旅行と蜜3
立ち上る湯けむり。その在り処をオレンジ色のライトが照らす。そして独特な匂いが俺の鼻をくすぐる。
「あー、何度も言うけどさいこーだなー」
俺はそう言って、温泉に浸かっている体の力を抜く。脱力脱力、よきかなよきかなー。
気分が良くなり、口笛まで吹いてしまう始末。
「いやー、いくらなんでも他に人がいないからってくつろぎすぎでしょ」
水を差すように鮫島が呟いた。
「いいだろー別に。どうせ今は貸切状態みたいなもんだからさ」
俺はそう言って伸びをしながら鮫島の方を見る。ようやく体を洗い終えたようだ。
あいつ、洗うの丁寧すぎなんだよな。もっと雑でもいいだろうに。
そして、鮫島も温泉に浸かりくつろぐ。
「最高ですね」
「だろ」
俺は適当に返事を返す。
そして星でも見えるかなと思い、空を見上げようとした時、鮫島は切り出してきた。
「そういえばなんですけど。帰ってきますよ。ランページプリンセスが」
「ランページプリンセス?誰だそれ。どっかのお姫様か?」
「いえいえ、実際のことを言えばプリンセスじゃないんですけど。まあ、お嬢様ですね。ランページプリンセスは誰かが付けたあだ名ですよ。っていうか、本当に知らないんですか!?」
「ああ、知らんけど……。何か問題が?」
「いやー、この学園の生徒なら大半の生徒は知ってますよ。学園も彼女の存在に悩まされたりしてたようですし。とにかく、クラスが違うから知らないという次元じゃないんです。違ったとしても皆知ってる。そんな存在なんですよ!」
「ほ、ほおー。なかなか凄い人なんだな。その、ランページプリンセスだっけ?」
「一年の時は平和な世界で生きてたんですね」
「そうですね」
俺はそう呟いて、ランページプリンセスというあだ名を聞いたことがあるかどうか思い出そうとする。
結局、心当たりはなかったが、暴れ姫や暴君などといった強烈な単語がクラス中で流れていたことを思い出す。もしかして。
「なあ、一年の二学期ぐらいから噂に聞いたことがあるんだけど、『放課後の決闘』もランページプリンセスが関わっていたりするのか?」
「そうですよ!関わってます。ていうか渦中の中心ですよ!」
「あー、そうなんだ」
『放課後の決闘』それは文字通り放課後に決闘するのだ。片方はこの学園の男子生徒で、もう片方が誰かの執事みたいな男。
俺も一回だけ、物見遊山で見物しに行ったことがある。まあ、俺が行ったときには既に人だかりが凄すぎてまともに見れたもんじゃなかったけど。
それでも覚えている。執事のような男が、この学園の男子生徒を瞬殺するシーン。流石に殺してはいないが、簡単に意識を刈り取っていた。
今思うとゾッとする。それに、あれは一種のショーのような感じがしたのを思い出す。圧倒的な力を見せつけるための。
俺は息を吐き出し空を見上げながら言った。
「で、なんでその渦中の中心のランページプリンセスが帰ってくるって情報をわざわざ伝えたんだ?ていうか帰ってくる、って表現なに?」
「三学期の途中から休学していたんですよ。理由は、つまらないからとかで」
「それは、ワガママだな。つーかそんな理由で学園が認めると思えないんだけど」
「まあそれは色々ありまして。そして、この情報を伝えた理由としては、二年になって京橋とランページプリンセスが同じクラスだからですよ。だから、気をつけろという忠告というか心配ですかね」
「そういうことね。まあ、関わらなきゃいいだけの話だろ?どうとでもなるさ」
俺はそう言ってこの話を終わらせた。そして。
「それで、俺に話したかったことはこれだけか?」
「いいえ、まだありますよ」
鮫島はそう言うと笑顔を見せる。
「次話すことは、生徒会からの感謝ですよ」
「感謝?なんでまた」
「忘れたとは言わせませんよ。一年の三学期、京橋は上級生が主犯のイジメの現場で被害者である同級生を助けたじゃないですか」
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カツカツと下駄が地面を叩く音が聞こえる。この音が、この場の最適解なんだろう。夜の温泉街に下駄の音。完璧ではないか。
「いいねー」
俺は独り言を呟きながら一人で歩いていた。ちょっとした観光のようなものである。
それにしても、街灯がいい味を出している。こういう景色を撮るだけで、インスタ映えとかになるんじゃないのか。
鮫島と旅館の温泉に入った後、遅い昼寝をしたせいか俺は全く眠たくならなかった。一方で鮫島は部屋に戻るやいなや爆睡。部屋の明かりをつけているのもあれだったので、こうして一人で夜の温泉街を歩いているのだ。
ちなみに女性陣と最後にあったのは夕食の時ぐらいでそれ以降は見かけていない。時間も遅いわけではないので流石にまだ起きているだろうが、女子三人の部屋に年頃の男子一人でお邪魔する勇気がなかった。
まあ、一人で行動するのも悪かないよなー。
俺はそんなことを思いつつ、スマホを取り出す。
せっかくだから写真を撮っておこう。
そうして、パシャパシャと景色を撮っては写真見てを繰り返していると、小さな石橋の上で一人佇んでいる女性がいることに気がついた。
俺は顔を上げ、そこを確認すると。
あ、自販機で泣いてた人。
表情は暗くて分からないものの、その女性であることに間違いはなかった。昼間とは違い浴衣を着ており、遠目から見ても魅力的な女性だと分かる。
大学生ぐらいだろうか。そんなことを思いながら俺は、その女性の方へとゆっくりと歩いていく。すると、顔を上げて俺に気が付いたのか、小さく手を振ってきた。
