【二章】15. 孤島の主 <2>
その漆黒の生命体を前にして……。
秋水もミラも、これほどまでの緊張を感じたことは過去に一度もなかった。
目の前にいるのはドラゴン。
確かに、その認識は間違っていない。
だが、それは人間を相手にして「生物だ」と言うようなものだった。
彼らがよく知っているドラゴンなど、目の前の存在と比べれば小さなトカゲにも等しい。
全身を覆う漆黒の鱗。
山脈のような巨体。
その身から漏れ出る圧力だけで、大気が悲鳴を上げているようだった。
「どうする? とりあえず襲ってくる気配はないけどよ……」
ミラは視線を外さぬまま問うた。
その声に焦りはない。
あるのは状況確認だけだった。
目の前の存在が自分達より遥か上位にあることは、もはや議論の余地すらない。
だからこそ無駄な感情を挟む必要もなかった。
「このまま刺激せず、道を変えるしかないでござるな」
秋水も即座に答える。
刀は腰にある。
だが、それを抜くという選択肢は最初から存在していなかった。
津波に向かって、剣士が剣を振ることはない。
大災害のような存在を前にして、戦うという発想自体が成立しなかった。
「そうだね。とりあえずボクが見張っておくから、その間に三人で──」
キュリアスもまた、いつも通り気の抜けた様子だった。
しかし、その眼差しは普段より真剣みを帯びていた。
もしあの生命体が襲ってきたとして、わずかでも対処出来る可能性があるのは自分だけだと理解しているからだ。
──しかし、そんな緊張が走っている中……。
「──大丈夫ですよ」
「……⁉」
「お、おい、ガキ……⁉」
「……‼」
「シオン……?」
シオンは平然と三人の前へ出た。
忌まわしき亡霊達のメンバーが止める暇すらなく、彼はそのまま迷いなく歩き出す。
一歩。
また一歩と。
ミラ、秋水、キュリアスの三人は、そんな予想外のシオンの行動に目を見開いた。
シオンは迷いなくドラゴンの前まで歩いて行く。
そして、ドラゴンの目の前でシオンは立ち止った。
……次の瞬間だった。
ドラゴンが│頭を下げた《・・・・・》。
一度。
二度。
三度。
まるで臣下が王へ礼を尽くすように。
「…………は?」
ミラの口から漏れたのは、そんな間の抜けた声だけだった。
ドラゴンに向けて、シオンが何かを言ったようだ。
すると、ドラゴンは慌てたように頷いた。
そして……。
ベギャッ!
ドラゴンは自らの爪を砕いた。
「…………」
そして、砕け落ちた爪の先端部分を丁重にシオンに差し出した。
シオンはそれを当たり前のように受け取ると、ドラゴンに向けてさらに何か言ったようだ。
続いて、ドラゴンは自らの鱗を一枚剥いだ。
そしてまた、それをシオンに差し出した。
シオンは再び、それを当たり前のように受け取った。
「…………」
ミラはパクパクと口元を震わせながら、完全に言葉を失っていた。
一体何が起きているのか、考えようとした。
だが無理だった。
理解のための前提が足りない。
何一つ分からない。
分かるのはただ一つ。
目の前で起きている出来事が、自分の知る常識の範疇に存在しないということだけだった。
ミラほどあからさまではないが、秋水もキュリアスも、明らかに言葉を失っているようだった。
そうして、直径六十センチメートル程の黒い鉄塊のような爪と、直径五十センチほどの大きさの漆黒の鱗を両手で抱えると、シオンはまるで〝もう用はない〟と言わんばかりに、くるりと踵を返し、ドラゴンに背を向けた。
そのまま、ペコペコとなにやら必死に頭を下げ続けるドラゴンには一度も目もくれず、シオンは何食わぬ顔で三人の元に戻って来た。
「それじゃあ、帰りましょう」
「……あ? ああ、そうだな……」
もはや考える事すら憂鬱になったかのような顔でミラはそう口にした。
秋水とキュリアスも無言のままだ。
スタスタと歩き出したシオンに対して、キュリアスら三人もそれに追随した。
……そうして四人は来た道を引き返し、しばらく歩き続けた。
来るときは襲ってきたようなモンスター達も、シオンが手に持つ黒い塊を見ると一目散に逃げ去って行った。
四十分ほど歩き、やがて、ミラは徐々に我に返った。そして、
「──……なあ、クソガキよ。その、お前が持ってるそれは、何?」
ミラがそう尋ねると、シオンは……。
「これですか? これは──〝終焉の黒殲龍〟の爪と鱗ですね」
と、さも平然と答えた。
すると、ミラの方も、
