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(掲載全話バ―ジョン)絶命的ラブコメ発動せずフラグも立たない僕に天使は舞い降りたか

「読んだ方に楽しんでもらえたら」という気持ち優先で書いていきたいラブコメファンタジ―です(〃^ー^〃)ああしてこうして手を変え品を変えてですね(´・ω・`)読み手の方と楽しさを分かち合えたらうれしいな・・反響少しでもあるといいなと思います。よろしくお願い致しますm(_ _)m

【プロロ-グ】


生まれて初めて嫁と視線が合った。


その時僕の中で何かが音を立て崩れた。


それまで僕は自分の事を無機質なカルシウムの殻で出来た卵のような存在だと思っていた。


つるんとした何のメリハリもない面白味のない人間・・それが僕だ。


少なくとも両親にとって僕は卵以上の存在ではあったかもしれない。大人しくて手のかからない人形みたいな子供だった事には変わりはないが。


周囲の人々にして見ても、ほめどころに困るような。愛敬も面白味もない少年。そんな事は幼い頃でも大人たちの自分への反応を見れば薄々とは覚してはいた。


さすがに高校生にもなると両親が反抗期の兆候もない我が子の素行を少しは訝るようにはなったのだが。


ある日突然殻に皹が入る。


消音機が装備された彼女の瞳から放たれた銃弾が僕の体の中心を撃ち抜いたのだ。


どうやら僕は生涯を通じて卵人間ではなかったようだ。本当は剥き出しの裸の心を持った、餓えた声で泣き叫ぶ実に醜い生き物であった。


僕は色んな意味で醜悪極まりない。そして彼女は他に例えようもなく美しい。


それだけが僕の知ったリアルだ。


彼女に出逢った瞬間。月並み過ぎる言葉で言えば恋に落ちた。


殻はその時剥がれ落ちた。


「恋というのは罪である」


そう誰かが言った。誰かが今もリツイし続けている。それは、いかにもありふれた巷に溢れる言葉の端切れに過ぎない。


尻の穴に残ったトイレ紙くらいの価値しかない。


しかし彼女の切れ長の美しい瞳と白磁のような白い指先、星の瞬きさえも赦さない漆黒の髪を目の当たりにした時僕は目眩の中で罪を知った。


罪を求める指先は震えながら互いに触れ合う事だけを求めた。


それは、ひんやりと冷たく僕の指先に触れた途端に胸の奥底を容赦も慈悲もないほどに熱く焦がした。僕はその時から途方も無い馬鹿者になってしまった。


「彼女を自分のものにしたい」


そんな欲求は掻き毟るような激しい渇きに似ていた。湧き出した渇望と劣情の黒い奔流が僕を呑み込む。


そのまま光の届かない暗い淵の底へと沈めた。


それが、いかに人の道に外れ、僕の両親や兄を哀しませる行為だと知りながら。


僕が彼女の手に指先を絡ませ、そこから彼女を連れだした、あの日。


彼女も確かにそれを望んでいたと今も信じている。僕等が出会ったのは、死より強い絆で結ばれた運命だったのだ。






【第一話 稀人と神嫁】


まずは【嫁】について話そう。僕が住む世界について語る事は嫁について語るのと同義であると僕は考える。




朝部屋のベッドで目覚めた時僕は1人を痛感する。また長い1日が始まる。


嫁のいない僕の日常が。


夢の最中、微睡みの途中、確かに僕の隣には嫁がいた。朝霞のような儚い微笑みの記憶が頭の中に残ってはいるが。


僕に嫁がいたという事実はこれまでの現実の中で一度もない。にも関わらず確かに嫁は夢の中で一度だけ僕に微笑んでいてくれた気がするんだ。


嫁。


浅ましい無い物ねだり。嫁欲しさのあまりに、さもしい、とことん惨めなこの気持ちがそうさせるのだ。


首を振り頭に吹き溜まる妄を追い払う。拳で上掛けを1つ叩きベッドから抜け出す。


朝食も食べず高校の制服に袖を通す。


朝食などあるはずがない。制服のワイシャツにアイロンがけなど望むべくもない。


だって僕には嫁がいないのだから。


「マック寄ってく時間あるかな」


洗面所の鏡で髪を整えながら1人呟く。


夫唱婦随が当たり前のこの世界に於いてマックであろうがコンビニであろうが僕を出迎えてくれるのは朝の太陽より眩しい夫婦ツインの笑顔。


高校に行っても夫婦揃いの夫婦茶碗ならぬ夫婦机がずらりと並ぶ。


嫁がいない僕の席。隣の椅子にある日テディベアが置かれていて軽く泣きそうになった。


「こういうイジメみたいな事はよくないと思います」


HRの議題に取り上げられ結構な議論になった時はマジで死のうと思った。


【嫁がない人間は首がないのと同じ】


そんな世界に暮らす僕は人間界に紛れ込んだ文字通り首なしか…ゾンビか吸血鬼のような存在に等しい。


いや、映画のゾンビも吸血鬼もつがいの夫婦なんだけど。


世間の奇異な物を見る目にも、腫れ物に触るような扱いにも慣れた。でも孤独には慣れない。


それでも僕は身支度を整え学校に行く準備をする。


「いつの日にか僕にも嫁が来るさ。頑張れ!ファイトだ!!!」


そう自分を鼓舞してマンションのドアを開けた。


「いよお!【ど・く・し・ん】朝から冴えねえ面だな!?」


玄関のドアを開けた瞬間にいきなり狙撃弾を眉間に喰らう。


【独身】


そのアダ名を聞いた途端に膝から力が抜け崩れ落ちそうになる。


前を向いて強く生きて行こうと立てた朝の誓いが無残にも崩れ去る。


マンション隣の部屋から顔を覗かせた男は僕と同じ高校に通うクラスメートの滝田だ。


「その呼び方やめてくれ…一向に慣れないし受け入れ難いし。その…ひどく哀しい気持ちになる」


青息吐息で僕は滝田を見上げる。


「あ…地雷踏んだ?わりぃ」


茶髪の頭をかき上げながら滝田は悪びれる様子が全くない。


「遼君ってば!置いてかないでよう」


ドアから制服姿で飛び出して来た内股でニ-ソの可憐な乙女。同じクラスの三咲ちゃんだ。


「三咲おせえよ」


「だって、お化粧まだなんだもん…遼君…ん…」


三咲ちゃんは滝田の前で踵を浮かせた姿勢のまま目を閉じて唇をつきだした。


「行って来ますのキスゥ」


これが噂の朝のキスのおねだりか。


いや…あんたも行って来ますだろ…学校。ていうか俺は空気?


お出掛け前のキスにしてはとても濃濃な…2人のキスを目の前で見せつけられ。


滝田に口紅がついた顔で「今日は学校来るんだろ?先行って待ってるからな!」


明るく親指を立て爽やかに去られた。


僕は軽く手を上げて卑屈な笑みを浮かべたままだった。


「朝からけしからん事を」


なんて言うのは無粋と言うもの。だって二人は夫婦なんだから。


二人が去るまで顔を上げずにいたのは三咲ちゃんの顔をなるべく見ないようにしたからだ。


見たら忽ち好きになってしまいそうな僕も十代なわけで。


人様の嫁を好きになるなんて万死に値する。独身よりも不名誉で恥ずかしい行為だと知っていたから。


もっとも三咲ちゃんは最初から僕の事なんか眼中になくて、最初から夫である遼の顔をうっとりした目で見ていた。


特に滝田の妻である三咲ちゃんに思いを寄せているとか、そうではないんだ。


この街には美しい女性や可愛い女の子が沢山いて…多分僕の知る限り1人残らず誰かの嫁だという事実。


「今日も学校に行くのを止めよう」


僕は立ち上がると拳を握りしめた。


「この世界の何処かに俺に相応しい嫁が!出逢いが俺を待ってるはずだ!!」


僕だって嫁がいれば…学校に行く時にお出掛け前のキス。目の前に三咲ちゃんの閉じた睫毛と少しだけ開いた柔らかそうな唇が浮かぶ。


思わずエア嫁を抱きしめた僕は唇が、ちゅ-のかたちになる。


「あれ…おかしいな…なんか涙が止まらないや」


それは、あまりの惨状に耐え兼ねた僕の自我が幽体離脱した挙げ句俯瞰で今の自分の有り様を見たからに違いない。


きっとそうだ。その涙だ。


思わず嗚咽が漏れそうになる。手首を噛みながら僕は滝田の部屋のドアを見た。


この扉一枚隔たてた場所では朝と言わず夜と言わず、あんな事やそんな事が毎日毎日毎日毎日毎日。


「愛の巣め!」


気がつくと力まかせにドアを蹴っていた。自分の意思とは裏腹にドアを蹴る足が速度が勢いがそして鼻息が止まらない。


「くそ!くそ!くそ!嫁・が・い・る・の・が、そんなにそんなにそんなに偉いのかよお!ふが!死ね!!!」


沸き上がる黒い情念。そして哄笑が止まらない。今の自分がとてつもなくみっともなく哀れで愛おしい。


「先程から1人で何をしておるのだ?相生裕太氏」


背後から肩を指で突かれる。


うじって…日常秋葉原でもなければ絶対そうは呼ばない呼び方をされて僕は振り返る。



清楚な白を基調にした唐衣の上衣に同じく白地に赤・黄・緑・黒・紫の尊色五色に染め分けた巻きスカート。


薄く長い領布を靡かせた黒髪には飾り花が一輪。一目で高貴な身分と分かる端正な顔立ちの少女がそこにいた。


「大家さん!?」


「名前でよいぞ」


「神主様!」


「肩書きで呼ばれるのは好きではないのだ…祭主だがね」


「女性を名前で呼ぶ事に不慣れで」


「哀れな」


円乗羽女。


嫁にしたいなあ。


認識よりも早くシナプスだかニューロンだかよく分からない場所をリピド-が追い越して行く。


でも、それは叶わぬ夢。磯の鮑の片想い。僕が知る限り僕が住むこの世界で最も美しく聡明で気高く…僕が知る限り、僕と同じ唯一の独身、しかも女性。


神嫁。大家さんより神主様よりも彼女にはその呼び名こそが相応しい。


かつて戦争と敗戦と動乱の時代を経て政教分離を憲法に謳う時代は古の昔。


古神道の古き神々と日々邁進する現代文明が寄り添い合う時代。その狭間に僕らは生きている。


わが国第一の宗廟、高砂神社は全国に50万の大小様々な分社を持つ。街の南西にある向去山を背後に頂く高砂神社。


苔むした石段と神明鳥居の笠木を千本潜り抜けた先に漸く見える茅葺き屋根と神明倉造りの大社。


高さ八丈の偉容を誇る高砂神社が円乗羽女さんの生家だ。


神にその身を捧げた神の嫁、それが彼女。高嶺の花の度合いが摩天楼どころか成層圏を軽く超えている。


マゼラン星雲の女神様だ。同じ独身でも円乗さんは偶像なき時代のアイドル…その落差にさすがに溜め息も出ない。


「どうした?相生氏。朝からそんなしけた面では来る嫁も逃げてしまうぞ」


現代社会に於いて彼女の存在と比較対象されるのは神世の時代の女王卑弥呼ではなく、かつてこの世界に存在したというバチカンのロ-マ法王だ。いや、寧ろ両方と言っても過言ではない。


バチカンもロ-マ法王も詳しく知らない…でも、あまねく世界の信仰の中心の頂きに立ち世界中の人々から崇拝や称賛や羨望の眼差しを集める人は皆、こんな風に口さがないのだろうか。


「円乗…羽女様は」


「円乗でも羽女でも構わぬ。同じ高校に通うクラスメートではないか」


そうなのである。円乗羽女は僕と同じ高校に通う同級生でクラスメート。実は席も隣同士。同じ独身同士。


しかし彼女は神事や政に日々追われているようで、めったに学校に顔を出さない。


学校に行かないのは同じでも、リア充ばっかで身の置き処がない自分とは随分違う。


「ところで円乗…円乗さんは何時からここに?全然気がつかなかったよ」


気を取り直し僕は明るく聞いてみた。円乗さんは人差し指を唇にあて少し思案するような仕草をして言った。


「日頃足音を立てぬような所作を求められる故気づかなかったのであろうな」


「なるほど…僕には想像もつかない環境です」


「何時からと言われば、相生氏が滝田夫妻を見送るまでずっと相生氏の背中に潜んでおったぞ。華奢に見えるがどうしてなかなか広い背中で感心した」


指先で珍しそうに背中をなぞる。それは、いい。とても、いい。しかし。


「さっきから、ずっとそこに?」


「うむ」


「一部始終ずっと?」


「うむうむ」


彼女はこくこく頷いた。


「我ら若者には、若さ故に抑えきれぬ衝動もあると聞くが、他人の部屋の扉を無暗に蹴るのは如何なものかと…」


「すみません大家さん」


俺は頭を抱えた。代々高砂神社の祭主を務める円乗家は円乗グループとして神社分社50万の他に系列企業20万社を抱える一大コンツエルンでもある。


彼女はその企業のトップでもある。この街に暮らす人々の全てが高砂神社の氏子であり、僕のような税金も納めないような学生でも円乗グループの経営するマンションに格安で住む事が出来、家賃は御布施として上納される。


おかげで市民として様々な行政の恩恵を受ける事が出来るのだ。


つまり僕は円乗さんの店子で氏子と言う訳だ。


カ-スト制度なら尖端の尖端と最下層。しかし円乗さんはそんな僕を見下すどころかクラスメートとして平等に優しくしてくれる。


「ドア、すみませんでした」


「別に凹んでないし大丈夫だよ!相生君」


「え」


「あ…いや、君が敬語で話すから。クラスメートっぽく言ってみたのだが、ダメか?」


そんな風にじとりと曇りない目で覗き込まれると気恥ずかしさとは別に胸の中が温かくなる。久しく忘れていたような気持ちだ。


「何故僕の後ろに隠れたの?」


もしかして人見知りとか。僕は円乗さんの事を知っているようで全然知らない。この街に住む誰もがそうだ。


「私は何処にでもいるが何処にもいない」


相変わらず謎だが、なんとなく分かる気がした。


「間もなく高砂祭の季節だから、何かと忙しく、街で人に会うと色々面倒なのだ」


彼女が学校に登校するだけで教員も生徒も授業そっちのけで熱狂と歓喜の渦が巻き起こる。多忙を極める彼女と触れ合えるのは年に一度の高砂祭の日に限定されていた。


もっとも氏子であり市民でもある僕だが高砂祭りに参加した事はない。


高砂神社は我が国最高社格にして霊験あらたかな縁結びの神社と言われている。


しかし実際は結ばれていない縁の結びを祈願する神社ではなく結ばれた縁に感謝と絆の未来永劫を祈願する神社なのだ。


だから僕には縁が無い。というか、そのような場所に於いて唯一独身の僕は神の摂理にそぐわぬ【穢れ】に似た存在。


今まで生きて来た短い人生を振り返るにつけ神社や祭事から足が遠退くのは自然の成り行きだった。


「昨年も一昨年も相生君お祭り来なかったね」


なんか、たどたどしいクラスメ-ト口調が新鮮だ。


「部屋からも祭り囃子は聞こえるし花火だって見れるんだぜ」


あんなにも内外から沢山の人が街中を埋めつくす祭りの中で円乗さんは僕が1人で祭りに参加しない事を気にかけている。


本当に優しい女の子だ。僕は正直神様が羨ましい。


「僕が行ったら皆興ざめ…」


言いかけた僕のネガティブな言葉を彼女の人差し指が止める。


「お祭りは楽しむものだよ相生君。みんな楽しんでいいんだよ」


「円乗さん」


「相生君がもし今年も1人で部屋に居るなら…私は…」


私は?私は…なんて言うつもりなんだ!?円乗さん。そっから先はたとえ勘違い野郎として恥をかいても、ここは一番僕が言うべきじゃないかのか?


