第8話:接触
夜。
それは、昼間の喧騒が嘘のように消え去り、退廃的な欲望が街を静かに支配する時間。
醜い欲望と、あらゆる思惑が交差し、人に数多の快楽と絶望を与える時間だ。
同時に、この世で最も美しいものを見せてくれる時間でもある。
そんな人を狂わせる時間の中、一人の少女が街をゆっくりと歩いていく。
といっても、その人物が本当に少女なのかは分からない。
あたりが暗い、というのもあるが、一番は少女がフードをかぶりながら、俯きがちに歩いているからだ。
それでも、少女と判断できたのは、女性らしく柔らかな体つきだったから。それしかない。
「…………」
少女は無言で歩く。
しばらく少女が歩くと、やがて大きな門が姿を現わした。
少女は門の前で、ピタリと歩みを止める。
どうやらここが目的地のようだ。
俯いていた顔を上げると、少女は門に掲げられた紋章を見る。
門に掲げられていたのは、四神のひとつ、朱雀とアルファベットのLが組み合わさった紋だった。
『朱雀エルフィード学院』。
そこが少女の目的地。
少女に見つめられている学院は、眠っているかのように静かで、普段の威厳はまるでない。
その代わり、普段にはない不気味さが漂っていた。
しばらく、そのまま時間が進んだ後、やがて一筋の月明かりが少女を照らす。
照らされた顔は間違えなく女性のもの。
しかし、その顔には生気が感じられない。まるで人形のようだ。
さらに時が進む中、やがて少女は小さく口を開いた。
「……ここで、何人犠牲になるのかしら?」
8 接触
「今日で完治だよ、良かったねー。いやー、君がここに来た時はびっくりしたよ。血だらけ、火傷だらけでさ。にしても怪我治るの早いね、なんか特別な魔法?」
いえ、単に体が強いだけです。
「まあ、どーでもいいか。君が元気になったことが一番大切だしねー。
さてと、それじゃ元気でね」
そう言って、俺の担当医の進藤さんは、くるりと体を翻して、病院の中に入っていった。
あ、元担当医か。……まあいいや。
俺は、そんなくだらないことを考えながら、一週間お世話になった雨月病院に一礼をしてから、背を向けるとゆっくり歩きだした。
あれから一週間経った。
あの戦闘のあと、俺は急いで雨月病院に運ばれ、ずっと治療していた……らしい。
らしい、というのは覚えてないから。ずっと寝てたのよ、と起きて混乱していた俺に、看護師さんが教えてくれた。それが四日前。
俺は、そのあとずっと病院にいたってわけ。
何してたか? ずっとリハビリだよ、チクショウ。
「はぁ……」
俺は、普段よりも重い溜め息をつく。
そりゃそうだろ? ずっと病院で、リハビリと体の検査してたんだから。
とは言っても、俺の体は順調(進藤さんが言うには、驚異的)に回復したため、通常よりもかなり短い期間で退院できた。それだけは感謝。
「はぁ……」
もう一度溜め息をつく。
あ、リハビリのこととかじゃないぞ?
今度は人の多さに、だ。
俺はぐるりと辺りを見渡す。
人、人、人。人だらけ。楽しそうにしている人もいれば、早足で歩いていく人もいる。
ここは、朱雀から五駅くらい離れた町。
雨月町。
様々な店や施設があり、ここら辺では最も人の通行が多く、賑やかな町だ。
その証拠に、もう夜になる一歩手前の午後六時にもかかわらず、人はまったく減らない。というか、これからが本番と言わんばかりに増えている。
四月にもかかわらず、正直暑苦しい。
つまり、現在メインストリートにいる俺(しかも病みあがり)にしてみれば、この場所は不快なことこの上ない。
あ、っ痛ぁ! 足踏まれた!
しかも滅茶苦茶混んでいる。さっきから足を七回くらい踏まれている。
「はぁ……」
また溜め息をつく。
そもそもここに来たのは、長い病院生活の憂さ晴らしにいい、と進藤さんに聞いたから来たのだ。
なのに、足踏まれてるだけじゃねぇか!
