60. 約束
──王都の繁華街。
ベンチに座ってサンドイッチを食べ終えたシオンとユフィアは、再びまったりと繁華街を練り歩いていた。
「わぁ、見て、シオン」
道すがらユフィアの目を引いたのは、輝鉱石の高級インテリア専門店のショーケースに展示されている商品だった。
「これ、全部輝鉱石で出来たシャンデリアだって……!」
ショーケースの中で、ユフィアが食い入るように見ているのは輝鉱石のみで生成された煌びやかなシャンデリアだった。
空気中の魔素を吸収して光を放つ輝鉱石は街灯や室内の明かりとしても利用される日用品でもあるが、そのシャンデリアはよく見る輝鉱石とは全く異なるガラスのような透明感を持ち、美しい輝きを放っていた。
「わっ、これ、200万ゼニーだって……!でも、それくらいしても不思議じゃないくらい綺麗だね。ね、シオン?」
横に立つシオンに目を向けると、彼はおもむろに財布を取り出して中身を覗き、顔を上げて渋い顔をしながら無言で首を横に振った。
「強請ってる訳じゃないよっ。『勘弁してくれよ……』みたいな顔しないでよ、もうっ」
シオンの無駄に上手い芝居にツッコミを入れながらも、ユフィアは思わずくすっと笑った。
「わっ、こっちは1000万ゼニーだって……!」
ユフィアが再びショーケースに目を移すと、そこには手の平サイズの輝鉱石があった。
その石は常に流動するように虹色の光を放っており、見たことのないような美しさだった。
「わ、わー……っ!とっても綺麗……」
と呟くと、ユフィアは目を輝かせながら、「……凄いねっ、シオン」とシオンの方へ向いた。
「!」
どこまでも純粋で無垢な彼女の笑顔は、ただ真っ直ぐシオンに向けられている。
そんなユフィアの表情を見たシオンは、
「………ああ。───綺麗だ」
と、微笑みながら頷いた。
………
……
…
「シオン、私、あのお店が見てみたい」
シオンの袖をちょんちょんと引っ張ると、ユフィアは反対側の歩道沿いにあるお店を指差した。
「ん?あそこか。意外だな、ユフィアはああいうのに興味があるのか」
「うん、シオンと一緒に見に行きたい」
「まあ良いぞ。今日は対抗戦で勝ってくれたユフィアに全ての主導権があるからな。ユフィアの好きな場所に行こう」
「うん、有難う。シオン」
落ち着き払った大人な態度を見せるシオンの隣で、ユフィアは密かに微笑を浮かべた。
───「(シオン、さっきからずっとあのお店をちらちら見てたよね)」
その後、馬車に気を付けながら車道を横断した二人は、先程ユフィアが指差したお店へと入店した。
そのお店で髑髏や十字、シルバーのチェーンなどが派手に施されたアクセサリーや小物類を眺め、シオンは内心のウキウキなテンションが顔に漏れ出るほど大いに楽しみ、ユフィアはそんなシオンをニコニコと見つめながら過ごすのだった……。
◆
人の行き交う繁華街の歩道を歩くシオンとユフィア。
先程のお店にて、シルバーの髑髏が施された財布か十字が施された財布、どちらが良いかとシオンはユフィアに尋ね、「絶対に十字が良いよ」とユフィアが推した末にシオンはシルバーの十字の施された黒い財布を購入し、イカしたデザインのおニューの財布を手に入れたシオンのテンションは上がっていた。
そして、装飾は銀色のクローバーでありながらもユフィアもシオンと同じ型の財布を購入し、彼とお揃いのアイテムを手に入れた事で、無意識にぴょこぴょこと左右に頭を揺らすほどユフィアも上機嫌になっていた。
「そういや、どこで晩飯食うかまだ決めてなかったな」
「あ、そういえばそうだね」
シオンとユフィアが交わした約束は「一日王都を見て回る」という内容。
王都でディナーをとる事は前もって決まっていたが、お店は当日に探す運びとなっており、二人は「街を歩きながら、夜ご飯を食べるお店にもぼちぼち目星を付けておこう」と話していた。
そんな時だった。
「どけッ!!!」
「……っ」
シオンの隣をゆったりと歩いていたユフィアに、何者かがドン!と勢いよく肩をぶつけた。
