独占への挑戦者
井沢自身のすすり泣くような声は周りにいる俺たちだけにしか聞こえていない。
いや、仮に周りに聞えるような声だとしても、周りは関心を持たなかっただろう。
横目で見る檀上には、興奮を抑えきれないように、人々がまるで甘味に群がる蟻の如く集合していた。
中には未だ信じられないものを見るような目で一歩引いている人たちもちらほらいる。
だが、全体として言えるのは、大きな流れを形成しつつあることだ。
「――大丈夫です!! 皆さん、初期の【所有経験値】で十分【戦士】の“契約”締結が可能です!!」
横野は、“契約”を、『“オーナー”と“プレイヤー”の間で結ばれるもの』と説明した。
“オーナー”とはあの大学生風の加瀬や今目の前にいる横野という3年を差す。
一方の“プレイヤー”とは、普通の一般人を言うらしい。
先ほどの“契約”はつまり、
→“オーナー”:横野。【戦士】のジョブを渡す。
→“プレイヤー”:水谷。必要な分の【所有経験値】を渡す。
この二つが対価関係となって、結ばれたということだろう。
じゃあ、俺の【渡時士】の【ジョブ】をくれたのは……誰?
俺は記憶の中にある、涙を流して『まだ死んではダメ!!』と訴えていた少女の顔を思い浮かべた。
彼女……なのだろうか。
『あの人、“オーナー”だったのね……』
『……彼は、【魔法使い】の恩恵を得たのね』
加瀬が“オーナー”であることを知っていたことや“契約”が行われた現場を見ても冷静に状況を分析出来ていた――何よりその知識を持っていた。
状況証拠的には、彼女が横野や井沢と同じく[経験者]なんだろう。
ああ、そうか、あの加瀬という男もか。
だが、正直自分たちとは別に20日もの間、この世界を経験した、と言われても俄かに信じがたい。
うーん、強引に例えるなら。
俺は死んで同じ10月11日の二度目に突入しているが。
それが20回続けば同じ感じ、なのかな。
――いや、それは随分離れてしまうか。
この2度目を20日間生き抜いて、そして20日目で死んで、10月11日に再び戻る――それが一番近い、気がする。
――ああ、でもこれだとそもそも20日も戻れないのか。
“過去跳躍”:『意識の不可逆的喪失』・『一定の経験値の献上』を条件に発動。所有経験値全てを消尽し、それに比例した過去へと跳躍する。
→最長跳躍距離上限値:7時間(2 TP使用) ↑上限値1時間解放
今、見直してみたが、死んだとして、戻れるのは7時間が上限だ。
単純に計算しても、20日後って、480時間後。
全然戻れねえよ。
まああくまで想像を膨らませるものだ。
大体そんなんかなぁ、くらいに思っとこう。
時間にしてみればほんの数秒、数えられるほどの間だっただろう。
「ですから、このような状況を協力して乗り越えて行くために、変に余計なことを考えるのは、命取りになります……」
そうして頭の中で思考を繰り広げていた。
その間にも、横野の話は続いていた。
だが、次の言葉が、俺の意識を引き戻した。
「――“契約”は本来かなりデリケートなものです、今後は、僕の言う通りに、従ってください」
ゾクッ、と背中に違和感が走る。
もはや条件反射みたいなものだった。
信じられるわけがない。
やはり何かがおかしい。
俺は全身から湧き起る不快感が表に出ないよう何とか顔に力を入れて、何でもないことを装う。
そうして今耳にした言葉が聞き間違いであって欲しいとの思いから、周りに視線を走らせる。
――だが、檀上周辺にいる、扇状に集まる生徒らは、一部の疑いも抱いていないと言った様子。
彼等の後に控えるようにして近づいていた大人たちも、縋る相手を見つけ考えることを止めたからか、特別怪しむ素ぶりもない。
俺は愕然とする。
こんなにも人は周囲の空気に流されやすいものなのか。
自分でも今まで長い物には巻かれる、周囲の空気を読む、そうした処世術を使う人々を見て、分かっていたつもりだった。
しかし、その認識は甘かったようだ。
確かに横野に従って“契約”をし、外にいるモンスターに抗う力をえられれば、目の前の危難は解決できるかもしれない。
しかし、それを提示している人間そのものに疑念が生じたら?
今のところ、何か欠陥があるようには思えない提示された内容。
例えるなら、いい笑顔を浮かべながら自宅の玄関で新商品を進めて来る訪問販売員だ。
保険でも投資の案内でも、何でもいい。
話を聞く限りは、その商品はとても良さそうに聞えて、自分の将来に対する備えとしてはこれ以上ないものに思える。
相手は自分のことを慮って色々リスクがあることも事前に話してくれた。
こんなに親切にしてくれるし、自分の弱点もさらけ出してくれてるんだ、嘘なんてことないだろう、よし、契約しよう――そうして後に重大な欠陥があったり、あるいは莫大な金だけを払わされた、なんてことはよくある話だろう。
“契約”ができること自体は目の前で水谷が見せたのだ、そこはいい。
だがもし契約してしまったら、俺たちは何か後々物凄い負債を背負わされることになるのではないか?