玉砕覚悟で、それが勇者、それが男子ってもんだ。


「あの、良かったら僕とお祭りに」


僕は思いきって彼女にそう切り出してみた。


「私は相生君を賽の河原に連れて行かないといけないんだ」


何を言ってるんだかよく分からない。


「あの、円乗さん?」


「いかん、つい職務を忘れて私とした事が…非情であれ円乗羽女!」


彼女は俯いて高速で首を横に振る。思い詰めた表情だった。


「円乗さ」


顔を上げた円乗羽女は出会った時と同じ神の代行者の佇まいを取り戻していた。


「相生氏」


せっかく親密度が上がったと思ったのに。


「実は、昨夜私の元に神託があった」


「神託…ですか」


僕はごくりと唾を飲み込んだ。高砂神社の円乗羽女の神託。それは彼女の意思に関わらず政治や民の生活の根幹に関わる天からの言葉。


「相生裕太氏に天の御神からの御言葉を伝える」


「はい」


「来たる7の月27日…今より1月後の高砂祭りの日までに君の連れ合い、つまり嫁が現れない場合」


「場合、どうなるんですか?」


「君は全身の体毛を剃毛された後、衣服や戸籍はおろか住居と市民の権利全てを剥奪され、無名の者として賽の河原に流刑となる」


なんという死刑宣告。…いやいっそ一思いに殺してくれよ。賽の河原って何県にあるのだろう。


円乗さんに質問してみた。


「何処にでもあるし何処にもない」


そんな幽玄な場所には絶対行きたくねえ。


大家であり神の御使いで同級生でもある円乗羽女。そんな彼女が僕に告げた。


祭りの日までに嫁を見つけなければ人間としての尊厳と権利を剥奪された後に人外の地に流刑の憂き目に合うらしい。


「確かに嫁無き者は賽の河原に送られるという伝承は昔からあった、しかし」


「しかし何ですか?」


「君の年で嫁がいないなどという前例が過去100年の歴史を紐解いても存在しないのだ」


歴史的記念碑モニュメントぼっちな訳か。


「まあ、どんな時代にも生物的異形は存在しますからね」


諦念から自棄になった僕はニヒルな笑いを口元に浮かべた。


「アルビノとかレオポンとかハイブリッドイグアナとか雌雄同体とか所詮俺は…」


「しっかりし給え相生君!」


力任せに背中を叩かれる。


「嫁がいない位で落ち込むんじゃない!」


今度はCEOか…別に分裂病とかではなさそうだ。TPOに合わせて彼女も色々大変なのだ。


17才の女子高生1人がとても背負いきれない重荷を幾つも彼女は背負って生きているのだ。


そう考えると嫁がいないくらいで、しょぼくれてる場合じゃないなと。僕は自分で自分の顔を叩きたい気持ちになった。


「ありがとう円乗さん。僕祭りの日までに絶対【嫁】探してみせるよ」


「そうか!そうだな…きっと見つかるさ」


彼女は少し俯いて答える。やがて懍とした曇りない瞳が僕を真っ直ぐ見つめる。


「君は何一つ悪くない。他の男性と同じ、いやそれ以上に…正しい心を持っていると私は思う。幸せになっていいんだぞ。私は応援する…今日はそれを伝えたくてな」


彼女は僕に最悪の知らせと最高の気持ちの高揚を届けてくれた。


こんな僕のために、ありがとう円乗さん。神社にお詣りした事もない僕は心の中で円乗さんに手を合わせた。


人目につかないように非常階段から帰るという円乗さんを残して僕は彼女に別れを告げた。


「応援してる!円乗君!」


「ありがとう円乗さん」


「応援してるぞ!ワッショイ!」


円乗さんはお祭りモ-ド全開だ。この世に女神様がもしいるならば。僕の背中には女神様のエ-ルが、こんなに心強い事はない。


「ワッショイ!ワッショイ!」


あの円乗さん…そんな大きな声出したら近所迷惑…。


案の定マンションの扉が一斉に開いた。


「きゃあ円乗様!!」


「貴方!ハネノメ様が降臨されたわ!!」


「写真撮らさせて下さい」


「握手して下さい」


忽ち彼女の周りに人の輪が出来てもみくちゃにされる。


1つ分かった事がある。僕の住む世界の女神様、円乗羽女はとても不器用な女の子で…神社の御神木並みのテンネン記念物だ。


僕は男気を見せて彼女を人垣の中から連れ出そうと一歩前に出ようとした。


彼女と目が合った。


「ややこしい事になるから」


「だめ」


遠くから彼女が優しい眼差しが揺れ、唇が囁いた。


僕は頷いて彼女に背を向けてエレベータに向かって歩き始めた。今日から嫁クエストの始まりだ。


エレベータの扉が開くと中から祓い棒を手にした夥しい数の巫女さんたちが飛び出して来て彼女に群がるマンションの住民を裁き始めた。


尋常じゃない身のこなしに背筋が寒くなる。


巫女たちをたしなめる彼女の声を最後にエレベータの扉が閉まる。


外にでると初夏の日差しと公民館から聞こえる揃わない笛や太鼓の祭囃子を練習する音が聞こえて来る。なかなか揃わない音色や拍子が夏の訪れを教えてくれる。


数えたら僕にも17回目の夏が来ていた。また1人ぼっちの夏だと思っていた。


けど今年の夏は初めから違っていたんだ。


第二話【夏の思い出】に続く


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六葉翼 [ID:1519963]

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僕の嫁2

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前書き

僕嫁2章開幕!1に続いて読んでくださろうとする方に感謝です(〃^ー^〃)今回から神嫁円乗や主人公の稼働範囲も少しづつ外の世界へと展開していきます。しばし嫁なしワ―ルドお楽しみください(〃^ー^〃)読みやすくするために2、3と単発で掲載する予定です。全部繋げると長くなるので(´・ω・`)よろしくどうぞ(*゜▽゜)_□

本文

【第二話 夏の思い出】



夏の思い出くらい僕にだってある。


炎天下の街を僕が嫁を求めて歩き回っていた頃。夏の暑さとは別に街は熱気に包まれていた。


誰もが心待ちにする高砂祭を一月後に控えていたからだ。一方の僕はといえば、既に飛ぶ力もなく、地面を這いまわる死にかけた蝉の歩みだ。


茹だりながら歩道を歩く。額を汗が伝う。僕の横をジョギングウェア姿の男女が追い越して行く。


見渡すと、そこかしこにそんな風体の二人連れを見かけた。和やかな雰囲気はなく表情はロ-ドワ-クをこなすプロボクサーのように真剣だ。


公園では組手や打撃練習でサンドバッグやミット打ちに興じる男女のペアが多く見受けられる。


「ああ、あの人達は【夫婦無双】に出場する人達なんだな」


祭に縁のない僕でも分かる。


【夫婦無双】は巷の俗称で【白鷺武踏会】というのが正式名称らしい。


元々は祭りの日に神社の境内で優雅な能や狂言・社交ダンスに加え武道の演武を披露したのが発祥と言われている。


高砂神社が奨励する武道は多岐に及び、学校の体育の授業や部活動に取り入れられ地域に根差している。


そこかしこに看板を掲げた神社公認道場を目にする。そこから発展した夫婦無双こと【白鷺武踏会】は文字通り三國一の最強夫婦を決める祭の一大イベントだ。


ただ強いだけではなく、精神や知性に加え、社会的に優れた文武両道と認められた夫婦が優先的に参加を認められる。


勿論希望すれば当日の飛び入りも参加も可能だ。しかし街中のドクターが会場である神社の境内にかき集められるセメント勝負であるため、おいそれと素人が参加出来るものではないと聞く。


主催者ではある高砂神社から優勝夫婦には破格の豪華商品が与えられるらしい。


世界一周旅行だとか、お城のような豪邸だとか、一生生活に困らない金銭だとか、あるいは、それら望むもの全てであるとか。噂を数え挙げたらきりがない。


人々がその報酬の噂に信憑性を見い出すのは、やはり後ろ楯にある、円乗グループの存在の大きさだろう。


神社にも祭りにも縁がない。そんな僕が白鷺武踏会に多少なりとも語れる知識があるのには理由がある。


実は昨年の白鷺武踏会の優勝夫婦は僕の住むマンションの住人だった。それまで面識は一度もないご夫妻だった。けれど其処俐で大変な話題になっていた事は間違いない。


ある日部屋のインターホンが押された。


「僕に客なんて」


怪訝に思いながら応対に出た。


「205の時田です」


モニターに映るの品の良さそうな一組の夫婦。聞けば白鷺武踏会に優勝した御祝いに紅白餅を配り歩いているのだという。


話をしたのは正味5分てとこだろうか。


旦那様は地方公務員。奥様はセミプロの声楽家というご夫妻だ。休日だというのにワイシャツにネクタイ。事務用の腕宛まで着けた旦那は少々奇妙に見えた。


とても夫婦無双な出で立ちには見えない生真面目そうな優男だ。


「やっぱりおかしいでしょ?うちの主人の格好」


「そうかな…一番落ち着くんだけどな」


「もう仕事する必要がないのに『未整理の仕事が残っているから』と在宅勤務にしてもらったんですよ。おまけに家でもこんな格好でTシャツに短パンで構わないのに…本当におかしな人!」


旦那を見る奥さんの眼差しがとても優しさに溢れていたのを今でも覚えている。


「優勝出来たのは妻のおかげです!」


「大会始まって以来の全試合不戦勝らしいですわ!」


「全試合不戦勝って、そんな事ってあるんですか!?」


「私のヘタクソなオペラを聞いて出場者全員戦意喪失で不戦勝です」


白鷺武踏会の全容が僕にはまったく見えて来ない。一体どんな大会なんだ!?


「妻の名誉のために言わせて頂きますと、彼女はヘタクソなんかじゃありません!彼女の歌声はとても美しく特別なものです」


聞けば優勝の報奨に関してはまだ希望を出していないらしい。


「私の望みと言われましても、1日の終わりに妻の歌声を聞ければ…出来れば長い時間妻の歌う姿を眺めていたい。それだけなんですか」


「しばらく神社の好意で島に滞在する事になりそうです」


「出来れば妻に沢山の素晴らしいオペラが上演される舞台を見せてあげたい。いや見るだけじゃなく舞台に、大勢の人に彼女の歌声を聞いて欲しい」


「この人ったら自分の事はそっちのけで」


「私は以前は彼女の歌声を独り占めしたいと思っていました。けれどあの殺伐とした闘いの場で皆が彼女の歌に心を奪われ涙する姿を見て心が変わりました」


「円乗グループが用意してくれるリゾート島で思う存分奥さんの歌に浸れますね」


「まったく夢のような話です。私はそれ以上何も望む事などありません」


見事に優勝を果たし、三國一の夫婦の称号を得た時田夫妻だったが、大会終了直後に事件は起きた。


「大会の会場に黒衣の女が現れて…そう、あれは喪服でした!」


「彼女は1人で大会の出場者と全員を倒したんです」


「それだけでなく異変に駆けつけた警護の手練全員も一瞬で倒されました」


優勝の榊を手にした時田夫妻の前に歩み寄ると女は呟いた。


「逃げろ」


「まるで人間の箍が外れてしまったような。鬼神のような強さだったな」


「とても悲しそうな瞳でした…仮面に隠れて表情こそ伺う事は出来ませんでしたが」


黒衣の女は時田夫妻から榊を奪い取り、祭主で審議員長席にいた円乗羽女に突きつけた。


「円乗さんは挑戦を受けたのですか?」


夫婦は僕の質問に揃って頷いた。


「突然の狼藉者に神聖な武踏会を汚されたのですから当然です」


結果は円乗羽女の圧勝で終わり境内はたちまち歓喜と熱狂に沸いた。


「あれを祭りの余興と言う人もいました。けれどあの黒衣の女は仕込みや余興の道化ではなかったと思います」


神社や祭りに全く縁がない自分の知らないところでそんな事件があったとは。結局謎の女は群衆に紛れ逃走し今も正体も行方も不明だという。


それから暫く他愛ない世間話をした。話が僕の嫁の有無に及んだ時には、いつもの気まずい沈黙を覚悟した。


けれど時田婦人は明るい笑顔で言った。


「でも相生君はこんなに素敵な男の子ですから、きっとすぐにいいお嫁さんが来ますよ」


そう言って僕を励ましてくれた。御夫婦揃って温かい言葉をかけてくれた。


「私たちもいつか貴方みたいな男の子が欲しいわ!」


週末になると、円乗グループ系列の引っ越し業者の大型トラックが、マンションの駐車場入り口に停められているのを駐輪場から見た。その日に時田夫妻は引っ越して行った。


これもまた夏の忘れ得ぬ思い出だ。



夫婦無双に限らず、これまで文化や社会的貢献度を高く評価された人間には、なにがしかの報奨が毀誉された。


まるで外国の高額宝くじに当選した人々がそうするように、彼らはアドレスや電話番号を変え、住み慣れた街を後にした。


いきなり億万長者になったりしたら多分僕もそうせざるを得ないかも。なんて、僕には夢のような話だ。


億万長者や豪邸どころか嫁がいないせいで流刑地送りになるかも知れないのだ。


確かに祭の武踏会に準えた格闘イベントや追放措置は前時代的であり野蛮にも思える。


でも僕は案外「世の中ってそんなもんじゃね?」って思ったりもするんだ。


いくら文明や科学が進んでも人間や社会って本能的に残酷さを秘めていて民衆がそれを求める部分が必ずどこかに残っているものだ。そんな気がした。


...にしても暑い!疲れた。喉も枯れ果てた。


【Yes!My Lord!!】


イ-ゼルに立て掛けられた店の前にある黒板に描かれた手書きのポップで可愛いメイドさんのイラスト。


本日開店しました!