「……!……大丈夫か、ユフィア」
何やら大きい布の袋を脇に抱えた大男が走り去って行く中、シオンはサッと上半身を回り込ませるようにしながら、つんのめったユフィアの肩を押すように支えた。
「う、うん……。だ、大丈夫……。ありがと、シオン……っ」
唐突にシオンの顔が近づき、ユフィアはぶつかられた事など忘れてしまう程にドキっと心臓を高鳴らせた。
そんな二人の後方から、緊迫した様子の男性の声が聞こえてきた。
「ひ、ひったくりだーっ!!誰か、そいつを止めてくれー!!」
「!」
ユフィアがその声に反応して振り返り、もう一度シオンの方へ向いた時、彼は既に前方に向かって勢いよく走り出していた。
行き交う人を避けながら、シオンは10メートル以上離れた位置を走る男を追う。
魔術による攻撃を当てようにも、逃げる男との直線上には通りすがる人々が入り込むために使用出来ず、また、"没我の極致"の状態でない現在の彼では、「限界加速」を発動したまま移動出来る距離は精々6、7メートルが限界。
故に、現状10メートル以上離れているひったくり犯との距離を「限界加速」を発動した状態で詰めるという芸当は不可能な為、限界加速さえも未使用のシオン。
しかし限界加速を発動せずとも、彼はよく鍛え抜かれた脚に身体強化魔術を掛ける事によって人並み外れた走力を発揮し、あっという間にひったくり犯のすぐ後ろにまで追い付いた。
ひったくり犯の走る直線上に空きスペースが生まれたタイミングで、シオンは男の背中に勢いよく飛び蹴りをぶちかまそうとしたが、
「大事な荷物なんだ~!誰か~!!」
という後方からの声が耳に入った為に飛び蹴りをキャンセルし、代わりに男の真後ろで「限界加速」を発動させた。
まるで止まっているかのようにゆっくりと進む時間の中で、シオンは男の真横に回り込み、その右脇に抱える大きな布の袋を両手で掴むと、今にも地面を蹴り抜こうとしてる男の右足首の辺りに自分の足先を鉤のようにして引っ掛けた。
「……ッ!?ぐあっ!!」
そして、シオンが「限界加速」を解除すると、止まっていた時が進み始めたかのように一気に世界が動き出し、ひったくり犯は引っ張っていた袋から腕がすっぽ抜けたかのように袋を奪われ、そのまま勢いよく地面に倒れ込んだ。
「くっ……!!」
「一体何が起きた!?」と言うように男が振り返ると、そこには男が持っていた筈の大きな袋を持ちながら男を見下ろすようにシオンが立っており、そして、倒れる直前に右足に感じた「何かに強く引っ掛かるような感覚」から、男は凡その状況を察した。
「てめぇこのガキ……ッ!!!」
男はシオンを鋭く睨みつけながら立ち上がり、
「よくもやってくれたな!!!」
「きゃあっ!!」
怒声を上げながらひったくり犯がナイフを取り出すと、それを見た道行く人々は悲鳴を上げ、蜘蛛を散らすように二人の周囲から離れていった。
そして、それを見たシオンはピクっと眉を顰ませ、男に鋭い視線を向けた。
「死ねやガキィ!!」
激情した様子のひったくり犯は、刃渡り25cmほどの大きなナイフを勢いよくシオンに向けて振るった。
右上から大きく振り下ろされた軌道が見え見えのナイフに対して、シオンは軌道の下に潜り込み容易に躱すと、左脇に袋を抱えたまま、黒いグローブを嵌めた右拳を勢いよく男の腹部に叩き込んだ。
「うっ!!ぐぁ……ッ」
鳩尾に対して突き上げるように強烈なボディブローを打たれた男は、大きな体を浮かせるようにしながら舌を出し、酷く苦しそうに息を漏らした。
そして、身を屈めながら苦痛に顔を歪める男に対して、シオンは間髪いれずに右手で男の髪を鷲掴みにし、引き付けるように男の頭部を引っ張りながら、その鼻頭に思いっきり右膝をぶち当てた。
「がぁッ!!」
骨を砕かれ、鼻血を噴き出しながら顔を跳ね上げる男。
へし折れた鼻を両手で覆うようにしながら上体を起こした男に対して、シオンはそのまま素早く身を翻して一回転し、男の横っ面を打ち抜くように回し蹴りを叩き込んだ。
