4頁
ところが翌朝、まだ日も登らぬうちから目覚めた太心は、信じられないものを見た。
雨が降っている。
さあさあと、まるで霧雨のようにか細い雨粒が、村や田や畑に降り注いでいた。
夢かと思って、太心は覚束ない足取りで表へ出た。
冷たい風が頬を撫で、雨粒が体を湿らせた。
本物の雨だった。
「雨が降ったぞ」
しばらく呆然と雨に打たれていた太心は、我に返ると狂ったように笑いだした。
「ははは。雨が降ったぞ」
その声に家族や隣人たちも起きだして、村はたちまち大騒ぎになった。
「方菊に知らせてやらねば」
これで誰も供物にならずに済む。これまで通り、方菊といつでも会えるのだ。太心はそれが嬉しくて、飛ぶような足取りで方菊の家を訪ねた。
しかしそこに、方菊の姿はなかった。
家人が言うには、朝早く目覚めてみると、すでに方菊は部屋にいなかったという。
そして文机の上には、一篇の詩が残されていた。間違いなく方菊の字によるものだった。
『愁龍雨詩』
山深眠賢龍 山深くして賢龍の眠る
日高覆蒼穹 日高くして蒼穹を覆ふ
朝来烟雨声 朝来烟雨の声
花落君莫愁 花落つるとも君愁ふこと莫かれ
(山は深く、賢き龍が眠っている。日は高く、果てしなき空を覆っている。朝になって霧雨の音を聞いた。そのせいで花が落ちてしまっても、君よ、どうか愁いたりしないでおくれ)
はっ、となった。
太心は脇目も振らずに、霊山を駆け登った。
頂上には小さな社があって、雨はいつの間にか、濡れてもすぐに消える不可思議な霧雨に変わっている。
「方菊」
太心は龍ではなく、方菊の名を呼んだ。
「方菊」
だが、それに答える声はなかった。
「なぜじゃ。なぜおまえが供物にならねばならぬのだ。なぜあと一日待てなかったのだ」
利発な方菊は、全てを知っていたのだ。燕の肉の意味も。自分が龍の供物となる宿命にあることも。そして太心が、近く龍に己が身を捧げる覚悟でいたことも。
「方菊」
太心はなおも叫んだ。
「方菊」
頬を流れる涙だけは、乾くことも消えることもなかった。
(完)