まる文字にすれてない初々しい女の子に出逢える恋の予感。


渇いているのは喉ばかりじゃない。まさに砂漠にオアシス。


金さえ払えば、金さえ払えば…金なら少し持ってる!


ふとあの時の円乗さんの笑顔が浮かび胸をちくりと刺す。


しかし炎天下の中僕も頑張った。飲まず食わずで3日頑張ったんだ。


僕だって…僕だって。


「いい思いがしたいんだ!!」


目を閉じてノブを掴み扉の鈴を鳴らした。


『いらっしゃいませ!!御主人様!!!』


弾けるようなメイドさん達の声と笑顔に涙…とユニゾンでベルベットかシルクのような低音の執事の声。


『メイド&執事喫茶へようこそ』


最後の言葉だけ聞きたくない。


トラップだろ!?この店。


ああ執事の白い歯が眩し過ぎる。いらねえイケメン&ダンディー達。


メイドさん達をお姫様だっこした執事に迎えられた。一体何時からお姫様だっこしてるんだ。腕がぶるぷる震えてる。


「この手の痺れこそが真の愛なのでございます。御主人様!」


一生の不覚とはこの事だと我が身の愚かさに五寸釘を打ちまくりたい。いっそ灼熱の日差しに灼かれて死ねば良かった。


LordとMasterの違いくらい…嗚呼ガッデム!!!


「もしかして…皆さんは?」


一応聞いてみた。


『もちろん夫婦でございます!御主人様!』


やっぱり。


「共稼ぎでございます。御主人様」


いい声で言わないでくれよバトラ-。てか需要あるのか?この店。


少なくとも僕には全く全然ない。


「御主人様は何名様ですか?」


はあ。世の中にはそんなに沢山御主人様がいるのだな。


「1人です」


立てた人差し指が震えていた。


「奥様は後から?」


「いや、1人」


「本日は奥様は?」


嫁同伴喫茶なら最初から、そう書いてくれ。


「1人じゃコ-ヒー飲まして貰えないんですか?この店は!?」」


思わず、かっとなって声が大きくなってしまった。


「す…すみません御主人様」


僕に声をかけたメイドの1人が涙目で頭を下げまくる。


メイドさんたちが怯えてる姿なんて見たくなかった。もう帰りたい。


執事の1人の(当然ダンディー)な男が彼女の肩に手を置き僕に向かって深々と御辞儀をする。


「大変失礼しました。御主人様」


「いや僕の方こそ」


「貴方」


やっぱり夫婦グルか。もうメイドさんとか全然僕の方見てないし。これは噂に聞くツンデレよりハ-ドルが高い。


第一「貴方」とか言ってる時点で成立してないぞこの店。


僕は執事の恭しい接客に、つい断れず席に案内されてしまう。


「僭越ながら私には御主人様の懐深いお考えが理解出来ます」


「えっと…それは?」


「人目に触れさせたく無いような素敵な奥様…という事なんですね…私もでございますよ御主人様。妻を外に1人で出すのがもう心配で心配でこうして執事をしております」


「いや、僕独身なんで」


執事は聞こえなかったのか無言で僕を席に案内してくれた。


ぽつんとベンチシ-トの席に1人。この店が変なんじゃない。僕がこの世界ではマイノリティ…どころかイリ-ガルな存在なのだ。


フロアを見渡せば客席は夫婦と思わしきカップルばかり。これが普通なんだ。


「貴方!あのメイドさんの服とても可愛いわあ」


「ああ、僕も君によく似合うと思うよ」


「私も貴方の執事服姿見てみたあい」


「そんなの着たら僕はもっと君に尽くしたくなるじゃないか!?お嬢様」


「宜しかったら、あちらで試着出来ますよ」


「お二人のために奥に個室もご用意出来ますが..」


いかがわしい。


「いかがわしい店じゃないかあ!?」


思わずテ-ブルを叩いて立ち上がりたくなるが。


これは多分神様の罰だ。


円乗さんとの約束や温かい励ましも忘れ。欲望の赴くままこんな店に入った僕に対する天罰だ。


美味しくならない砂味がするオムライスと泥水みたいなコ-ヒ-を腹に流し込んだら。また一から嫁探しを始めよう。僕はテ-ブルの下で拳を握りしめた。


「あの、お一人ですか?御主人様」


通りすがりのトレンチを抱えたメイドが僕に声をかける。


「はい独身です。僕、気持ち悪いですよね?ほっといて下さい!」


「わ…私も…1人なんです御主人様」


微かに震えている声には確かに聞き覚えがあった。僕は思わず顔を上げて彼女の顔を見た。


「円乗…さん?」


最も扇情的と言われるフレンチメイドスタイル。僕には刺激が強すぎてとても正視出来ない。


普段の清楚で神秘的な黒髪も素敵だけど、まるで日差しに溶けてしまいそうな白銀の髪も別の意味で神々しい。ヘアウィッグだろうか?


まるで西洋の神話に出て来る女神様のようだ。


「私の髪が珍しいですか?これは鬘ではなく地毛ですよ御主人様」


普段履かないヒ-ルのせいだろうか?とても小柄で華奢な普段の彼女より背が高く見える。


「円乗、羽女さんだよね?見違えちゃったよ」


「いいえ私はそのような名前ではありませんよ。よくご覧になって下さい御主人様」


「違う…の?」


「はい全然違いますよ」


確かに口元にあるホクロは円乗羽女とは違っているが。この人はそれで変装したつもりでいるのだろうか。


「それより、先程「見違えた」とおっしゃいましたが何方とどう見違えたのか気になりますわ」


戸惑い顔で彼女の顔が間近に迫る。伽羅のような甘い香りが鼻先を擽る。大きく開いた胸の谷間と普段けして見せる事のない生足。彼女の息づかいが耳元を擽る。


「遠慮なさらずに隅から隅まで心おきなく私を見て下さいね。御主人様!」


これは僕の知ってる円乗さんじゃない。


「君は一体誰?」


顔を上げた瞬間僕の視界から彼女の姿は忽然と消えていた。


「あれ..え?円乗..さん..!」


店内に潜んでいたと見られる巫女達が投げた祓い棒が彼女のいた空間をすり抜けた。ナイフ投げの的のように僕の座るベンチシ-トに突き刺さる。


彼女はその殺那僕の頭上を舞っていた。


まるでスローモ-ションの映像を眺めているようだ。短いスカートから、すらりと伸びた細くて白い足。これが噂の白のガ-タ…まるで天女の羽衣みたいに宙を舞う。


左足のヒ-ルの先がテ-ブルに着地するや否や振り上げた左足は弧を描き内側に畳まれタメを作る。恐らくテ-ブルは彼女の重さすら未だ感じていない。


右足のヒ-ルの尖端が店のウィンドウに触れた?瞬間に硝子は飴細工のように砕け散る。砕けた硝子の中に飛び込んだ彼女は鼻先から目尻に疵が一筋疾るのも、ものともしなかった。


「御機嫌よう、御主人様!」


そんな言葉と笑顔の残像を残して彼女は走り去る。


まるで白日夢だ。ウィンドウの硝子は見るも無残に砕け路上に散乱していた。彼女は硝子の破片が路上に落ちるよりも早く店内から外に飛び出したのだ。


僕はかすり傷もなくテ-ブルのゴブレットの水は倒れるどころか一滴も溢れていなかった。


「円乗流古武術」


既視感から口をついて出た言葉だった。以前テレビの特番で高砂神社の特集を見た。その時祭主である円乗羽女が披露していた演武。今のメイドと円乗羽女には違和感がある。


しかし先程の彼女の体捌きはトレースしたかのように全く同じ。


「相生氏!大丈夫であるか!?」


暫し茫然としていた時に聞き覚えのある声がして我に返る。


「相生氏!怪我などされておらぬか?ああ無事で良かった…」


目の前に巫女を大勢引き連れた僕の知っている彼女。いや、そうではない姿をした円乗羽女がいた。


「円乗さん…その格好?」


さっきのでちょっと免疫が出来た僕はメイド姿の円乗羽女を見て言った。


「こ…これは潜入捜査のためにだな…けして自分から望んで着たわけではないのだのであるぞ!」


俯いて胸元を右腕で隠し短いスカートの裾を必死で引っ張る。僕を見て。


「そ・そんなに…見ないで欲しいのだが…見ないで」


多分その後に「御主人様」と言われたら間違いなく僕は悔いなく昇天していた。


「羽女様、麗しうございます」


「なんという可愛いらしさ」


巫女達も店の客も我を忘れて、うっとりした様子で彼女を見つめている。


「な!?何をしておる、お前達さっさとあの女を追わぬか!!いいか、必ず捕らえ私の前に引き立てよ」


引き締まった厳しい表情に戻り部下にゲキを飛ばした。


巫女達は尋常ではない素早さで店から消えた。


「今のメイドは?」


「羽女さんに似ているようだけど」


そんな言葉を何故か僕は飲み込んだ。


「神の教えに背き世を乱す不埒な賊だ」


「平和や治安の良さで知られるこの国もそんな輩が存在するのですね」


「あまつさえ私の姿に成り済まし公衆の面前で殿方に不埒な行為を…毒婦め!」


「あんな円乗さんもいいかも」


なんて…現実にはけしてあり得ないだけに。いや、現実に彼女は今メイド服姿で僕の前に立っているのだが。


そんな事を考えていた僕を円乗羽女は市松人形みたいな目で見ていた。


「口元がニヤけておるようだが」


僕は慌てて口元を押さえた。



「まあ健康な男子なれば致し方ないのであろうな」


言葉に全く感情がこもってないんですけど。


「乳牛め」


体面上舌打ちは止めた方が。


「この世に悪芽が吹くが途絶えたためしはない」


悪なのか?


「いつの世も御正道に逆らう異端者は存在する。それと向き合うのも神職たる我が勤めと心得ておる次代だ!」


円乗さん、可愛いくて、いい子だが、ちょっとだけ面倒くさいかも。


「異端と言われてしまうと自分もだよ」


思わず口をついて言葉が漏れる。嫁がいない=この世界では異端. なんてことだ。


彼女の細い指先がそっと僕の肩に触れた。切なくなる位に眩しくて、まっすぐな眼差しだった。


「君は異端者なんかじゃない」


「私の大切な友…クラスメートだ。私は君を異端者などと呼ばせはしない。だから君もそんな言葉は自分からけして口にするな!」


「円乗さん」


「何だ?相生氏」


「クラスメートとして1つ聞いて欲しい頼みがあるんだが…いいかな?」


「私に出来る事なら何なりと言って欲しい」

円乗さんは軽く胸を叩いて見せた。


僕は携帯を円乗さんに見せて言った。


「一緒に写真いいかな?」


「しゃ写真…ひゃ!しししまった。この格好、着替えるの忘れてた!?」


「お客様!写真撮影は有料となりますが?」


でたなバトラ-!?て言うか後ろに行列出来てるし。


「円乗さんは日頃治安維持のために特警まがいの事もしてんのか?」


一瞬思ったが彼女に言わせると「今回は神社柄みの賊で特殊なケ-ス」らしい。


日頃神職に身をやつし何かと多忙を究める円乗羽女が遂にストレスが原因で遂に分裂したのかと。しょうもない空想をしたり。


「変装…というにはルパンレベルの激似ぶりだったな」


もしも円乗羽女があんな風に世界に二人いたら…僕はやっぱり好きになるのは…


そんな事をつらつら考えながら僕はその日帰宅後ベットの中で眠りに落ちる。


何も成果がなかった…と言えばそうかもしれない。ベッドの脇の充電器を刺した携帯端末を取り上げる。本日もメール着信通話履歴ともに0件なり。


仰向けになったまま眺めるめる新しい待ち画面には僕と彼女ただしバストアップのみの写真。


「この写真が何よりの僕のお守りだよ、円乗さん」


我ながら気持ち悪い。けど笑いたいやつは笑えばいいさ。


こうして写真の円乗さんを見ているだけで霧が晴れるように先の見えない未来の不安が消えて行くような気がしだ。


僕は携帯端末を手にしたままいつの間にか眠りについていた。



教訓として店に入るのは色々気まずい。食事や水分補給はそこに留まる事なくコンビニなどを利用すべし。


「ごめんね~この暑さでしょ?かき氷全部売れちゃって…氷切れだよ~」


一休みしようと立ち寄った公園の出店のおじさんはすまなそうに頭を掻いた。


「ああ、じゃソフトでいいです」


「ソフト2つね!はいよ!ありがとうね~」


「1つ」


「嫁は?」


「嫁の分だけでいいです」


僕も少しは学習した。。


「はい!二人でひとつなんて新婚さんだね!熱々でソフトが溶けちゃうよね!」


そう言っておじさんさんは僕にソフトを1つ手渡した。


「明日から氷増やさないと」


「おじさん」


僕は携帯の待ち受け画面をおじさんに見せて言った。


「僕の嫁です」


液晶の画面を覗き込んだおじさんが爆笑した。


「お兄さん冗談上手いね~それ、ぎりぎりだよ!罰当たり呼ばわりされるから他の人に見せちゃ駄目だよ~」


僕は頷いて端末をポケットにしまった。


「今は僕一人なんですけどね」


店の中に飾られたフォトスタンドに収まる仲睦まじい男女二組の夫婦。


「美人でしょ!?うちの奥さん」


「はい。ほどよく熟れた感じとツヤが素敵です」


幸せそうに頬笑む夫婦の写真は見ているだけで気持ちが少し温かくなる。


「だからね~君も全然大丈夫!!OKだよ~!!必ず出会えるからね!!!」


おじさんは僕にソフトをもう1つオマケしてくれると言った。


「今は1つで充分です」


僕はおじさんに礼を言ってから少し離れた公園のベンチに腰掛けた。


容赦ない日差しに溶ける前にと僕は無造作ソフトを口に運ぶ。


ふと視線を感じ顔を上げる。


チワワみたいな目をした男の子がじっと僕を見つめている。僕というか僕の持ってるソフトを涙目で見つめている。


見てすぐ園児と分かる薄い青色の半袖の上着に茶色い半ズボン。黄色い帽子からは夏向けに短く刈り込んだ髪の毛が覗いていた。


それはともかく僕のアイスを見る目がどんどんうるうる大きくなる。


「お母さんは?」


アイスしか見てない。うるうるうるうる。妖怪アイスほしい。


「アイス食べたいの?でも、お母さんに黙ってだとダメだよね」


うるうるうるうるうるうる…やばい、もう泣く寸前だ。


僕は根負けした。微笑んでアイスをその子の前に差し出す。


「お母さんに内緒だぞ!」


こ-ゆ-のって本当は駄目って言うか、分かってるんだけど。アイスを求めるひたむきさというかピュアな瞳が嫁を求め歩く今の自分と妙にシンクロしてしまう。男同士ってやつだ!食べてくれ!