「ああ、そう……。〝終焉の黒殲龍〟の爪と鱗ね、あっそう……」
と、投げやりに返すのだった……。
◆
ブレイバーズ合衆国の海域に位置する、「N-843」という登録名の無人島。
その島と周辺海域は、A級以上の危険度を持つ凶悪なモンスターで溢れ、人間が寄り付くことはまずない。
──かつて人々を恐怖に染め上げた世界最強のドラゴン、│終焉の黒殲龍は、今から一か月ほど前からその無人島を住処としていた。
金輪際、人々の前に姿を現さない──それは、自らが誓ったこと。
黒殲龍はその誓いを守っている。
しかし、この「N-843」という登録名の無人島はブレイバーズ合衆国の港からさほど離れてはいない。
もっと人間の居住地から離れた場所は他にもいくらでもある。
だが、人里から離れすぎている地帯は、四百年前──黒殲龍がジーク=フリードから逃げ回っていた時代に身を潜めていたような場所ばかりであり、どこもかしこも苦い記憶が残っている。
そんな中で、この無人島は人も寄り付かず、尚且つ当時の苦しい思い出もない。
そして何より、人間が寄り付かないような地域の中で、この島は特別に気候が安定し、過ごしやすい。
そういった理由から、黒殲龍はこの島を居住地に選んだのだった。
黒殲龍は、少し前から自分の居所が定期的に人間に監視されていることを知っていた。
匂いで分かるからだ。
己を監視している人間が何者かまでは分からないが、恐らく、情報はジーク=フリードにも届いているだろうと黒殲龍は予想していた。
その予想が当たっているならば、震え上がるほど恐ろしい事実だ。
しかしだからといって、ここから逃げ出せば「また逃げ回っている、よからぬことを企てているんじゃないだろうか」と誤解されるかもしれない。
変な動きをして、ジーク=フリードを余計に怒らせるわけにはいかない。
それだけは、最も避けなければならない。
ゆえに黒殲龍は、居場所が把握されている状態をあえて受け入れ、この島に留まっていた。
かつて世界中を荒らし回っていた頃とは違い、何も起きず、娯楽もない日々の生活。
それでも、今の彼はその穏やかな暮らしに心から感謝している。
頭部だけの状態で、封印の剣を頭蓋に突き立てられたまま四百年。
絶え間なく続く激痛の中に拘束され続けたあの日々と比べれば──大空の下で気ままに過ごせる現実は、これ以上ないほどの幸福だった。
終焉の黒殲龍は、日に何度も、過去に自分が奪い去った命への懺悔を心に念じた。
ドラゴンである彼が人間を殺したことを悔いる行為は、人間に例えるなら、伐採した森林の一本一本に対して「殺人と同等の罪悪感」を覚えるようなもの。
根本的な価値観を覆すことは困難を極める。
それでも終焉の黒殲龍は、一日たりとも懺悔を欠かさなかった。
──『〝これから先、我が奪ってきた命に対し、心から懺悔する!! 一日も欠かさずに‼〟』
あの日、終焉の黒殲龍が自ら立てた誓い。
その誓いがあるからこそ、今の自由がある。
終焉の黒殲龍は、いついかなる時もそのことを決して忘れなかった。
だからこそ、誰にも見られていなくても絶対に誓いを破らない。
自由の身である現実に感謝し、過去を悔い、無人の島で静かな日々を過ごしていた。
──……そんなある日のこと。
│その人物が島に上陸する前から、終焉の黒殲龍は〝匂い〟で接近を察知していた。
しかし、逃げるつもりはなかった。
もし今日、あの男が自分を殺すと決めているのなら──仕方がない。
何が起ころうとも、すべてを受け入れる覚悟だった。
ただひとつ、終焉の黒殲龍には決意があった。
│あの日は、あまりにも情けない姿を晒してしまった。
もし今日が最期ならば──せめて最後くらい、かつて〝世界最強〟として君臨していた頃の立派な姿で散ろう、と。
どんな状況でも取り乱さず、トラウマに屈することなく、堂々と振る舞おう。
そう心に誓い、入念にイメージトレーニングも行った。
もう二度と、あの日のような醜態を晒すことはない──と、強い自信すら抱いていた。
──そして、それから数十分後。
終焉の黒殲龍は、その男を前にし、見事なまでに情けなく媚び諂うことになる。
おそらく、彼がジーク=フリードに刻まれた恐怖心を克服する日は──未来永劫、訪れないだろう……。
2026/6/20
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