった。
「頬澄?」
向こうから声をかけてきたのに、どういうわけか新波がそう問いかければ、頬澄は驚いた顔をして、かえって新波よりも驚いた。
一瞬、人違いだったか、と新波も思いかけたが、いやそんなはずはない、と思う。だって、この顔は見間違いのしようがない。確かに、昔よりずっと雰囲気は変わっているけれど。それはたぶん、髪型とか髪色とか化粧とか、そういうものによるところなのだと思う。さっきの表情は、たぶん十年どころか何十年経っても一目見た瞬間にわかる。中学の同級生だった、頬澄真乃のものに間違いはなかった。
「よくわかったな」
と、答え合わせまでされれば、もう迷いはない。久しぶりだな、と新波は相好を崩して話しかけた。
「このへんに住んでるのか?」
「そういうお前は住むとこなさそうだな」
「は」
思わず新波は自分の身なりを見た。まさか、たかだか一日くらいでそこまで家がなさそうに見えるのだろうか。
「ついでに職もなさそう。落ちぶれたなー、クラス一の優等生が」
「……よくわかったな」かろうじてそう答えた。
「わかるわかる。すべてがわかる。私は天才霊媒師だからな」
「は?」
「天才霊媒師だからな」
二度言われても。
どういう反応をしたらいいのだろう。へえ、とか? それともちゃんと笑い飛ばした方がいいのだろうか。いやいや、それでもし本当に頬澄が霊媒師を生業にしていたらどうするつもりなんだ。職業差別になってしまう。ここはまず、いくらか会話を続けて相手が本気かどうか見極めることにしよう。
「霊媒師って、」
「お前暇だろ? バイトしねーか?」
「バイト? 何の」
「私の隣で頷いてるだけのバイト」
「なんだよそれ」
「だから、頷いてりゃいいんだって。やるのか、やんないのか、どっち」
もちろん、これが普段だったら「やらない」と答えていたと思う。
どう考えても誘い文句が怪しいし、いま新波の頭の中ではこんなエピソードがぐるぐる巡っている。つまり、地元の友達から斡旋された仕事がどうにも反社会的なそれで、ずるずるとそうしたコミュニティに浸ってしまう、というもの。今の自分の社会的な立ち位置はものすごく不安定だし、少し引っ張られただけでそちらの方に引きずられていってしまうかもしれないという自覚は、十分にある。
が。
バイト、とこの状況で聞けば。
「時給は?」
頬澄はピッ、と指を一本立てた。なぜかわざわざ中指を。そうそう、こういうやつだった、と思いながら新波はその指をそっと握って折り畳んで、どうしようか、と呟く。
「千円か……」
「アホ」
「ん?」
「一万だよ」
「は?」
「時給一万。やんのか、やんねーのか、どっちだ」
やる、と気付いたときには答えていた。昔からだ、と新波は思う。昔から、自分にはこういうところがある。悩むということにあまり精神活動の重点を置かない。成功する前も、失敗する前も、とにかくそうだ。息を整えるということを知らない。確か小学生の頃、跳び箱十三段だか十七段だかに頭から突っ込んで流血したときも、他の同級生たちがみんな二の足を踏んでいる中で一人だけ何の迷いもなく助走を始めたのだ。成人式に出たときに当時の同級生たちからも「あのときはビビった」と昨日のことのように語られた。「あれ以来度胸試しはお前をハブってやることにしてたんだ」とも。
にんまり、としか言いようがない例の顔で、頬澄は笑っている。
その顔を見てもなおあまり後悔しないのが、新波がこういうことを繰り返している一番の理由なのかもしれない。