男の子はアイスを受け取ろうと両手を広げ輝く笑顔に変わる。


「吾郎ちゃんダメよ!」


突然1人の女性が目の前を遮る。


「あ、お母さんですか?すすいません僕余計な事をして!」


恐縮して僕は立ち上がる。


頭に葉っぱを沢山のせた女性はすまなそうに頭を下げる。


「こちらこそ、ごめんなさい。この子アイスアイスって食べ過ぎなの…さっきもお店の前で駄々こねるものだから『置いてきますよ』と言って草むらか様子を伺ってましたの」


お行儀の躾の途中だったらしい。


「それは申し訳ない事をしました」


「いいんですよ」


男の子の母親とおぼしき女性は鈴を鳴らすような声で笑った。


「それより、アイス..溶けちゃいましたね」


「あ…ああ」


「それ私が頂きます」


屈んで僕の手からコ-ンを受け取る時白いブラウスの隙間からふくよかな胸の谷間が覗いた。首元の真珠のネックレスも左手の薬指にはめたマリッジリングも上品な顔立ちの女性を引き立てていた。


僕から受け取った溶けかけのアイスを舌先でペロリと舐めて「美味しい!」子供みたいな笑顔で笑う。


「素敵なネックレスですね」


「養殖の淡水パールですよ」


僕は渡された香水の香りがするレ-スのハンカチを手にベンチにいた。


目の前に新しいソフトクリームが差し出される。


「あ、ありがとうございます」


男の子の手には新しいソフトクリーム。


「吾郎ちゃん良かったわね。優しいお兄さんに会えて、でもこれからは知らない人から食べ物もらっちゃダメよ」


吾郎君という名前の男の子はアイスで顔をべちゃべちゃにしながらうなずいた。


「お兄ちゃん、ありがとう!」


「約束よ」


僕は彼女に礼を言って吾郎君の頭を撫でた。


「可愛いお子さんですね」


彼女は首を振ると言った。


「夫です」



「早く大きくなってね吾郎ちゃん」


彼女は夫の手を引いて公園を後にした。


「すぐに指輪なくすから、させられないんですよ」


僕はベンチに腰掛け雲1つない青色を眺めて思う。


空は何も答えてはくれなかった。


もし僕に嫁が見つからず送られる先はもしかしたら空の上の荒涼とした惑星。惑星がいいな。そこで僕は出会うんだ。


遠い昔嫁に恵まれず流刑の憂き目に合った男達。同胞スペース・ロンリ-ズに。


地球にて惰眠を貪る色ボケした人類に今こそ鉄槌を!


孤独の重さはこのコロニ-の重さと知るがいい!!


コロニ-を地球に落としてやる。泣け!喚け!絶望しろ!このアイスみたいに世界溶けてなくなっちまえ!!!


「あ…ハンカチ返すの忘れた」


淑女の香り。成熟した大人の女性の胸の谷間。僕は目を閉じてハンカチをそっと鼻先に近づける。むせる香りにふがふが鼻息が漏れる。


「アイスが溶けちゃうんだよお!!」


目を開けると目の前に円乗羽女の顔があった。鼻が唇が触れるくらい近い!近いってば!


「アイスが溶けちゃって台無しにするのは犯罪!人妻の色気にくらくらするのは重罪!!相生裕太ァてめえはあ…死刑だお!!!」


「また偽物か!?」


一瞬そう思ったが目の前も目の前にいるのは正真正銘円乗羽女だ。


それが証拠にいつもの部下というか親衛隊の巫女達もいる。ホクロもない。


「相生裕太、あんたは犯罪者、取り締まるべきよ!そおして..」


「そして?」


「こんなものはこうだ」


僕の手からハンカチを奪い取るとベンチ横のゴミ箱に叩き棄てた。


「アイス美味しそう」


今度はソフトに釘付けだ。酒臭い!あんた未成年だろ。


「この有り様は一体?」


僕は彼女の取り巻きに尋ねた。


「あんた達は円乗さんより年上の人もいるんだろ!?彼女未成年なんだぞ!」


「それが…」


高砂祭を半月後に控え神社の長たる円乗羽女は地元の各自治体や商工会議場巡りに日参していた。


その日も町内の有力者や青年団の団長を交え打ち合わせに訪れた。


一通り打ち合わせが済むと神社からお神酒の入った樽が振る舞われる。


「今年も宜しくお願いします」


「力を合わせて良い祭りにしましょう」


場は終始和やかな雰囲気で進んだ。


「私は円乗様とお神酒を酌み交わす日が待ち遠しい」


「私は飲めませんが、お酌なら出来ますよ」


「いや、そんな滅相もない。罰が当たりますよ!」


冗談で「円乗様も一口」等と勧められても彼女も慣れたもので「次がありますので」場の空気に水を注さぬように柔らかな笑顔を浮かべ暇を告げた。


「ああ、そう言えば円乗様、先日鈴掛の大通りで騒ぎがあったとか?」


「おう!聞いた聞いた店の窓硝子が割られたって騒ぎだろ?俺その場に偶然居たんだよ」


その話題に触れた時円乗花女の表情が一変した。


御付きの巫女達は彼女が賊を取り逃がした事に対し非常に不快感を持っている事を知っていた、ので気が気ではなかった。


「女だってな?」


「女だ」


「俺は通りにいたんだ。なんというか鬼神のような走りでな…あれは捕まえられねえ。触れる事も憚られる」


「どんな風体なんだ?」


「風体か…あれは…何というか、たまらんな」


「たまらんとは、つまり」


「いい女だった」


「これ円乗様の前で、控えよ」


「構わぬ、続けよ」


「円乗様」


「顔は長い髪に隠れ一瞬でしたが表情が思いを秘めてというか憂いというか…勿論円乗様には到底及びませんがね」


「世辞はいらぬ」


「しかし、あのプロポーションはヤバかったなあ!何か変な服着てけど…まあ俺はカミさん命だけどね。もし独身だったらと思うと、あんな女に出会って嫁がいなかったらイチコロだろうて」


かたり。静かにテ-ブルに空の湯飲みを置く音がした。


「円乗様?」


湯飲みの酒を一息に空けた彼女はいぶかしげに皆を見て言った。


「神の巫女たる私が御神酒を口にしてはならぬのか?」


「そ、そうですよね」


「さすが円乗様いける口で」


「ならば、いつまで私の杯を枯らすつもりだ。注げ!」


「え…円乗様!残念ですが次の予定が、時間が推してございます」


「なんと興醒めであるな」


巫女達に背中を押された彼女は煌めくような笑顔を人々に向けた。


「良い祭りにしようぞ!皆の衆!どうした!?楽しくないのか?楽しければ腹から笑わんか皆の衆!」


高笑いの後に投げキスとか。したとかしないとか。


「そっからもう手がつけられなくなってしまいまして」


「酔い醒ましに公園に連れて来た訳か」


「確かに我らは賊を取り逃がした。しかし円乗様は許して下さったのだ。一体何処で逆鱗触れられたのか」


巫女達は項垂れるばかりだ。その間も円乗は「アイス!アイス!」と目の前で手足をバタバタさせている。


「私なんかさ~神様のお仕事毎日頑張ってもさ~『俗世間の穢れた食べ物は駄目』だって!甘い物とか私だって食べたいよ~」


草履の先で足元をほじくり始めた。


「アイス食べて頭冷やせよ。円乗さん」


「いいの!?」


瞬間移動も出来るか!?だから顔が近いって。


「いいの?いいの?アイス食べちゃっていいの私?」


「アイスくらい」


言いかけて僕は何故か目頭が熱くなった。


「アイスくらい食べたっていいじゃないか」


「円乗様それでは他の者にしめしが」


「あによう」


不機嫌そうに頬を膨らませる。


「そうだ皆の者今日は暑い中大変ご苦労であった解散じゃ散華じゃ散れ散れ散るがよい!」


散華は神道じゃなくて仏教。


「ま、まだお勤めが」


「暫し休息を取るがよい。皆の労を労うぞ」


財布から札束。


「お金ならあるわよ~アイスでも何でも好きな物を買って参れ~」


うわ…こいつ酒癖悪!!


「アイス…よ、よろしいのでございますか!?」


あれ…。


「私はクレープ」


「納豆カフェゼリークリーム!一度食べて見たかったの!」


「うむうむよきに計らえ」


祭主でも巫女でもなくて姫様だろそれ。


巫女たちは円乗さんにもらったお札を手に嬉しそうに出店のある方へ駆け出した。


「さあ円乗さんも溶けないうちに食べてしまえよ」


「私は、いい」


あれ?この人もしかして酔いとか醒めてるのか。


「私だって泣きたい時とか辛い時お酒を飲んで忘れちゃえ!…なあんて思ったりするのだ」


「しんどい時アイスとか甘い物は結構効くぜ」


「そうなのか?でも、いい!」


「なんで」


「だってそれは相生君が食べたくて買ったものだ。さっきも小さい子にあげようとしてたし人妻にくらくらしてた」


「食べたかったけど、なんか腹の調子悪いみたいだから。円乗さんが食べてくれないと捨てなきゃいけないよ」


「アイスを捨てるのは重罪だ。牛にも申し訳ない」


「だな」


夏の陽射しとコンクリートの照り返し。逃げ水。手に持ったソフトクリームも溶けて滴る。


他の巫女たちとは違う神官の衣装を着た彼女は片膝を着いて屈む。


髪を人差し指で掻き上げる指と口元から覗く薄桃色の舌先。


「一口だけね」


「一口だけ」


ゆっくりと今にも地面に落ちてしまいそうなソフトクリームの渦巻きの先端を舐めた。


「円乗さん、自分の手で持ってよ」


「両手を地面についてしまったから、そのまま持っていて」


彼女は舌の上にのせたアイスを飲み込んだ。途端に目が真ん丸になる。


赤ん坊をあやすように広げた両掌。やがて輝くような笑顔に変わる。足が喜ぶ犬のしっぽみたいにぱたぱた動いている。


「美味しい!美味しいよ!相生君」



日頃決められた神社の粗食以外口にしないという彼女。


僕を見上げる彼女の頬は残ったお酒のせいか幾分紅潮し睫毛の先にうっすらと涙さえ浮かべていた。


「全然食べていいんだよ」


「一口でいいの…でも止まらない…相生君…美味しいの..やだ..お口が止まらない」


彼女の艶やかな黒髪に触れてみたい。柔らかな頬に掌をあて睫毛の先についた雫を指で拭いさるだけでもいい。


そんな小さな勇気が僕にあればと思う。


そしたら世界は少しは変わるだろうか。


たとえ変わらなくても構わない。


祭が終わる頃は僕は彼女の住むこの世界から消えているかも知れない。空を見て思う。


もし消えるなら今がいいと。


いっそ、それなら今此処で彼女が舐めたソフトクリームみたいに彼女の体の熱で溶けて消えてしまいたい。


「私こんな格好ですごくはしたない」


「誰も見てない」


大丈夫。


「口の周りがアイスでべとべと…恥ずかしい」


大丈夫。


「んく」


目を閉じて喉を鳴らす彼女。どこまでが現実で或いは全て僕の妄想なのか。暑さのせいで頭が茫っとしている。


座っているベンチの木に体が触れている部分が汗ばんでいるのが自分でも分かる。小さくなるコ-ンの欠片。


僕の指先から彼女の唇の中に消えて無くなる。成熟していない唐黍の実のような整った小さな白い歯と白く染まった彼女の舌がちらりと覗いて見えた。


ほんの一瞬だけ僕の指先は彼女の柔らかな唇の感触にくるまれた。彼女は残ったコ-ンを満足そうに噛み砕いた。


「あんなに沢山のアイスを食べたのは初めてだ…私の舌は白くはないか?」


小さな舌をペロリと見せた。彼女の舌はもう白くなかった。


大丈夫だよ円乗さん。


彼女は暫し俯いて僕の太股に手を置いた。彼女の重さが膏薬を塗った湿布のようにじわりと広がる。


「なあ、相生裕太氏。私は今たいそうに酔っているみたいだ」


「うん」


「酔っている私だから、酔っぱらいの戯言だと思って聞いて欲しいのだ」


「分かった」


「私は先日店で君に会った。その時普段着ないような格好をしていたはずだ」


今でも鮮烈に胸に焼きついている。


「思い出さなくていいから」


写真はバストアップまでしか撮らせてもらえなかったけど。


「御役目だから別に誰に見られようと構わない。全然平気だと思っていた、だけど違ってた」


彼女は僕の目を真っ直ぐに見上げて言った。


「なのに私の足は情けなく震えていたんだ。君の前に立つまでは全然まったく平気であったのに」


「僕が円乗さんの知り合いでクラスメ-トだから?」


「意地悪者」


彼女は道端の蟻の行列に呟く。


「来月から家賃を上げてやろうか」


大丈夫、大丈夫だよ。


僕なんてずっと。


心が震えたままだから。


あの時が初めてじゃない。初めて会った時、言葉を交わした時からずっと。今も君に心は震えっぱなしだ。


「私は、その、あの、あの女よりも相生裕太氏として率直に見て…」


ごにょごにょ喋るので最後まで聞き取れない。


「よく分かんないけど大丈夫だよ。円乗さん」


「大丈夫なら、良かった。うむ。良かった」


円乗さんはその後良かった良かったを延々繰り返している。


「出来れば名前で読んでくれると嬉しいな..その、クラスメートでもあるわけだから..」


「氏」


その呼び方虫けらみたいだけど。


「そうだ!」


右手の握り拳で左手の掌を叩く。


「大切な事を忘れていたぞ相生裕太」


いつの間にかの呼び捨ては気づかないふり。正直嬉しいが僕はやっぱり円乗さんの名前を呼び捨てに出来ない。


「何?円乗さん」


「うむ。あの場ではこうしなくてはならんと聞いた」


彼女は僕の顔をしばらく見つめてから言った。


「私は御主人様が大好きです。はぐ!」


彼女の体の重さと柔らかい二の腕と胸の感触が体にダイレクトに伝わる。


「はぐう」


はぐは!大丈夫じゃ…ねえ。嬉しいけど。間違ってるぞ、その知識。


「ベベベべ別にお仕事でやり残した事を今しただけなんだからね!」


それ属性に地味に効く。いや寧ろ追い討ちだ。


「ど・どうした!?急に前屈みになって、やはりお腹が悪いのか!?胃か?膵臓か?それとも腎臓?どれどれ見てやろう!?」


「み見ないでえ」


「どうした?あん?女みたいな声を出して」


彼女が身を乗り出したせいで僕の太股に置いた手が数センチ上に滑る。


「嘘」


「ごめん」


嘘はついていない。寧ろ己自身の正直さ愚直さ故。僕は詫びた。


「と」


「と?」


「殿方の信じ難き」


彼女は両手で顔を覆い後ろに後ずさる。


「まままま益荒男振り凄まじき」


「め滅相も御座いません」


僕は夏祭りを待たずにこの世界から消え失せるかも知れない。何故なら。


「己」


「卑賤の輩が」


「神敵」


「我らが目の届かぬを良いことに酔った羽女様を犬のように地べたに膝まづかせ、こともあろうに、ま摩羅をば握らせしめようとは!」


言ってる事は何一つ間違っていないが、誤解だ。諸君これは誤解なのだ。


言い訳する間も与えてもらえず僕は茂みから現れた巫女たちに祓い棒で餅のようにしばかれた。


「六根清浄!」


いた!


