第34話:嵐(3)
小鳥がさえずり、穏やかな空気に包まれる朝の学院。その中を、ナイフを突き付けられながら歩くなんてのは、滅多なことでは経験できない貴重な体験じゃないだろうか。おそらく普通に生きていれば、絶対に体験できないはず。それこそ女の子が空から降ってくるのと同じくらい珍しいことだと言っても過言じゃない。
もっともそれを進んで味わってみたいかと問われたなら、俺は首を横に振る。というかほとんどの人間が首を横に振るはずだ。
しかし、何故か俺は願ってもいないのにそれを現在進行形で実現させていた。まったく嬉しくない。
両の手を上げたまま、白髪の後輩の指示に従って歩く。外からは朝の日射しが差し込んでいた。そこで、ふと、思いついたことがあるので確かめる。
この娘が本当に静歌の姉なのかを。
「なぁ、お前、どこに住んでるんだ?」
「……」
無視。まあ、当然の対応だろう。もちろん、その程度で止めたりはしないが。
「俺はな、生まれは日本で今も日本に住んでるんだけど、育ちは七歳くらいの頃からアメリカなんだよ。んで、そこからまた移ってつい最近までイギリスに住んでたんだ。ロンドンな」
ロンドンの辺りで、ぴくり、と微かに振動したのがナイフ越しに伝わる。
「あそこは良いところだよな。昔はどうだったか知らないけど、今は良い人ばかりだし、魔法の普及率も全世界ナンバーワンだし。あんまり科学技術が入ってこないのが欠点と言えば欠点だけど、それを差し置いてもなかなかに暮らしやすいしさ」
少しだけ背中越しに怒りの気配が伝わってきた。それを壊したお前が言うな、と。
俺はその怒りに内心苦笑しつつも、表にはおくびにも出さずに言葉を続ける。懐かしむように窓の外へと顔を向け、目を細める。まるで懐かしんでいるのを見せつけるように。
「ちょっと学院の雰囲気って似てるよなぁ。思わず帰りたくなっちまう。ほんと、あんな悲惨な事件が無けりゃなぁ」
と、そこでどうやら堪忍袋の緒が切れたらしい。低い声で愛歌が呟く。
「誰が喋っていいと言った。黙って前を向いて歩け」
首筋にさらにもう一本ナイフが突き付けられる。今度は宙に浮いている。どうやら魔法を使ったらしい。
「わかりましたよ」
ここで素直に従っておかないと、本当にグサリとやられてしまいそうだ。
俺は一つ溜め息を吐くと、また前を向いて歩きだした。
それにしても、どうやら本当に静歌とは姉妹らしい。あの事件であそこまで反応するなんて、巻き込まれてなければありえない。そしてあの事件に巻き込まれるには、当時ロンドンにいなければならない。本人の反応からして、本当にロンドンにいただろうし、静歌との証言を合わせれば自然と合致してしまう。やりにくいな。加害者側からすれば。
ふう、と軽く息を吐き、しばらく指示されるがままに歩くと、見覚えのある建物が見えてきた。まさかここに来るなんてな。
建物に入った後も、ひたすら歩く。やがて、これまた見覚えのあるドアの前に辿り着いた。無残にも引き裂かれた黄色のバリケードテープは消え去り、真新しいテープが張られている。
昨日も来たが、そう何度も来たいところではない。
「入りなさい」
背後から響く無表情な声。背中を押してくるのと同時に、ご丁寧にもナイフでテープを切り裂いてくれた。
俺は片手を下ろし、ドアを開け、中に入る。中は相変わらずのひどい惨状。昨日と同じ風景。
しかし、それだけではなかった。先客がいたのだ。
俺と同じ高等部の制服を着た二人組の男女。そしてその二人ともに共通する愛歌と同じ白髪赤目。
なるほどねぇ。
「まさかPSI候補生がテロリストに賛同してるなんて、朱雀もおしまいだな」
俺の言葉に、前方にいた二人が目つきを鋭くさせる。
超能力者候補生。通称、特待生。卒業した者のほとんどが特殊魔法機動隊に所属するというエリート集団であり、同時に多くの白髪赤目が参加している特別クラス。
俺の予想は当たってたというわけだ。やはり生徒にテロリスト――厳密に言えば違うかもしれないが――がいたわけだから。そして、おそらく今回の切り裂きジャックも――
「黙りなさい」
背後から殺気。雨月町やプチビックバンの時に感じたものと同じ質。
俺はそれを受け流しながら肩をすくめ、呆れたように声を上げる。
「で、ここに連れてきて何しようってんだ? 正直、特待生には興味ないぜ」
「そちらにはなくてもこちらにはある」
前方にいる二人組の片割れである少年から返答が来た。ひどく冷めた声音で、こちらを睥睨しながら言う。
俺はそれにも言葉を返そうとするが、
「手を後ろに回しなさい」
それよりも早く愛歌がナイフを首筋に押し付けてきた。少しだけ先っぽが当たって痛い。
「はいはい」
両手を後ろに回す。と、両の手首に軽い衝撃。まるで手錠を掛けられたかのような……
「紫園さん、秋瀬さん、こいつをよろしく。錠を掛けたから大丈夫だと思うけれど」
マジかよ。