そんな不安が途切れることなく頭を過ぎり続ける。
先生や爺さん、妹さんは泣き止んで何とか立ち直りつつある井沢を見ていたためそこまで前のめりじゃないのがせめてもの救いだろう。
諦めにも似た気持ちを抱えて、俺は檀上を見ていた。
「――皆さん【経験値】を全て消費してしまうことになりますが、【経験値】は今後もゲームの如く稼ぐことが出来るものです、安心してください!!」
「皆、心配せずとも彼はちゃんと“契約”してくれるだろう。まずは、列に並んで、順番に――」
水谷が仕切って生徒や大人たちを誘導し始めた。
それを何とはなくぼんやりと見つめる俺の背後から――
「――えっ? それは変です」
先生が板書を間違えている、それを指摘する――本当にそんな軽い感じの声が、聞えた。
俺は最初、その聞えた言葉の意味が理解できなかった。
数瞬思考が止まっていた俺を置いて、声の主――井沢遥は顔を上げる。
先ほどまで泣きはらしていた目をごしごしと袖で拭いながらも、彼女はつっかえつっかえ言葉を紡いだ。
「そ、その、確かに“契約”するときには【所有経験値】を消費しますが、全部じゃないはず」
俺たちの周りにいた生徒や教師などは既に体育館前へと近寄っていて、彼女の言葉を耳にすることはなかった。
一方で未だ体育館のやや後方気味にて彼女の側にいた俺や先生、爺さんは程度の差こそあれ驚いた。
妹さんはというと、未だゲーム的な話に耐性が付いておらず、成り行きを見守っている。
「えっと、井沢、それはどういうことだね?」
箱峰先生が質問すると、井沢は更なる驚きの内容を打ち明けて、具体的に説明して見せた。
「わ、私、も……実は【魔法使い】の“オーナー”なんですが、“契約”の際は必要な分の【経験値】が対価として要るだけで、“プレイヤー”が持っている全ての【経験値】が必要なわけではないんです」
「……まさか君も、前で行われたあの“契約”が出来る、と」
視線を檀上と井沢に行ったり来たりさせ、流石に少々動揺した声で爺さんが訊ねる。
それに対して井沢はうなずいて、勇気を振り絞るように手をぎゅっと握りしめた。
「……あの、私、なかなか言い出せなくて、やっぱり、信じてもらえないと思って」
「……そうか。ありがとう、話してくれて」
先生はそう言って震えそうになる彼女の肩に、優しく手を置いた。
それを横目で見ながらも俺は考える。
今の状況を例えると、砂漠の中で新たな商人に出会った、という感じだ。
俺たちは砂漠の中を歩き続けて喉がカラカラ。持ち物の中の飲み物はもう飲み尽してしまった。
このままじゃ遠からず死んでしまう。
一時的に暑さを凌げる体育館を見つけて、体と心を休めるが、飲み物がないので根本的解決には至っていない。
――そんな折、「水はいかがですか?」と一人の横野が目の前に現れた。
彼は確かに飲み水を持っていて、それを飲めれば急場は凌げる。
だがその商人は傍から見ればどこか胡散臭く、「水は皆さんの持ち物全てと交換です」と言ったり、「この後も水を得たいのであれば、僕の言うことに従ってください」などと語り掛けて来た。
選択肢のないいわば水の独占状態。
どれだけ価格・対価を吊り上げようと、それが不適正な程の高値だろうと、それを採る以外に俺たちは選択の余地がないのだ。
だって、それを選ばなければ、遠からず死が待っているから。
今までの状況ははっきり言ってこんな状態だったのだ。
――そこに、もう一人、「私も、水を売る商人です」と言う少女が現れた。
それが事実だとすると、状況が根本から覆る。
有難いことに、「水は別に皆さんの持ち物全てと交換じゃなく、適正価格で構わないんですよ?」と彼女は言ってくれている。
彼女が本当に水を売ってくれる、良識ある商人だとすると、じゃあ翻って最初に吹っ掛けて来た商人は何なんだ、そこに思いが至る。
競争相手がいないと高を括っていたのか。
「今後は僕の言うことに従ってください」なんて言葉、彼女が現れた今、どうしても裏に醜い本音があるのではないかとの疑念を抱いてしまう。
――じゃないと、水を売りませんよ?
そう言葉にしてはいなくとも、そうと考えてしまう。
それはもう生存に必要な物資・道具なんかを盾に取った脅しのようにも聞こえてしまうのだ。
横野に対する疑いを、俺は一層深めた。