「六根清浄!」


いたいって!


「祓い賜え!清め賜え!」


「いててて!」


「こら!お前達止さぬか…」


そう言って制止に入ろうとした彼女は体を九の字にしてお腹を抑えている。


「相生君が…ぼこぼこに…いやすまない…あはははははははは」


僕の殴られっぷりが面白くて何だか円乗さんのツボに入ったようだ。


日頃表情をあまり変えない彼女が今はお腹を抱えて笑っている。


「この位で勘弁してやろう。さっさと立ち去れ!」


「頼む、もっとだ!もっとやってくれ!」


「何を!?く!この、この変態が!!」


僕は携帯端末を出して言った。


「出来れば写真も」


棒で殴られるのは構わない…でも角は止めてくれ。本当に死ぬから。


最終的には円乗さんが巫女たちを止めてくれた。


でなければ本当に死んでたかも。


「円乗さんは愛されて崇拝されてるんだなあ」


因みに円乗さんに就いている精鋭っぽい巫女さん達は通称ネギと言うらしい。


どんな漢字で書くのだろう。「ネギ部隊ですね」と軽口をきいたら睨まれたが。


自宅のベッドに寝転がりながらフォトを眺める。痣やコブが出来てあちこち痛むが不思議と気分は悪くない。


ネギの1人が「冥土の土産」と押したシャッター。祓い棒で組伏された僕の写真。


本当はその視線の先にいる円乗さんの写真が欲しかったんだけど。


円乗さんの姿は写っていなくて残念だ。でも彼女は確かにそこにいて。僕の目の前で弾けるような笑顔を見せてくれた。


それが忘れられないこの夏のを僕の思い出なんだ。


【第三話 和魂荒魂に続く】



【第三話 和魂荒魂】





人も知らない地図にさえ記されてはいない島からすすり泣きのように歌は流れる。それを知るのは沖に出た漁師や霧深い海に迷った船乗りだけだ。


夢の中や御伽に出て来る恐ろしい島の話を人々は語り継ぐ。それでも夜が明けてしまう頃には誰もその島の話など覚えてなどいなかった。






街を歩いていて、はっとする事がある。嫁の手掛かりを探して歩いているはずなのに。気がつくと僕は人混みや店先のガラス窓に彼女の姿を探していた。


けして手が届かない追い求めてはいけない少女の姿だと知りながら。そんな時はいつも決まって深い溜め息が漏れた。


神の嫁に抱く罰当たりな恋心。


そんな僕だからか神の裁きの日はあっという間にやって来た。


今日は祭りの前日。うきうきするような浮き足だった気持ちなど微塵もない。


今までただ無為に街を彷徨い歩いていたわけではない。役所にも警察にも出向いた。


そもそも僕には過去に嫁がいた記憶がない。しかしそんな事が現実にはあり得ないこの世界なのだ。


過去の記憶が曖昧で、もしかしたらどこかで巻き込まれた事故か何かが原因でそれまでの記憶や嫁と離れてしまった可能性もある。精神科にも通った。


しかし、どの機関に問い合わせても「前例も記録もない」と困惑されるばかりだ。


円乗さんは「君がこの街で暮らせるように手を尽くす」と言ってくれた。


しかし彼女の意思以上に祭主の神託は絶対で、けして覆せないものだと僕は知っている。人々が安寧に幸福な毎日を過ごせるのはすべて彼女の神託のおかげだ。


この世界の現在と過去は神の御神託によって舵取りが成されて来たのだ。


それでも彼女が応援してくれたり気遣ってくれるのが嬉しくて。


本当は一月前までは自分の境遇を半ば諦めていた。


「彼女を失望させたくない」


そんな気持ちに突き動かされて僕は何とか今日を生きている。しかし、それでも考えずにはいられない。僕の暮らすこの世界について。


夕暮れ間近な河川敷を見下ろす土手を歩く。川風に吹かれながら、つい弱気な言葉が口をついて出てしまう。


「どうして僕だけ」


思わずその場に座り込み、泣きたくなる。家に戻り鍵を閉めたら今日は終わる。今日と同じ明日は僕には来ない。


「お前も一人なのか?少年」


背中越しに女の声がして振り向く。通夜の宵にはまだ早い。葬式帰りか、それとも一日早く僕を迎えにでも来たのだろうか。靡く白銀色の髪に喪服姿の女が一人そこに立っていた。


捨てられた小犬を見るような慈悲深い面差しが踞る僕を見下ろしていた。


片腕に抱えた桐の長箱の刻印は見覚えある神社のものだから嫌でも目に入る。


「どうやら神様はあんたを助けてくれなかったみたいだね」


「顔の傷..まだ治らないんですか」


顔に貼られたマスキングテ-プみたいな細長い絆創膏を見て、僕は間延びした答えを彼女に返した。


「ああ、これ?剥がすの忘れてただけ」


彼女は無造作に顔から絆創膏を剥がして棄てた。川風に吹かれ絆創膏は何処かに飛ばされた。


「カフカ島の散華」


散る華と書いて散華。それが彼女の名前だった。カフカ島は俗称で正式には寡婦帰島というらしい。しかしこの島は正式

な地図には載っていない。巷の噂話に出て来る鬼ヶ島のような存在だった。


「変わった名前ですね」


「華と散るために生きている訳ではない。散る花はあっても、共に散る事の出来ぬ花たちのために今は生きている。それが私の名に宿る宿命なのだ」


やはり円乗羽女に彼女は似ている。真っ直ぐで叢雲の一つの陰りない眼差しが、とてもよく似ていた。


たとえこの世界が僕の事を愛してくれなくても。円乗羽女の瞳に映る世界が僕はとても好きだ。


彼女がこよなくこの世界を愛しているのが僕にもわかるから。だから僕はこの世界に留まりたいと願う。


彼女にあって目の前の喪服の女にないものは多分それだ。悲しみと憎しみが宿る。彼女にあって円乗羽女にないもの。彼女は迷いなど露ほどなくその瞳に映るこの世界のすべてを憎んでいた。


「この娑婆に弾き出されて私も1人なのだよ少年」


「愛人、知人、友人…何れも好きなように私のことを呼んでくれて構わない」


よく見れば瓜二つという訳ではない。しかし陰陽五行の黒白対極のように一対。


「あんたみたいな目をした子を見ると私は切なくなっちまうのさ。あんたは私と同じでこの世界を憎んでいるね」


そう言って彼女はしゃがみこむと僕の前で両腕を広げて見せた。輝くような笑顔でこう言った。


「さあ、一緒においで少年..あんたの居場所は此処でも賽の河原でもない」


甘い毒は心を痺れさせる。彼女の言葉が染みるように響くのはそこに真実が含まれているからなのか。


「あんた妹より私に似て…!」


優し気に僕の顔に向かって差し伸べられた、たおやかな指先。しかし瞬時にその表情が一変し、その場から飛び退く。


目の前を矢のように通り過ぎた玉串が路上に突き刺さる。榊に巻かれた紙垂が風に揺れるのを僕は茫然と眺めていた。


「その人に触れないで!」


声の主は円乗羽女だった。


「大姉様」


彼女は喪服の女にそう言った。


「大姉様だと」


散華と名乗る女の方眉がつり上がる。


「この姉を死人扱いするか、大した妹だな羽女!」


「私には壱師という名の姉はおりますが散華という神に仇成す姉はおりません」


「その名前の女はとうの昔に死んだ。亡き人の魂と共に。今は散華が私の名だ」


「姉様の黒袖の花嫁衣装、とても憧れでした」


「今は主亡き片袖の身」


「その亡き夫の死を悼む気持ちが、姉様には無いのですか?」


「な…んだと」


「愛する人の死を悼む気持ちがあれば、現世に於いて盗賊などどいう、恥知らずな真似が出来ようはずがありません」


「私は奪われたものは取り返す…ただそれだけだ」


「神社の宝物殿から姉様が持ち去った宝具の数々。その剣や異教の禁書は今の姉様には無縁の物、速やかにお返し下さい。そして島にお帰り下さい。さすれば…」


「許して下さるとでも言うつもりか?お前が、神が、しかし私はお前達神社の所業をけして許しはしないがな!」


「明日は寡婦帰島での大切な鎮魂祭。姉様がこんな場所でこんな騒ぎを起こしている時ではありませんよ」


「本土の島では祭りに浮かれ大騒ぎ。我ら寡婦は大人しく喪に服し涙に暮れておれば良いと…大社主様よ、お前は私にそう言いたいのだな?」


「常に夫に寄り添い。夫を助け。家を守り。逝く人があれば見送る。それがこの国に女として生まれし者の努めと羽女は考えます」


「神の傀儡が。実にお人形らしい、美辞麗句を並べたつもりか?吐き気がする」


「私は人形ではありません。血の通った人間です。だから姉様の事が心配でなりません」


「私から夫を、いや多くの女達の夫の命を奪っておきながら、よくもぬけぬけとそんな台詞を!」


「時が来て人の魂が天に召されるのは天の摂理です」


「病や不慮の事故であれば永い時をかけて、その死を受け入れる事も出来よう。しかし…」


「宿命の輪の端切だけを見ていては人の魂は永遠に救われません。現世の別れは夢現。結び合った魂は輪廻の果てに必ず再び邂逅の時を迎えると私は信じています。人の魂は完全ではない。何れかが欠損した不完全な魂を抱いて人は産まれるのです。産声を上げて自分以外の誰かを呼び。人と出会い人の心に触れ抱かれやがては己の魂の欠落を埋める。完全な魂の皃を得た者が現世に留まる理由はありません。死は忌むべきものではないのですよ、姉様」


淀みなく流れる清流のような円乗さんの言葉を散華の舌打ちが打ち消した。


「血を分けた姉妹でも聞けぬ戯れ言の数々」


散華は風に乱れる髪を指で鋤きながら言った。


「では私達寡婦はなぜ逝けぬ」


「それは」


「時を経ても何故逝けぬ。私達に土還る日が訪れて、想い人の元へと魂は天を昇る日はあるか?さあ答えて見せよ、神の御使いたる円乗羽女!」


「それは..神職を生業とする円乗の家に生まれた姉様なら御存知のはず」


「己が口で答えよ」


「私達は夫と同じ天に還る事は叶いません…ですが、それが私達の宿命なのです」


「宿命!宿命!宿命!一体誰がそんな事を決めたのだ!?」


「神の御意志です」


「ならばこそ尚更滅ぼしてやろうと言うのだ、その姿さえ見せぬ腐れた神とやらをな!!!」


2人は無言のまま対峙した。思いのたけに激情をぶつける散華。


一方の円乗さんは日頃僕に見せてくれた人間味というか感情は全て冷利な祭主の仮面の下に封じ込めてしまったようだ。


散華の言葉にも眉一つ動かさない。話の流れから二人が血を分けた姉妹である事は僕にも解った。しかし会話の内容は正直まったく理解出来ない。


自分がこの場に居て良い人間なのかどうかも、正直言ってわからない。しかし、これが、ただの姉妹喧嘩じゃない事くらい僕にだってわかった。


散華はこの世界と神に根深い禍根を持つ。その禍根が神と神の象徴たる高砂神社と円乗羽女に向けられている。


だけど、そんな事より今の円乗さんは今まで見てた中で一番危険な気がした。


今までだって無理をして自分に与えられた役柄をこなそうと彼女は必死だった。そんな時でもふと垣間見える素顔の円乗さんが好きだった。


でも今の円乗さんは正直見ていられない。僕は何も考えず何の策も言葉も持たないまま二人の間に割って入った。


「姉妹喧嘩は止めて下さい」


我ながら蚊蜻蛉みたいな覚束無さと気の抜けた炭酸みたいに迫力のない声は本当に嫌になる。


「相生君」


「少年」


「貴女たちは姉妹で、僕には弟や妹や兄姉はいないし、二人の今の関係はわからない、けど..生まれた時からずっといがみ合って来た訳じゃないと思うんです!」


他人がけして踏み込む事が出来ない親密な関係。真の憎悪というものがあるとすれば、それはそこからしか生まれない。


「氏」


「ぼうやは何が言いたいのだ?」


姉妹二人に見つめられた僕は次の言葉を模索した。


「姉妹喧嘩はいけない」


それ以外の言葉を僕は用意してなかった。


「相生君?」


今この場で言うべき事じゃないのは分かる…けど。


「円乗さん!」


僕は円乗さんの両肩を自分の両手で掴む。いつかソフトクリームを初めて口に含んだ時みたいに円乗さんは目をまんまるにして僕を見ている。


「今しかないんだ!」


「相生君?」


「僕には今しかない」


そうとも、明日という日が終われば僕はもうこの世界にはいない。


「僕は初めて会った時から円乗さんの事が…」


「え」


映画やドラマの主人公みたいに相手の立場を思い、幸せだけを願って何も告げず静かに消えるのもありだ。


それが美しい終焉なのか。その時の僕は何処かで聞きかじったような絵空事を口にしたりは出来なかった。


「僕は円乗さんと、ずっと一緒にいたい。出来る事なら..明日の夏祭を君と一緒に過ごしたいと思ってるんだ」


僕のあまりに性急な言葉に円乗さんは戸惑いうつむいた。


「待って、相生君。状況…私と姉様の会話聞いてたら…姉様はお祭りはおろかこの世界を破滅させると」


「どか―んと派手にやらせてもらうつもりだ」


ならば僕と今すぐ逃げて欲しい。逃げるのがダメなら祭に行こう。


「そんなの、ちゃっちゃっと片付けてしまおう。僕も手伝うからさ!」


だから僕と祭に行こう。


「相生君、私は…」


「吊り橋効果というのは確かにあるそうだが」


間延びした声で散華が口を挟む。


「ま、ぎりぎりセ-フってとこか」


「ばちぱちばち」


人を小バカにしたような耳元での拍手が神経を逆撫でする。しかし散華の表情は何故か穏やかな微笑みを湛えていた。


「少年、私の事はこれから『お義姉さん』と呼んでいいぞ!」


白か黒しかない。あまりに極端な性格。この人が口を開き何か言葉を発する度に、物事は混迷を深め、取り返しのつかない遥か沖合いまで流されてしまう気がする。


「おお、どうやら妹の方も君の事を心憎からず思っているようだぞ~」


無遠慮に動く口を縫ってしまいたい。


「姉様!何を言って…私たちは別に、その…そんなんじゃ…」


「先程から私の挑発にも眉一つ動かさなかった氷女がこの狼狽てよう!はっはっはこれは愉快愉快!!」


この女..さっきから何を考えているのか何がしたいのか、さっぱり分からない。


「実はこの一月の間、二人の事はつぶさに観察させて貰った」


神社の娘が泥棒だけじゃなくてストーカーもするのか。


「今や怨讐の糸で結ばれた姉妹ではあっても妹の良縁は喜ばしいものだ」


「姉様」


「今日のところは退く」


散華は僕たちに背を向けた。


「相生君と言ったか?羽女相手に人並みの恋路は大変だぞ。何しろ、この娘の信仰ルナティックは神憑ってるからな。文字通りのカルトっ娘だ。君の恋敵は神様だと思え。天罰の針山を素足で歩く覚悟がないなら諦めるべきだ」