失敗だった。
まさか、ここまで人が多いとは。
憂さ晴らしに来たのに、憂鬱になっては意味がない。
ふぅ、と俺は溜め息未満、呼吸以上に息をつくと、家(といっても仮屋)に帰るべく踵をかえした。
しばらく歩くと、俺はある違和感に気づいた。
その違和感は、ええと、視線、みたいだ。
なんというか、『誰か』に見られている感じがする。
いや、人間生きていれば見られることは当たり前だ。
そもそも、すれ違ったりした人を見るのは普通のことだし、何気なく見てしまうことだってある。
だが、この視線は何か違う。
こう、たまたま見たとかではなく……
(観察……か?)
そう、実験動物を観察しているような、人間的な温かさとかがまるでない視線だったのだ。
俺は歩みを止めずに考える。
たぶん、十中八九、視線の主は俺に用だろう。
最近戦った弐村や他のクラスメイトに……という可能性もなくはないが、それだったら本人のところに行けばいい。
なのに俺、しかも、こんな平日(火曜日だ)に後をつけてくるなんて、よっぽどの暇人か、もしくは……
(また、厄介なヤツかな……はぁ)
敵だ。
俺は今雑多なビルが並ぶ、雨月町のビジネス街の路地裏を歩いている。
理由は単純、尾行さているから。
尾行されてるから路地裏って意味わからん! と思うかもしれないが、これは正しい対処法だ。
なぜなら、ここではいくらでも戦うことができるし、逃げることもできる。残念ながら『アレ』は家に置いてあるが、代わりに携帯、もとい、『札』に前回の戦闘以上の術式を構築してある。
つまり準備万端ってことだ。
「……」
息を潜めて、周囲の様子を探る。
「今日、飲みにいかないか?」「いいね、どこに行く?」「これから合コン行きましょうよ、先輩」「いや、私化粧とか手ぇ抜いちゃったんだけど……」「最近、課長厳しくないか?」「ああ、クビがかかってんだってよ」コツ「娘が冷たいんだ……この間、お父さんくさい、って」「俺なんかお父さんとも呼んでもらえないよ……」「今日はー月一のー給料日ー、ははは」
後ろの方から聞こえてくる周囲の音。たくさんの会話。そして――
一瞬だけ混じる足音。
次の瞬間、頭の中の危険信号が一斉に鳴り響く。
その危険信号に従い、体を横にずらす。
瞬間。
俺の頬を浅く裂いて、ナイフが横を通過していく。
俺は急に出てきたその腕を掴み、同時に、空いている手で『札』を真横にある壁に押し付ける。
数瞬後、『札』を押し付けた壁から、幾何学的な紋様が浮かぶ。
その六芒星や五芒星などが合わさった様な紋様は、一瞬、青く輝いたかと思うと、次の瞬間には消えていく。
「っ……!」
後ろからの息をのむ気配。
それを無視し、俺は問いかける。
「お前は誰だ?」
「……」
「何が目的だ?」
「……」
「誰の差し金だ?」
「……」
「俺が誰だか分かっててやってんのか?」
「……」
反応なし……か……。
仕方ない、ちょっと『強め』に訊いてみるか……。
「お前は……誰だ」
「っう、あぐ!」
ミシミシ……。
「何が目的だ」
「あう、ぐぐ!」
ミシミシ。
「誰の差し金だ」
「ぐぅあああ!」
ミシミシ!
「俺が……誰だか分かっててやってんのか」
「あ! ああああああ!」
ミシミシ……ボキ。
「うああああああああああああああああああああああ!」
辺りに響く絶叫。
そして、ピクリとも動かなくなる俺の掴んでいる手。
……折っちまったか。
まあ、いい。
俺がダランとした腕を放すと、凄い勢いで引っ込んでいった。
腕が引っ込んだ方――つまり、後ろを向くと、見るからに怪しい黒フードが一名。
フードで顔が隠れており、折れた方の腕をもう片方の腕で押さえている。
そんな黒フードと俺には約五メートルの間があり、その間にさらに日本刀のように鋭い刃が壁から突き出ている。俺が造ったヤツだな。
俺は一通り辺りを観察すると、
「で? お前は誰だ?」
いまだに俯いている黒フードに声をかけた。
「……」
「……はぁ」
「っ!」
「あ! おい! ちょ、ま――」
俺が黒フードに近寄ろうとした瞬間、黒フードは回れ右をして、全速力――かは分からないが、走り去って行った。
呆然とする俺。
しばらく固まったあと、
「……はぁ」
俺は今日、何度目になるか分からない溜め息をついた。