「お昼ぶりですね」
そう言って彼女の隣に立つ。
石橋から見える景色もなかなかなものだ。そう思い、思わずスマホで写真を撮る。
「ふふっ。意外。もしかして、写真家?」
「いやいや、違いますよ。こういうとこに滅多と来ないんで、せっかくだから写真を撮っとこうかなっと」
そう言って、また一枚パシャリと撮る。そして、撮った写真を確認する。うん、いい感じだ。
満足したところで俺はスマホで写真を撮るのを止めた。
「満足した?」
「ええ、満足ですよ。やっぱりこういうところに来ると普段写真なんか撮らないのに撮りたくなりますね」
「そっかー、やっぱりテンション上がるよね」
そう言って、どこか遠くを見るように目を細める。
俺は隣にいる彼女に目を向ける。相変わらずどこか寂しそうな顔だ。
「夜に一人で散歩ですか?」
少し踏み込んでみることにした。あまり良くない事かもしれないと思いながらも、赤の他人だからこそ吐き出せることがある。
「夜に一人で散歩か。そうだよ。私は一人」
「そっすか。気楽に一人旅行ってところですかね」
「うーん、今はそうなってるけど。本当はこんなはずじゃなかったかな」
「なんか、意味深な言い方ですね」
「……本当はね、彼氏と旅行なんだったんだけど。途中で彼の浮気が発覚して問い詰めたら、これだよ。彼には勝手に置いて帰られたし。挙げ句の果てには自販機の前で泣いちゃうし。でもせっかくの旅行だから一人で傷でも癒やそうと思っても癒せなくてね。一人でここの空気に当たってたわけ」
「そっすか」
俺はそれだけ言う。そして、これ以上は踏み込まないことにした。これ以上は、あまりに残酷だ。
そして、俺はこの手の流れは不得手だと知った。無意味に踏み込み、勝手に止める。下手に動くべきでないと痛感したのだ。これが、青春劣等生と言われる所以なのだろうか。下手にでしゃばるべきではなかった。
語り終えた彼女は、俯いて大きくため息を吐き出すと。
「ほんっと、……クソ野郎ー!!」
大きな叫び声に俺はびっくりするしかなかった。それは、他の人も同様で驚いたようにこちらに目を向ける。
「ははっ!あー、精々する。あんな奴こっちから願い下げだっての。勝手に他の女とイチャイチャでもなんでもしとけってね。ほんと嫌な奴」
そこまで言うと声は途切れ、次に聞こえるのは肩を震わしながらの悔しそうな音。
俺は目を逸らして何も言わない。
こうして互いに無言のまますこし時間は流れた。
やがて、彼女は深呼吸を数回すると俺の肩をちょんちょんと叩く。それに反応するように俺は首を動かした。
「静かになってどうしたの?」
「いや、なんて返したらいいのか分かんなくて」
しどろもどろな回答だったと思う。
それでも彼女は柔らかく微笑む。
「いいと思うよ。はっきり完璧な回答なんて求めてないから。君みたいに必死に言葉を探してくれている方が嬉しい人もいるんだから」
「そうなんですかね」
「そうだよ。……私がそうなんだから。だからさ、私の傷を君に教えたお返しとして、君が今何を思っているのか教えてよ」
「俺が思ってること。それは、」
言葉に詰まる。俺はこの手の流れは不得手だ。それを今さっき知った。だから、こんなことを言うのは間違いかもしれない。
でも、ありのまま思ったことを言おう。
「なんで、こんなに綺麗で美人な彼女をほって浮気なんてできるんだよ、って思いました」
そう言うと、しばらく彼女は目を点にしていたが、じきに大きな笑い声を上げた。
「いやー、そんなこと言われるとは思ってなかったなー。うん、予想外。やっぱりナンパ?」
「ナンパじゃないですって!」
「そう?ナンパじゃないんだ。ありゃー残念」
彼女はそう言うと頬を照れくさそうにかいて続ける。
「君さ、名前はなんていうの?」
「京橋龍太です」
「京橋君ね。私の名前は、坂上奈央。奈央って呼んで」
「じゃあ奈央さんで」
「うん。ところでさ、京橋君。恋人っているの?」
「はっ?いませんよ!なんですか急に!」
「いやいや気になったんだよ。それで恋人はいないと。そっか、いないのか。じゃあさ、―――」
そして、坂上奈央は俺の胸元に顔をうずめて言ったのだ。
「私の彼氏になってよ」
心臓が高鳴り、鼓動は加速する。全身に熱が駆け巡る。
俺は、今、生まれて初めて告白された。
上擦りそうになりながらもなんとか無言になるのを防ぐ。
「なんで、俺なんですか。ていうか、急ですね」
「君の優しさに惚れたの。京橋君じゃなきゃ嫌なの。それに、恋は突然訪れるものなんだよ」
そして、腰に手を回し離すまいと抱きしめられた。
「付き合っても、お互いに住んでる場所は違うだろうし、会えませんよ」
ここは温泉街。そこでたまたま出会ったのだ。住んでいる場所が離れていてもおかしくない。というかその方が確率的には圧倒的に高いはずだ。
「大丈夫だよ。距離なんて関係ない。それに、すぐに会えるよ」
「え?」
「それで、どうなのかな。答えを聞かせて」
そう言って坂上奈央は上目遣いで俺を見つめる。
今にも溶けてしまいそうな目から視線を外し唾を呑む。
皮肉なもんだよな。人生って何があるのか分からない。突然、恋人を手に入れるチャンスが訪れたりするもんだって知らなかった。
俺にも春がやってくる。今目の前で、待っているのだ。あと一歩踏み出すだけで、俺に春は訪れる。
だからこそ、俺にとって残酷な選択をしなければいけない。
「ごめんなさい。俺は付き合えません」
俺に春はやってこないのだから。