「姉様、神道に針の山なんてありませんよ!それに地獄だなんて失礼しちゃう!」


そんな話をする前に僕はまだ円乗さんの気持ちを聞いてはいないのだが。


「若いというのはいいものだな」


彼女が僕の肩に手を添える。


「たとえ神が許さずとも私がお前たち二人の仲を祝福しようではないか!」


「姉様!」


「言うな羽女」


散華は片手で妹を制した。


「聊か喋り過ぎたようだ。では行こうか?相生君」


「行くって何処にですか?」


僕は散華に訊ねた。嫌悪そのものに見えた姉妹に和睦の兆しが見え始めたことに少しだけ安堵していた。


「先に言っておいたはずだが…君は私が治めるカフカ島へと来るのだ。上客として存分にもてなそう」


「散華さん何言って…!」


肩にのせた指先に力がこもる。爪が肉に食い込む。痛みに抗おうと僕は思わず身を捩る。


路上に放り出される桐の空箱。彼女の左手には緑黴ふく銅の剣の束が握られていた。


「祝福はした..そうは言ったが羽女、私はお前も神も許すとは言った覚えはない!」


散華が不敵な笑みを浮かべると、すぐに円乗さんの顔も神職の長のそれに戻る。いや先ほどまでの怜悧さより幾分感情的で耳や頬も紅潮しているように思えた。


「高砂神社より草木一本持ち帰る事は禁じられております。その方に触れる事も私は許しません!」


「命だけは恵んでやろうと言うのだ…無論慈悲からではないがな」


「羽女、お前は知らねばならない。永遠に続く、片羽根を剥がされる魂の痛みを…天上の高みから神になったと錯覚して我らを見下ろす愚かで哀れな我が妹よ。明日になれば、お前は羽を刮ぎ毟り取られた姿で私の前にひれ伏すのだ」


(この人は!本当は姉さんを改心させようとしていた円乗さんの心も知らず嘲るだけでなく深い傷を残そうとしている)


僕は彼女の手を振り払い。円乗さん元に駆け寄ろうとした。


すぐさま目の前を剣が阻む。


「このような錆びた剣で人は切れぬと思うかい?」


「まあ神の剣で撲殺というのも悪くはない余興だ」


空恐ろしい台詞を飄々と口にする。しかし虚勢やこけおどしに聞こえない。彼女なら躊躇なく、やってのける。


たとえ血を分けた姉妹でも彼女は円乗さんの敵。僕はそう認識した。少しでも気を許しかけた自分が馬鹿だった。


「肩に添えた女の手を、そうも無下に振り払うとは…いかに私とて傷つく」


目の前で剣が一祓いされる。


「殺す由縁には充分だ」


彼女から向けられた眼差しはそう語っているようで背筋が寒くなる。


「貴女だって!さっきから聞いていれば円乗さんを傷つけ貶めるような台詞ばかり言ってるじゃないか!?」


「傷つけられたら傷つけ返す。実に人間らしい所業ではないか?愛おしくはないか?少年」


剣を手にしていない指先が僕の頬を撫でる。


「そうとも、少なくとも、そこにいる神様の木偶人形よりはな」


「円乗さん、この人は本当に君の姉さんなの?失礼だけど、本当に君と血はつながってるのかな?僕は..こんなに人を殴ってやりたいと女の人に思ったのは生まれて初めてだ!」


「ほう、これはまた随分と嫌われたものだ。思惑通りであろうが?羽女」


「黙れ!円乗さんに、あんたみたいな汚い思惑なんてあってたまるかよ!!」


「だそうだ。恋の病に憑かれた男というのは、かくも哀れ、かくも滑稽にして盲目、お前の気持ちわからぬではないぞ羽女!馬鹿で可愛い男を謀るのは楽しいからな」


その場で愉しげに高笑いしているのは散華一人だけだった。


「姉様それ以上、私はともかく、相生君を侮辱するような真似をすると、実の姉と言えども羽女は..羽女は姉様を..」


「どうしたいのか言って見せろ」


彼女たちの言葉を遮ったのは周囲を取り囲んだネギたちの得物。払い棒ではなく薙刀だった。


「宮様遅くなりました」


「薫か!下がって良い」


薫と呼ばれたネギの一人から円乗さんは薙刀を受けとると言った。


「しかし宮様」


「姉様との決着は、今この場で私がつける」


上段の構えから八相。五行から脇構えに至る流れはまるで優雅な舞を見ているようで瞬きする間も惜しまれる程美しい。


さらに腰を落とし右足を引き体を右斜めに向け刀を右脇に取り、剣先は後ろに下げる。相手から見て、こちらの打突と刀身の長さを正確に確認出来ない。


陽の構え。薙刀というより剣の居合い抜きの型に近い。


後に円乗さんが僕に教えてくれた。


「あれは相打ち狙いの型でもある」


長尺に圧倒的な差がある薙刀と刀剣の戦いに於いても彼女は散華との相討ちを覚悟していた。散華の武芸者としての腕前はそれほどに比類なきものだった。


何より円乗さんの表情がそのことを物語っていた。彼女は今生と死の陛に草履の爪先だけで立っている。


静寂と刹那。予測出来るのは二人のうちどちらかが一人が確実に絶命する瞬間。世界はその時を境に変容するだろう。


「祝と禰宜よ」


突然散華に位階で呼ばれ巫女達は動揺する。


「貴様等の仕事は祭祀に社務…それから芋掘りか?」


「む、無論、我らの役目は祭主様の警護…」


あの時と同じだ。


あの時と同様に散華の姿は既にそこに無かった。


巫女達が薙刀を翳し彼女がいた輪の中心に向けて突き立てた。


「危ない!!お前達下がれ!!」


剣を逆手に構えた散華が笑みを浮かべながら、ゆらりと立ち上がった。放り出され音を立て散乱する薙刀。踝の辺りを抑え蹲り倒れ伏す巫女達。苦悶の声が其処俐から聞こえた。


「切れるものだな」


ぞろりと刃先を彼女の舌が這う。


刀身を傷めないために剣先だけで腱を切断したのか…なんて奴だ。


「私にこの距離で柄物を仕掛けるとは呆れた平和呆け…衛士ならば対峙したら躊躇わずに貫け!」


道に転がる巫女達を見下ろすと彼女は言った。


「私は優しい。両足の腱のみで有難いと思え」


やおら寝転ぶ巫女のこめかみを踏みつける。


「貴様もだ、羽女」


薙刀を構えた姿勢で踏み込めずにいる円乗さんを睨み付け言った。


「打ち込む隙はあった。しかし打ち込めなかった。ここにいる部下や少年を気遣ってか?だが、その躊躇い一つで貴様は私に永遠に届かない。勝敗は既に決した」


「まだ勝負はついていません」


「頭が悪い女だ」


散華は僕に剣を差しだすと言った。


「悪いが持っていてくれるかな、少年」


無造作に手渡された剣は驚く程重量があった。


右手の人差し指を一つ立て散華は言った。


「剣など要らぬ。羽女、お前などこの指先一つで充分だ」


「お前は永遠に私に届かない」


散華は薄ら笑いを顔に浮かべ天を仰ぎその狭間に神の使いとして立つ祭主である妹に言った。


「それこそがお前の崇める神の決めたの摂理だからさ」



【第四話 重力使命に続く】




【第四話 重力の使命】


「美代に故郷の山河あり。あまねく天津星ぼし国造りの神よ。この国は、夫婦となりし男と女。そして寡婦…独り身の心優しきおのこが1人・・それから」


「羽女が1人」


「羽女が2人」


謌を読むように童歌でも口ずさむように楽しげな散華。一方の円乗さんは忽ち驚きと苦悶に表情が歪む。


「懐かしいであろう羽女。羽女…7」


激しくえずき口を開けて喘ぐ、その手元から一度も振られる事なく薙刀が落ちる。何が起きているのか理解出来ないまま僕は剣の束を握りしめる。


妖術とか金縛りとか…わからないけど。目に見えない何かが円乗さんを傷めつけ苦しませている。原因は目の前にいる。散華を止めなくてはならない。


「打ち込むつもりか少年?私は構わぬぞ」


背中に突然重圧がのし掛かる。立っている事も出来ない程の衝撃に足元がふらつく。


「な…なんだよ…これ?!」


「君という人間の業の重さだ」


涼しい顔で散華が言った。


「足元がふらつくか?たった1人で情けない。羽女は既に7人背負っていると言うのに」


「こんなのを7倍だって」


「普通の人間であれば7.5で血管が圧迫されブラックアウト。17を越えたらおそらく即死」


「止めろ!!」


「私に指図するな」


狂暴な力の壁に押し潰され僕は地面に叩きつけられる。


「助けて欲しいか少年。これから先私だけをネタに『自らを慰めます』そう誓えば許してやろう。羽女ではなくこの私…」


「誰が…あんた何かで!!」


「おや?初めて会った時、私の胸や足ばかり見ていたくせに!この女の薄っぺらい胸ばかりはどうにも私にも真似出来ぬ、サラシでも巻こうかと随分迷ったがなあ」


散華はそう言って円乗さんの胸を鷲掴に

した。彼女が顔を歪めたのは痛みではない。この上ない辱しめを受けたと感じたからだろう。


項垂れた彼女の頬を伝い地面に落ちたのは苦悶の汗か涙か長い黒髪に隠れた顔から伺い知ることは叶わない。


「やめろ!」


僕はそんな彼女の姿をいつまでも見ていたいとは思わなかった。


「あんたの事を円乗さんだと思った途端に恥ずかしくなって…まともに顔なんて見れなかっただけだ!!!」


「言ってくれるじゃないか少年」


散華は口元に薄笑いを浮かべた。


「10」


内臓が飛び出しそうな重圧に思まず呻き声が漏れる。


「相生君!?」


「18」


駆け寄ろうとした円乗さんを散華の呪が阻む。失いかけた意識を呼び戻したのは円乗さんの哀しげな叫び声だった。


気絶なんかしてる場合じゃない。立ち上がらなくては。


「宮様お..逃げ下さい」


「羽女様」


ひれ伏した地面を這うように巫女たちの苦しげな声が聞こえる。


「ほう、まだ意識があるのか少年。心配するな。羽女はこの程度では死なない。いや、死ねぬと言うべきか…何故なら私がそのようにこれを鍛えたからだ」


「重…力…改編」


「その通り」


「姉様の…改編の力は…姉様が神社と縁を切り…祭主を辞した時…失効したはず」


「その通り。私は改編の力を失った」


「では…何故、今?」


「言ったはずだ。私は奪われたものは奪い返すと!」


「そ…それで…式神を使い宝殿から禁書を大量に」


「そうだ。お前達が世間から遠ざけ禁書扱いにしている異教の書の数々、大変参考になったぞ。私の改編の能力が真に神に与えれたものでなく、生来持っていたものであるとするなら、封印ならば、解く鍵はあるという私の目論見は強ち外れてはいなかったようだ」


散華は円乗さんの目の前で右手を翳す。真白な指先が黒鋼のように変質する。


「取り戻したのだ」


禍々しく延びた爪を彼女の額に向ける。


「届かぬのだ羽女。このように距離を詰めても、お前は私に届かぬ」


「姉様が..言葉を唱える前に..届けばと羽女は!」


最後まで言葉が続かない。見てわかるぐらい彼女は危険な状態に陥っていた。


「確かにお前はそれで一度は私に届いた。触れる事が出来た。お前はそれで、何人も触れる事が叶わぬ神羽を手に入れた。神速の巫女は円乗流を背負うのに真相応しい…誇りの妹だ」


「届いたと思ったのに!」


「私は思うだけで改編を発動出来る」


「思いより…速く…など」


「如何なる翼も重力は駆逐する。それが世の理だ羽女」


「そんな」


「私が思うだけでお前に課すお前の業。その数を知りたいか?」


彼女は項垂れたまま答えない。


「800だ。それ以上は試した事がない」


自分の体重の800倍の負荷を背負わされて生きていられる生物などいるはずがない。


「漸く絶望という言葉の意味が理出来たか?」


唇を噛みしめた彼女の悔しさと絶望が僕にも伝わる。路上に伏した巫女達の啜り泣く声が聞こえる。それでも。


「だが私は倒れない。ここで姉様の前で膝をつくわけには行かない」


手を伸ばし両足でねじ切れそうな細い首と体を支える。円乗さんは生身の肉体で散華の改編とか言う化け物じみた能力に抗っている。


円乗さん自身は改編とかいう力が使えないのだろうか? 散華は以前は高砂神社の祭主だった。だから改編が使えた。


ならば現在の祭主である円乗さんも同等かそれ以上の能力を持っていたって不思議ではない。


「よお」


ようやく僕は散華の足首を掴んだ。折れそうな位細くて綺麗な足…こういうのなんて言うんだろう、お洒落お姐靴。だけ見てたら、こんな恐ろしい事をしでかすようには、とても見えないんだけど。


