第30話:嵐の幕開け(1)
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「というわけで、あの子のこと頼むぞ」
「別にいいけど……アンタがやったんじゃないでしょうね?」
「そんなわけないだろ。まったく、なに馬鹿なことを言っているんだ?」
「……こっち見て言いなさい」
「ソレジャア、アタシハ行コウカナー」
「あからさまに不自然ね」
閉じていた目を開け、横になっていた体を起こすと、そんな下らない会話が耳に飛び込んできた。二人分の女性の声で、両方とも聞き覚えのある声だ。
俺は自分が寝ていた清潔そうなベットから降りると、目の前にある白のカーテンを引いた。シャーと軽快な音を立てて動き、一気に視界が広がった。
広がった視界の先、そこには二人の女性が立っていた。
一人は知っている顔だが、もう一人の白衣を着た眼鏡の女性には心当たりがない。
俺はその二人のうち、今にも部屋から出ようとしている方に声をかける。
「なに逃げようとしてるんですか、片桐先生」
「え……お、起きたのか、夏目」
俺の声に、今にも部屋から出ようとしていた片桐先生がこちらを向き、顔を強張らせる。少し目が泳いでいる。
俺はそんな片桐先生を一瞥すると、今度は部屋の中央に立つ白衣の女性に話しかける。
「すいません。えーっと……」
「豊川、豊川紗江子。はじめまして、夏目良くん」
白衣の女性、もとい豊川先生はそう言うと、ふわりと微笑む。
「君とはまだ直接話したことはないかな? 一応、この学院の保険医をやらせてもらってます。君には入学式の司会進行をやっていたって言った方が伝わるかもしれないけれど」
道理で聞き覚えのあるはずだ。言われて、ようやく入学式で司会をやっていた女性だと俺は気付いた。
さらに先生の発言から、遅まきながらここが保健室だと察しが付く。確かに白を基調としたこの部屋は清潔感に溢れていて、病気とは無縁に思えた。
「ふふ、まぁ、そんなこと言われても反応に困ると思うんだけど……。それよりも体調はどう? どこか具合悪くない?」
豊川先生は言いながら俺に近付くと、そのまま額に手を当ててきた。フローラルないい香りが俺の体を包み込む。
さらに何故か顔まで近付けてくる。眼鏡が持たせるシャープな印象と優しげな瞳が妙にあって、何とも言えない色香を放つ。
俺はその顔の近さに思わずたじろいでしまう。
「えっと、なにを……」
「ちょっと顔色が悪かったから。大丈夫、安心して」
安心もクソもこの顔の近さはどうにかならないんですか!?
俺が慌てて体を離そうとすると、
「ほら、ちゃんと診てもらえ」
いつの間にか俺の背後にまわっていた片桐先生が肩を押さえてきた。
ニヤけ面が癇に障る。
「なにやってんですか! 離してくださいよ!」
「ダメだ。おまえは離したら逃げる」
逃げない方がおかしいだろうが!
俺が体を逸らそうとし、片桐先生がそれを防ぐ。そうこうしているうちに、豊川先生の顔が間近に迫ってきた。
その整った日本人形のような顔立ちが、俺の顔に重なろうとした瞬間――
「先生! 急患です!」
大きな声を上げ、透き通る銀が艶やかな金の手を引きながら、部屋に飛び込んできた。
瞬間、部屋にいる全てが凍りつく。
片桐先生も、豊川先生も、長い金髪をツインテールに纏めている殺人姫も、その金髪に手を引かれている愛歌も、そして他でもないこの俺も。
全てが凍りついた。
頼りにならない大人二人は体を硬直させ、殺人姫は目を大きく見開き、愛歌はポカンと口を開け、俺は頭痛でくらくらしながら。まるで誰もが死んでしまったかのように押し黙り、静かに時が流れる。
やがて長い沈黙の後、静歌がゆっくりと暖かさを感じさせない声音で呟いた。
「なにしてるの、お兄ちゃん?」
見ると、こちらを見る静歌の瞳には軽蔑の色が浮かんでいる。さらにその後ろにいる銀髪の後輩も、こちらを冷たく睨んでいた。
昔、楓の着替え偶然見たときもこんな風に睨まれたなぁ。懐かしい。確かそのときは、楓にも御祈にも口きいてもらえなかったな、一週間くらい。
なんて俺が現実逃……昔を懐かしんでいると、不意に静歌の視線が柔らかくなった。
ついでに軽く素に戻りながら、
「まあいいわ。それより、来てくれない……かな、お兄ちゃん?」
慌てて最後付け足したな。