第32話:嵐(1)
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朝、起きるとどこにも静歌の姿がなかった。
代わりに見慣れた筆跡で書かれた書置きが、居間の中心に鎮座しているテーブルの上に置いてあった。
内容は至極単純。
姉に呼び出されたので行ってきます。朝ご飯は要りません。
そんなことがポツリと書かれている。
俺は寝ぼけ眼をこすりながら、
「……はぁ?」
疑問の声を上げた。
昨日の夜、愛歌を見失ったあと、家に帰ってきた俺たちはこれからのことについて話し合うことにした。
内容はもちろん、愛歌のこと。特に静歌がどう行動するかについて、だ。
俺たちは昨日と同じように、テーブルを挟んで座る。俺の対面に座った静歌は、どこか愉しげにこちらを見つめてきた。
まずは俺が口火を切る。
「で、どうすんだよ? わざわざ、愛歌に喋ったんだぞ。何か考えがあるんだろ?」
それに対し、クスリと微笑むと、
「何もないわ」
静歌は軽やかな声音で答えやがった。
一瞬、唖然とするが、なんとか持ち直す。それでも顔はまだ引きつっている気がした。
とりあえず、もう一度尋ねてみる。
「えーっと、静歌さん? 何か意図があって愛歌にばらしたんだよね?」
「ないわ」
きっぱりと言い切ってくださった。
「えー」
「だって、あのタイミングが最も良い瞬間だったじゃない。あの驚愕した顔見たでしょ?」
なに言ってんだ、こいつ。
俺が冷めた目で見つめる中、静歌は実に優雅に微笑む。
その笑顔は上品でありながら、同時に、遠足を前にした小学生のような無邪気さも兼ね備えていた。こいつの本性を知らなければ、その笑みに見惚れていてもおかしくない。
しかし、残念ながら俺はこいつのことをよく知っている。それに、今はどうでもいいことだ。
俺は、静歌に見せつけるように、指先でトントンとテーブルを叩く。さらに眉も寄せる。他人が見たら俺がひどく不機嫌そうに見えるはずだ。
にもかかわらず、静歌は笑みを崩さず余裕綽々としている。それどころか、まだ解いていないツインテールの毛先を指に絡めて遊びはじめた。いい度胸してんな。
「……はぁ」
俺は一度溜め息を吐くと、静歌のことについて諦めることにした。たぶん、本当に何も考えずに行動したんだろう。
それに今はこれからのことについて話さなくちゃならない。
とりあえず未だに指で毛先を弄っている静歌に、再び水を向ける。
「じゃあもう愛歌に話した理由はいいや。それより、お前はこれからどうするんだ?」
「うん?」
「だから、これからどう行動するんだ? ぶっちゃけこれ以上動かれると迷惑なんだが」
我ながらひどいことを言っているな、と思うが、静歌はまったく意に介さない。むしろ、さらに笑みを深めて笑う。
俺は少し不気味に思いながらも、もう一度問いかける。
「で、どうすんだよ?」
「どうもしないわ」
即答だった。
「……はい?」
「だから、どうもしないわ。どうせ相手が動いてくれるし」
そう言うと静歌は立ち上がり、隣の寝室へ向かう。
五分後、髪を下ろし、いつものゴシックアンドロリータを纏った静歌が出てくる。
その間、俺は自分の眉間を丁寧に揉んでいた。そう、疲れているに違いない。今の静歌のふざけた言葉は幻聴だろう。きっとそうだ。
結局、それからは、なにを訊いてもダメだった。訊いても、のらりくらりと受け流された。
仕方ないから、明日の朝にでも問い詰めよう。そう思って、その日は就寝した。
そして翌日、つまりは今日。静歌の姿は家から消えていた。