「ここまで這いずって来たのか?気も失わずに…大したものだな」


「相生君は私達の争いに関係ない!離してあげて!」


「関係ない…関係なくもあるまい!そうであろう?羽女。この少年こそ、お前がしでかした改編の被害者ではないか!?」


「なんだかわからないけど、今のところ、あんたの実害で死にそうなんだけど」


「やはり君は妹と違って面白いやつだ!どうだ私の弟にならぬか?」


「こんな…状況では…十中八九断る…と思う、が」


「確かにそうだ」


散華は愉快そうに笑った。僕にはこれ位しか出来ない。この間に何とか上手い事してくれないか?円乗さん。先程からの流れから可能性は限りなく0に近くても。


「そもそも改編って何だよ?僕に関係あるとかないとか…」


実はどうでもいい。ただの時間稼ぎだ。そんな僕の思惑など「見透かしている」とでも言いたげな散華は溜め息を1つ吐くと。


「もうよい。立て、私が許す」


言い終わる前に散華は僕と円乗さんの前を通り過ぎた。路上に僕が放り出した宝剣を拾い上げた。然も面白くなさ気に刃先を眺めている。


「あれ…体が軽くなった」


急に体に載っていた重石から解放された感じがした。体が軽くなり過ぎて逆に吐き気が込み上げて来る。円乗さんを見ると肩で荒い息をしているものの散華の重圧から解放されたようだ。


「なかなかであろう我がThe Mission Of Gravityの威力!」


なんでそこの発音だけ流暢なネイティブ。


「また神から得た御技、想兼にそのような横文字を!」


想兼、オモカネとはなんだ?それが散華の使うこの術の正式な名前なのか。


「やれ、国粋主義も程々にせんとな。世の中の流れに立ち遅れるぞ」


「姉様は俗世間に毒され過ぎております」


「お陰様でお前より最強だ」


足指にネイルでも塗るように宝剣の刃先を指先で弄る。


「これ99で落ちるかな?」


「お返し下さい!」


「禁書の中にあった書物から命名したのだが…なかなか読ませる名著であった。一度読むがいい」


散華がそう言って懐から取り出して見せた書物には【The Mission Of Gravity】という題名が書かれていた。


「The Mission Of Gravity」


日本語に訳せば多分【重力の使命】という意味だろう。でも僕にも多分円乗さんもそんなことはどうでもよかった。


「The Mission Of Gravity」


オウムみたいに散華がその言葉を繰り返す。なんか腹たつ。


「毛唐が」


気のせいか後ろで円乗さんがそう言って道に唾を吐いたような気がした。


【第五話 乙女の吊り橋に続く】




【第五話 乙女の吊り橋】



「この姉に隙あらば、何時でも打ち込むがいい」


「今のところありません姉様」


「で、あろうな。お前の間合も剣筋も共に鍛錬した私ならば熟知している。迂濶に踏み込めぬのは日頃の修練と精進の成果と知るが良い」


「お誉め頂き羽女恭悦にございます」


この二人の間で交わされる会話と妙な空気感と独特の間は一体なんなのだ。まるで時代劇でも見せられているようだ。それにも少し慣れた。しかし突然沸点がMAXになるので油断ならない。二人とも目が全然笑っていない。


「ですが姉様」


「ですが何だ羽女」


「昨年の高砂祭の白鷺武踏に強引に乱入した姉様は、参加者全て一人で薙ぎ倒した挙げ句、公衆の面前で私に挑戦状を叩きつけ、一太刀も浴びせる事も叶わぬまま逃走したはず」


なんて姉妹だ。それ以外言葉が見つからない。


「1Rはくれてやる事にした」


「1Rはくれてやる?」


「闘いってのを長いスパンで見るのさ私は…つまり羽女、あんたさあ格ゲーとかやる人?」


「やりません」


「相生君は?」


「まあ…たしなむ程度には」


「1Rは適当にやって、相手の癖とか頭に入ったら2R目に『勝てる!』て鼻息荒くしてる相手に触れさせもせず、なめプでボコボコにしてやるのが醍醐味なのよ!」


ゲーマ-としても人間としても最低だ。


「羽女、お前の神速にはさらに磨きがかかっていた。だが、それでは私には勝てない、何度も言うが」


僕には先ほどから思うことがあってつい二人の会話に口を挟んだ。


「何度も言うのは実は、あんたが円乗さんの神速を恐れてるからじゃないのか?」


僕の言葉に散華は方眉をつり上げて言った。


「ほう、面白い事を言うな少年。根拠がなければこの場で刀の錆びにするぞ」


まったく冗談に聞こえない。だからこそ逆に僕は確信したんだ。


「あんたが重力を操作して相手の動きに制限をかけ圧死させるトンデモ能力の持ち主だって事は分かった。催眠術でもなければ俄に信じ難いが」


「相生君、姉様の改編は本物だ。催眠術などではない。この私が保証する」


保証されたくはなかった。むしろ催眠術ならよかったのに本物なのか。聡明な円乗さんがそう言うなら間違いないのだろう。認めたくはないが。


円乗さんを後継者として育てる上で、散華は円乗さんに高重力の負荷をかけて修行させたらしい。結果として円乗さんは神速という特殊な力を手に入れた。


「私には姉様のような重力改編や己の肉体の組成を変化させる能力はない」


「一方で私の改編は局所的で範囲が限られている。羽女はそれに対し極値的…大局と言った方が分かりやすいか…つまりより戦闘に向いているのが私だ」


「相手の体に触れる事もなく労せずして敵を行動不能に出来る…そんなあんたは、これまで相手の動きを上回る速度など獲得する必要はなかった。つまりは..」


「つまりは?」


僕を見据える切れ長の瞳が目蓋の遮でさらに細くなる。


「つまり円乗さんの神速は通常の戦闘に於いて今も確実にあんたにとっては脅威であるはすだ」


「なるほどな、つまり羽女の神速に脅威を感じた私があの手この手でその芽を先に摘んでしまおうと…勝つために羽女の一歩までも封じてしまおうと謀ったというわけか」


そう散華は円乗さんの武術の師匠でもある。その立場を上手く利用したのだ。


「本来戦う相手には最後まで手の内は隠しておきたいものだ。にも関わらず、あんたは執拗なまでに自ら切札を鼓舞するようにひけらかした。結果、円乗さんに戦う前から『自分は絶対勝てない』という恐怖心を植え付けたんだ」


「戦う相手には常に全力を尽くすものだ。何故ならこれは武術の試合ではなく戦だからな」


はぐらかされた。


「円乗流は…本来対戦に於いて改編は使用しません。改編は闘いに用いるものではなく神託によって世のため民のために使われるべきものです。むしろそれに頼る事なく、自らの精神と肉体を鍛練し、神の高みを目指すものなのです」


「さっすが祭主様にして円乗流後継者。模範回答をどうも!」


散華はふざけて円乗さんをなむなむと拝む真似をする。円乗さんは冷静な口調で言った。


「姉様は改編を戦闘に使ってはならないという禁を破ってまで本来戦闘に向かない私を鍛え上げた」


「私は神様の決めた事ってのがいちいち気にいらないだけさ!」


「僕にはいまひとつ改編という能力の意味も使い道も不明瞭なんだけど」


「局所的改編能力の持ち主であった円乗壱師というかつての祭主は..自らの力を白鷺武踏会で誇示し世の民に『神威ここにあり』と知らしめる事に成功した。それは治世に於いて大いに有益だった。一方その後を継いで祭主となった円乗羽女の改編の力は私よりさらに普遍的なものだった」


散華は空を見上げ見えない何かに呟く。


『まるで本来祭主に備わる改編能力が、何者かによってさらに都合良く改編されたかのようにね」


「私は神託により姉様より次の祭主の座を引き継いだのです」


「神託と改編、それこそが現在最も祭主を祭主たらしめる重要な要素だ…つまりは」


「つまりは…」


神託を受けた祭主はこの世界そのものを改編出来るって事なのか?


ふいに散華が指を弾く、音がした。


「そして私たちは今吊り橋の上にいる」


気がつけば僕たち三人は囂々と風吹き荒れる渓谷で心もとなく揺れる朽ちかけた吊り橋の中央に立っていた。


「これが改編!?」


「こんなのは単なる目眩ましだ」


たとえ落ちても死にはしないと髪を靡かせ散華は笑う。本当にこれは幻なのか?時折顔にあたる水の飛沫も本物ならば話し声も風に浚われ途切れがちになる。


「逆に私は君に問いたい。君はなぜこの世界の中で一人だけ、分かりやすい迄に、それほど孤独なのだ。その理由を自分で考えた事はあるか?」


「考えたさ」


しかし答えなんて見つからなかった。

編み縄で拵えた橋の手摺りに散華はひらりと跳び乗る。手摺りをたわませ、両腕を広げたヤジロベエのようにバランスを取りながら楽し気に歩いてみせた。


「君が孤独であるように祭主という存在もまた孤独なものだ。神に身を捧げた身とはいえ、寄り添う連れ合いもなく、その生涯を終える…私も同じ立場にいた人間だからこそ、尚更妹や君の心情は理解出来る」


散華の言葉になぜか僕はそれだけは真実

を感じた。ここは一人で立つにはあまりに孤独で恐ろしい場所だった。


「しかし姉様はその後良き縁の人に巡り合いました」


散華は片足で身を翻し手摺りから中に飛び降りた。


「私の夫は稀人であった」


「稀人?」


「海で遭難し浜辺に打ち上げられていた。助けられ神社に運ばれたのだ」


「古来より海より流れつく異郷の神を稀人と言うのです」


「もっとも彼は単たる遭難者で神などではなかった。手厚い治療を受けたが三日三晩彼は目を覚まさなかった」


彼女は眠る彼の横顔を見て恋に落ち。


「目覚めて初めて彼の声を聞いた時にはもう愛していた」


「ほどなく私に神託が降り、姉様は祭主の座を辞し、その方と共に神社を去りました」


「私は彼が目を覚まさぬ間思ったものだ『目を覚ましても私だけを見てはくれないか。そうでないなら逸そ何時までも目を覚まさないでほしい』」


「それと、この吊り橋が何か関係があるのか?」


「さても鈍い男だ!」


散華はやれやれと首を振る。


「この世界で唯一無二の孤独な心を抱えた男女が吊り橋の上で出逢った。お前たちから見れば私は宛ら橋の上を吹き荒れる暴風。風に吹かれ揺れに揺れる吊り橋の上ではお互いに思いを寄せるお前達二人の絆も深まった事だろう…別に礼など要らぬ」


お互いに思いを寄せるなんて..無遠慮にほどがある。恥ずかしくて円乗さんの顔が見れないじゃないか。そんなことを言うためにわざわざこんな大仰な仕掛けをこの人はしたのか?呆れて僕は言った。


「誰があんたに礼なんてするか!」


さっさとこの馬鹿馬鹿しい手品から僕と円乗さんを開放してほしい。


「だがな少年。私は吊り橋なんて揺らしてはいない」


「何が言いたい」


「本当に吊り橋を掴んで揺らしているのはそこにいる女だ!吊り橋を拵えて、君をそこに立たせたのは、君の横で清ました顔をしているその女なのだよ」


「そんな馬鹿な」


「出来るのだよ。羽女の改編ならば…君を世界で唯一連れ合いを持たぬ孤独な境遇の男に仕立てることも。それが羽女の持つ改編能力だ。そんな事が出来るのは高砂神社の祭主である円乗羽女ただ1人…理由は述べたるまでもなかろう」


「なぜ円乗さんが僕にそんな事を…あり得ないだろ!?そんな事!!」


「実によく揺れる」


「嘘です…そんな話。姉様の妄言です!私が相生君の幸せを願いこそすれ、そんな不幸を思うはずがありません。相生君、惑わされないで私を信じて欲しい!!」


勿論僕は円乗さんを信じる。


「果たして夢の中までと誓えるか羽女?夢の中や無意識にも『自分だけを見て欲しい』と一度も思わぬ乙女の恋心が果たしてこの世にあるものか!」


似合わない台詞をこん身の真顔で..ひょっとして中身はすごい乙女なのか?


「自分と自分が大好きな人以外みんな殺してしまえ!そうは思わぬのか?」


やっぱり怖い人だった。


「私が相生君と出逢う前からこの世界は今と変わらぬ世界でした。それは姉様もご存知のはず」


「君の名は裕太君だったな..もしかすると君は名しか持たなかった私の夫と同じ稀人なのかも知れぬな」


「僕が希人」


僕の場合は【嫁】がいない希な人と世間ではよく言われていた。


「しかしその彼もやがて私という伴侶を得た。希人ではなくなった。この世界ではそれが必然。しかし、そこにいる羽女が君の妻を消したとしたら?君には妻のいた記憶があるのではないか?私には凡そ見当がついているのだが…羽女、お前も知っているのではないか?」


円乗さんはなにも答えなかった。


「どうした羽女?彼の幸せを第一に考えているお前がなぜ沈黙を守る?教えてやれば良いではないか、お前がこの世界から消し去った彼の嫁の事を」


円乗さんが僕の嫁の存在を知っている?


