僕の嫁 第2章 白鷺武踏編(第十一話)
【第十一話 散華】
「姉様」
散華は羽女の声に振り返る。
「羽女はまだ両の足で立っています」
昔から諦めの悪い妹だ。
「姉様は敵に背中を向けるつもりですか?」
叶わぬと知りながら何度も何度も、この姉に挑むことをけしてやめなかった。
「放っておいても、少しでも体を動かせば死ぬような、死に損ないの口でも妹は姉に文句ばかり言う」
散華の体が宙に浮く。
「今黙らせてやろう」
見つめる散華の右腕が鉾に変わる。
「たかが千!たかが千の己が業など!!」
「さぞや苦しかろう。今楽にしてやる」
突然散華の全身に予期せぬ重圧がのし掛かる。自らの改編した重力と高重力の狭間で散華の首と背骨が悲鳴を上げる。
驚きと怒りに見開かれた眼は眼下の羽女に向けられる。
「羽女、貴様」
「如何ですか?初めて背負う己れの心の重さ」
羽女は立ってはいるが既に虫の息に見えた。
「私の改編を何時…」
「切り札は…最後…まで。姉様は…私の…」
放っておいても何れ死ぬ、しかし。散華の口の端がつり上がる。
「私には姉様の重力改編は真似しようとしてもできませんでした…だから神速の源である鳳凰を解き放ち、今自ら依代となりて想兼を召喚致しました」
「馬鹿な、想兼だと!?あれは知と深謀遠慮を司る神だ!戦とも重力とはなんの関係も…それに羽女、鳳凰の力を手放せばその体、二度と再生は出来ぬぞ!」
羽女の胸もとから依代にしたセキレイの金色の羽が一片零れ落ち散華の目の前で大気に溶けて消えた。
「さすが姉様、説明の手間が省けまして、ございます。そして…もう一つだけ申し上げたいことが、羽女には…」
羽女は散華の言葉を待たずに続けた。
もはや言葉ーつ息を吐く度に意識が遠のくようで、瞳から徐々に光も失われつつあった。
「姉様が今背負っておられるのは重力ではございません。姉様の想いの重さです」
「なんだと…」
「祭主として…この国の民を見守って来た姉様の想い、愛するあの御方に姉様がよせた想い、それらすべて人の持つ深い慈悲の心。今一度だけ思い出して頂きたく、想い兼を召喚致しました」
「馬鹿が!それを人は業と呼ぶのだ!」
「私の体も今それを等しく背負いました」
「己の業の重さなら充分に知っている」
右腕を弓をつがえるように引き絞る。
「ならば誘われるまま墜ちるまでだ」
目にみえぬ空気の壁を蹴り、荷せられた高重力すら味方につけた散華は羽女を仕留めに向かう。
「たかが千」
散華は自らの体に千の重力を荷した。
思考よりも早く脳裏に浮かぶ絵があった。今と変わらぬ自分と羽女。
最初から二人だけだった。
「届きました!ほんの僅かだけど姉様の衣に触れました!」
あの時私はどんな顔をして、どんな言葉を妹に。今も真っ直ぐに自分を見据え拳一つで挑もうとしている妹。幼き頃と何も変わってはいなかった。その妹が神の為とは言え人のみちを違えるはずなどない。変わってしまったのはこの私だ。
散華の到達速度は羽女のそれを遥に凌いでいた。
羽女は迎撃の拳を下段に構え散華を待ち受ける。
肩は既に上がらないはず。それしかない。予測通り右の拳を突き上げる。首を僅かに反らし散華はそれをかわす。
突き出した鉾の先に羽女の姿はない。
幼子の頭を撫でるように羽女の左手がふわりと散華の髪に触れた。
「届いた」
その言葉を耳にした刹那全体重をかけた左手が散華の顔を強引に下に向かせる。
「姉様」
物理法則も己の拳の骨が砕けるのも厭わず。
「この国の神輿」
放たれた円乗羽女の最後の一撃。
「この円乗羽女の拳が背負っております」
散華の知る正確無比な軌道を描く美しい羽女の打撃ではなかった。むちゃ振りもむちゃ振り、大振りも大振りの、力任せのくそアッパーカットだった。
砕けたのは己の顎か、妹の拳、それとも姉と妹どちらの業であったのか。おそらくは、そのすべて。
しかし散華にはどうでもよかった。互いの体が反り返る。落ちて叩きつけられた体がバウンドする。
それほどの衝撃、それほどの一撃をくらい倒れ込んだ散華は二度と起き上がる事はなかった。
風に流された榊が崩れ落ちた羽女の目の前を転がる。彼女はそれを右手で掴むと天に翳す。彼女の知らぬ至るところで歓声が巻き起こっていた。
そうして白鷺武踏会は幕を閉じた。
「この日起きた事は全て祭の上の催しであった」
人々は後に祭主からの言葉を聞く事になる。まあ神輿を背負っているのが「国の民の皆様」とかあえて言わないところが寧ろ彼女らしいな…と僕は思う。
ところで海の藻屑と化した。あの世に
行く間の短い夢を見ていた。
夢の中では、僕のマンションに初めて訪れた時の円乗さんが現れて。
「ワッショイ!」「ワッショイ!」
そう言って僕を励ましていた。
あれから僕も神社について少しは勉強したんだ。
ワッショイ!ワッショイ!
思えば不思議な言葉だ。ワッショイとは元々は「和を背負う」という意味があるらしい。
円乗さんは散華に勝てただろうか。脳みそまで海水に浸かりながら僕は思う。
彼女なら…きっと大丈夫だ。
僕も円乗さんと一緒に少しはこの国を背負う手伝いが出来たならいいのだけれど。水の中で薄目が開く。
目の前に水中カメラを担いだ寡婦。ビニールでくるんだカンペを僕に見せる。
【構図が命】
うるせえよ。早く助けろ…敵でも南極条約とか…あるだろ。
水の天井を破り誰かが海に飛び込む。
目の前に竜宮城の乙姫様が現れて僕の唇にキスをする。それは末期の夢か…僕の記憶は肝心なところで途絶えた。
【第十二度話 大団円に続く】