「根拠はある」


吊り橋は軋み激しく揺れた。


「羽女は無論君の嫁となるべき女ではない。これは身も心も神に捧げた神嫁。君が運命を共にするはずだった女は別に存在する」


「か、仮にそんな人がいたとしても、羽女さんがその人を僕の目の前から消してしまうなんて考えられない…あんたならやりかねないが」


「おそらくあれは君に嫁いでいたら間違いなく三國一の花嫁と呼ばれていたであろうな。君も羽女の事などすぐに忘れたはずだ」


「間違いありません」


間違いありません..確かに円乗さんはそう呟いた。それは散華の言葉を認めたことになるのだろうか。僕は彼女の呟きが空耳であって欲しいと願った。


「だから私は羽女が相生結太の嫁の存在を消すか隠したと考える。理由も察しがつく」


嫉妬という文字がちらりと脳裏を掠めた。しかし僕はその考えを頭から振り払う。


「円乗さんがそんな事する訳がない!」


さっきから僕は駄々っ子みたいに同じ言葉を繰り返している気がする。どれだけ恐ろしい現実を突き付けられても彼女を信じていたい自分がそこにいた。


「根拠はあるのだ」


揺れる吊り橋の上で散華は目を閉じた。まるでこの歪んだ世界で唯一正しい方角を指し示すコンパスのように。揺るぎなく静かな佇まいが今の僕を堪らなく不安にさせる。


「君の伴侶となる女が私の知る者ならば君を間違いなく白鷺武踏会にまで誘うだろう。たとえそうでなくても君の資質や才能を目敏く見つけ世の華舞台に君を立たせるだろう。そこに彼女の悪意は微塵もない。愛だけだ。君は三國一の当たり籤を引いた果報者という事になれた」


「それの一体どこが悪いんだ」


人も羨む夢のような人生だと言いながらその中には花嫁の悪意という言葉が潜んでいるのを僕は見逃さなかった。


「そしたら君は死ぬんだよ」


「僕が死ぬって!?」


「羽女が先程言ったではないか。『完全なる魂はこの世に留まる必要はない』と。この世界で神に選ばれた魂は神の生け贄になるのさ」


「姉様は真実を歪めています」


「ではお前に聞こう羽女。お前が祭主となって最初の年、私は夫と共に白鷺舞闘会に出場し見事に優勝した。事実であるか?」


「事実です」


「優勝の報奨として与えられたのはお前達の言うところの魂が神の御元に召される事であった。事実であるか?」


「事実です…しかし姉様!!」


「私の夫は神社と、ここにいる女の手引きで神の生け贄となった。巡り会い幸福の絶頂でお互いに高め合い、辿り着いた誉れ高き日に、さぞやその完全なる魂とやらは美味であった事だろう。この世界には贄を捉える目に見えぬ穴が其処俐に存在しているのだ」


散華の指し示す指の先には円乗羽女がいた。まるで判決を待つ囚人のように俯いて立ち竦んでいた。


「私の夫も、寡婦として島に送られた女達もお前たちは救ってはくれなかった。そんなお前が思いを寄せた男ただ一人救うために改編を自ら行うとは!些か笑えぬ冗談だ、円乗羽女!!!」


「円乗さんが僕を助けるために!?」


「ふん!祭までの一月の期限だと!?考えてみれば可笑しな話だ。神は期限の札など切らぬものだ。期限に猶予、私から言わせればそれは【情】だ。私の知る限り神は情など持たぬものだ」


「神託はありました。【相生結太なる人物はこの世界の異物ゆえに留め置く事は叶わず。即刻賽の河原送りにせよ】と」


期限なんてなかった。神託とやらが降りてすぐ円乗さんは僕を流刑にしなくてはならなかったのだ。


「では無視したのか。その神託を」


「神罰は覚悟の上です」


「円乗さん」


「気にしないで相生君。アイスのお礼だから」


だってアイスおごったのは…ずっと後の話だろ、円乗さん。


「姉様」


「何だ?羽女」


「長々御講釈賜りましたが他に言い遺した言葉はございませんか?」


目の前から吊り橋が消えた。


「辞世の句など」


先程まで足の腱を切断され路上に伏していた巫女達が今は得物を手に立ちつくしている。散華はそれを見て舌打ちした。


「もう再生したか…化け物共が!」


河川敷の僕達がいる土手の路上。周囲を埋め尽くす夥しい数の巫女。まるで蟻の巣にでも迷い込んだのかと錯覚する。


つがえた弓矢の矢尻は全て散華に向けられ放たれようとしていた。


「姉様を生きて島に帰すわけにはまいりません」


「その目で見たか少年。これが円乗羽女の真の顔だ」


僕の顔を覗き込んだ顔がすぐに溜め息と諦め顔に変わる。


「それでも揺らがぬか」


「僕の嫁は円乗羽女さん1人だけだ!」


「あ相生君!?」


「ほう…よく言ったな、小僧が」


「世界や神様や円乗さん本人が『違う』と言っても円乗さんは僕の中では嫁なんだ。他の嫁なんていらない!!」


結婚する前に離婚だ。


「相生君」


「馬鹿であろう、お前。そんな女の尻を追えば地獄を見ると言うのに…信用すると言うのか?その女を」


「円乗さんに自分で聞いてから自分で判断するさ」


「君ならば…カフカ島の寡婦達も仲間として歓迎したろうに…残念だ!」


「カフカ島の女達」


「寡婦が帰る島。寡婦帰島だ。そのカルト女の祀る神に夫の魂を喰われ、葡萄の皮のように棄てられた妻達の島。羽女の改編により声さえ奪われ嘆きの言葉すら呟けぬ。四方を注連縄の結界で封印された寡婦の島さ」


「私は私利私欲や私怨のために改編を使った事は一度もありません」


「ぬかせ!この少年に一度でいいからあの島の惨状を見て欲しいものだ」


「寡婦となった者が禁忌を口走る事を恐れたのではなく」


「恐れたのだよ。少なくともお前の主である神とやらは!」


「私はせめて寡婦達の心が安らかなればと」


「誰もお前の建てた屋敷には住まぬ。空の神社は、私が自ら火を放ち、焼け落ちた。寡婦どもは雨が降り風が吹こうとも、ひび割れた肌と何も映さぬ瞳で、夫が召された天を仰ぐばかり。誰も神とは思わない。お前の事もお前の飼主もな」


「私は何れ寡婦帰島に赴き寡婦達に会うつもりでおりました」


「言うに及ばず。こちらからお伺い奉る!祭主様よ。寡婦達もさぞや喜ぶ事であろうな。今も島で貴様の腕が欲しい目玉が欲しいと犇めきうめいておるわ!!」


その時夕暮れも待たず世界は突然闇幕に包まれた。星も見えない天から舞い降りた縄梯子を散華は掴む。


そのまま空へと吸い込まれるように消えて行く。僕達のいる世界を覆う巨体な鳥の影。暗闇の中宙に向けて何百という矢が放たれる音がする。


「無駄だと言うのに」


「私の後ろに隠れて!今直ぐ隠れて!」


訳も分からずにいる僕を背に円乗さんが立ちはだかる。こんな時でさえ円乗さんの黒髪からは仄かに花の香りがした。


空に向け放たれた矢が時雨のように降り注ぐ。次々と地に倒れる巫女達。


「わかっています姉様」


天を仰ぐ円乗さんと僕に矢は1条も当たらなかった。アスファルトに突き刺さる無数の鏃。彼女の顔に徐々に明けていく空から光が射すのを僕は見ていた。


ゆっくり空に翳していた右手を下へと下ろした。


「神様が守ってくれた」


「円乗さんが、だろ」


へたりこんでその場に尻もちをつきそうな僕に彼女は微笑んで首を振る。


「だって私カルトだから」


【第六話 誰彼に続く】


【第六話 誰彼】


「鳥舟…祀る者なく廃れたと聞いたが。姉様は翼までも手に入れたか」


合戦の後を見るようだった。累々と並ぶ矢に貫かれた巫女達の屍。息のある者に円乗さんは声をかける。


「傷が癒えたものから順次社に戻れ」


そのまま何事もなかったかのように歩きだす。彼女を呼び止めようとする僕に。


「私は刃を抜けなかったのではなく敢えて抜かなかった。何故なら姉様の言う通りこれは戦だから…私はそういう女だ」


こんな自分でも何か円乗さんの助けになることは出来ないものか?僕は少ない知識をかき集め頭をフル回転させて考える。


「僕は..リア充ばっかなんで、学校行かないでテレビばっか見てるんだ。この間教育テレビでやってた番組の話なんだけど円乗さんは見たかな」


「テレビは観ない」


彼女は背中を向けたまま素っ気なく答えた。


「早くこの場から立ち去って欲しい」


そんな彼女の心情が感じ取れる。でも僕はさっきから空気読めない男だ。


「人間が視覚で捉えた物体は視神経を通り脳内にある視覚視野にたどり着く。そこからさらに別の神経を通り体が何がしかの反応を起こすためには何秒位かかるか知ってる?」


彼女は何も答えなかった。


「0.5秒!何と0.5秒もタイムラグがあるんだ!つまり散華がどんなに凄いやつでも視覚で円乗さんを認識してから0.5秒は無防備なわけ…」


「識以下」


「え?」


「つまり相生君が言いたいのは大脳中枢や脊髄からの反応・反射の事であろう?」


「まあ…そうかな」


「私達円乗流は鍛練によって、無意識の界層に蓄積された経験や予測により、防御や技を繰り出す。無意識とは乃ち、脳が造り出したと仮定される【受動意識こそが心】という仮説とは異なる。大脳の働きとは別の領域にある無意識こそ心であり魂であると」私達は考える」


「はあ…」


脳や脊髄の反射を遥かに越えた動きが円乗流は可能という事なのか。


「神速とはそれすらも凌駕せんとするものだ…もっとも、未だ私はその域に達してなどいないが」


最初から僕みたいな凡人が出る幕じゃないって事か。彼女の言葉は自嘲気味に僕の心に響いた。


このままでは彼女は散華の前で為す術なく敗れ去る。そんな予感さえした。


「なら魔法の呪文とかっていうのも、あれかな?無意識で使えたりするもんなのかな?」


「魔法の呪文?」


「円乗さんも唱えるだろ?神様にお祈りする時とか呪文」


「祝詞のことか」


円乗さんは少し俯いて考えてから言った。


「異教の呪文にしろ私達の祝詞にしろ音を発する事により大気や万物と共鳴させ…!」


「無意識に改編を起こす事なんて不可能なんだね」


ほんの少しだけ円乗さんの顔に光が射した気がした。少なくとも円乗さんにそれが不可能ならば散華の言葉は間違いだと証明出来る。


「円乗さんに出来ないなら無意識に重力を改編出来るなんて眉唾だと思うんだ」


多分散華は「それが可能だ」と僕達に言いながら会話の中で祝詞に相当する音節を鳴らしていたんだ。靴だって足だって音を立てるものはいくらでもある。


「肉体の改編が可能な姉様ならば頭の中で祝詞を唱え共鳴は可能…それでも」


「音節を唱えるには時間を要する。その前に円乗さんを認識してから…タイムラグはある。散華も円乗さんと同じ人間なんだ」


根拠はある。散華は円乗さんを苦しめるために段階を踏み「1…7」と数字を唱えながら負荷をかけた。同時に僕にも同じ事をした。そんな事が瞬時に出来るなら彼女は神様だ。相手が神様ならこっちはもう御手上げだ。


人間以上の力を持ちながらも円乗散華は神様じゃない。むしろ神を憎んで苦しみ抗う人間なんだ。そこに希望はある。今日彼女と話してそれだけはわかった。


散華がたとえ異能の力を持つ超越者であっても、同じ人である以上、円乗さんがそれを打ち負かすことはきっと可能なはず。


辻褄なんて合ってなくても構わない。僕は円乗さんをこんな姿のまま帰す訳には行かなかった。


「相生君」


振り向いた彼女は僕に言った。


「私は君の気持ちに答える事は許されない」


「ああ」


それが円乗さんの答えなら仕方ない。


「祭りにも一緒に行けない」


いともあっさり僕は失恋した。


「うん」


「私の住む神社の前には千本鳥居があるだろう」


「知ってる。見事なものだ」


「鳥居の内と外に住む者にとってその意味合いは違う。外に暮らす者には鳥居は結界である。結界は神社を守るためのものではなく外の人間に対する警鐘だ」


僕は彼女の告白に対する答えにしっかり耳を傾けた。


「つまり」


それすら心に焼きつけておきたかった。


「神であれ何であれ鳥居を潜った先は人ならざる者の土地。命の保証は出来ないという事だ」


彼女は散華が去った夕暮れの空を見上げて言った。


「見たであろう。あの姉の力を…私は鳥居に囲まれ社の屋根の下に暮らす。故に人々から新興され崇められる。しかし姉のように神の後ろ楯がない私は姉と同じく」


僕を見つめ返す。夕暮れに背を向けた彼女の姿が、朧気な影ぼうしのように、目の前で滲んで霞んで揺れて見えた。


「化け物だ」


かたちがあるから円乗さんは祭主という立場に拘ったりするんじゃないのか。


このままでは彼女は手の届かない遠い場所に行ってしまう。神社や神様の存在は間違いなく円乗さんの一部だ。それが彼女を彼女たらしめているなら。ああ!上手く言えない自分がもどかしい。


「神社の事だって円乗さんの事だって僕はもっと知りたいんだ!円乗さんは絶対に化け物なんかじゃない!!!」


それを僕は確かめたくて。彼女に教えてあげたかった。


「円乗さんは化け物なんかじゃない」


僕は彼女の髪に手をのばす。彼女は首を降ってそれを拒んだ。


「私は守りたいんだ」


彼女は唇を噛みしめた後で決意が宿る瞳を僕に向けた。


「相生君やこの国の人々が楽しく暮らすこの世界を私は守りたい」


「僕が守りたいのは円乗さんだけだ」


そう言ったら彼女は僕を軽蔑するだろうか?


円乗さんが大切にして守りたいもの。それはけして切り離せない。彼女の心の中にあるこの世界。


「僕も守りたい」


自然に言葉が口をついて出る。そばにいて彼女のことを守りたい。一端堰を切って出た言葉は僕の胸の中で燃え盛る。消せない焔となった。


何も持たない何も力も無い。戦う事が宿命で避けられないと言うなら。僕だって彼女の盾ぐらいなれるはずだ。


「君がどんな人か私は知ってしまった今だからこそ」


「円乗さん」


「だから尚更連れては行けない」


「宮様」


声がして振り向く。


「全員帰社の準備が整いました」


そこに矢を受け倒れ伏す者は1人もいなかった。


「嬉しかった」


彼女は巫女を引き連れ社に戻る。


「すべてが嬉しかった」


「円乗さん!待って…」


「君に相応しい縁はやがて結ばれるはずだ。この円乗羽女の名にかけて約束しよう。神に背いても私は君の幸せを祈る」


お互いに思う気持ち。祈る気持ちが同じと分かっても。彼女は立ち止まらない。


「夫婦の縁は死よりも強い絆。君も本当の連れ合いに会えば分かるはずだ。私はいつも社に座して君の幸せを願おう」


僕はその時の彼女を一生忘れる事はない。一度だけ此方を振り向いた彼女の言葉と笑顔は今も深く心に刻まれている。


「こんな私を一度でも嫁と呼んでくれた。それだけで私は充分に果報者だ」


彼女の名前を呼んだ。けれど彼女は二度と振り向いたりしなかった。


僕達は互いの運命が待つ自分の家に帰る道を辿る。家に着くと扉を閉めた。


やがて夜を迎えた。


【第七話 僕の嫁に続く】





















第一話読んで下さった方ありがとうございます(〃^ー^〃)こういう男なら住んでみたいけど主人公にだけは絶対なりたくない世界観で話は進みます。女性の方には今後の展開を見て読んで頂ければ・・この作品はコメディタッチですが他所でもこちらでもシリアスもやってますのでよろしくお願い致します(〃^ー^〃)六葉翼

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― 新着の感想 ―
[一言] 今一話を全部読んで……何というか圧倒させられています。 コメディタッチな部分とシリアスな部分の切り替えもすごいと思うし、何よりこの純愛が切なすぎる。 二人はお互いに大事だと思っていて、ず…
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