「ぐぁッ……!!」
たまらず男はナイフを落とし、ぶっ飛ばされるように地面に倒れた。
「あ……が、ぁ……」
男はどうにか立ち上がろうとするが、強い脳震盪を起こしている為に、地面に寝そべりながら力なく手足をじたじたさせるだけだった。
そんな男に対して、シオンは左脇に袋を抱えたまま歩み寄ると、倒れている男を見下ろしたまま右の掌を向け、直径20cmほどの黄色い魔法陣を展開した。
「雷撃」
「───ッッ」
シオンはそのまま躊躇なく小さな稲妻を繰り出し、バチィッ!と、男の衣服の一部分を焦がしながら男を気絶させた。
そして彼は、強い怒りを滲ませた視線を気絶した男に向けながら、独り言のように吐き捨てた。
「"よくも"だと……?───それはこっちの台詞だ」
………
……
…
「シオン、大丈夫……っ?怪我はない……?」
「ああ、平気だ」
「よかった……、良かったぁ……」
シオンがひったくり犯を気絶させた直後、ユフィアはすぐに彼の元に駆け寄ってシオンの無事を確認すると、安心したようにジワっと目に涙を浮かべた。
そして、その後ユフィアに続くように一人の男性がシオンの元に歩み寄った。
「ハァ、ハァ、……いやぁ、君、助かったよ、有難う……!!」
息を切らしながら声を掛けたのは、先程ひったくり犯を追うように声を上げていた男性だった。
「これ、貴方のですか?」
「ああ、そうだ。私の荷物だ」
頷いた男性が嘘を言っていない事を確認すると、「どうぞ」と、シオンは両手で大きな袋を差し出した。
「どうも有難う……!───それにしても、チンピラがこんなもの盗んだって仕方ないだろうに。一体何と勘違いしたんだか……」
そう言いながら、男性は袋から大きな木箱を取り出して地面に置き、蓋を開けて中身を確認すると、箱の中にはチーズや野菜といったの食材が詰まっていた。
「──ああ、良かったぁ。全部無事だ……。君、丁重に取り返してくれて、本当に有難う……!」
ホッと安心したように息を吐くと、男性は箱を閉じて袋に仕舞い、立ち上がってシオンの手を握りながら頭を下げた。
「何か、お礼をしなくてはね」
「いえ、荷物を取り返したのはついでみたいなものだったので、お気になさらずに」
「いや、そういう訳にはいかないよ!───あっ、そうだ!」
と言うと、男性は懐から二枚の封筒を取り出した。
サイズは一般的な手紙封筒ほどの大きさで、やや硬そうな紙質の高級感のある赤い封筒だった。
「これは、私が料理長を務めてるレストランのチケットでね。今日二名分の予約がキャンセルになったから、その辺の金持ちにでも売りつけてやろうと思ってたんだ。──良かったら、お礼に今晩ご馳走させてくれないかい?」
「『Restaurant CHERE』っていうお店なんだけど」───と続いた男性の言葉に、シオンとユフィア思わず顔を見合わせた。
「Restaurant CHERE」と言えば、国内どころか、世界でも有名な超人気店である。
「Restaurant CHERE」は"国内一予約が取れないレストラン"としても広く知られており、一般人が予約出来るのは50年以上先だとされており、そのチケットはオークションで1億ゼニーで落札される事もあると言われている。
「れ、『Restaurant CHERE』は、勿論知ってます……っ」
「おお、それは嬉しいね!──それで、どうかな?今晩」
「……そんなレアなチケット、本当に俺達が頂いても良いんですか?」
「ああ、勿論!君達は私の命の、いや、食材の恩人だからね!是非、君達二人にご馳走させて欲しい!これは、私の願いだ!」
たかだかひったくり犯を捕らえたくらいで国内一の高級レストランをご馳走になるなんて……とシオンは遠慮しそうになったが、料理長の男性の全く惜しみのない感謝の気持ちが込められた言葉を、彼は素直に受け止める事にした。
───それに今日は、ユフィアへのお礼だしな
「……嬉しいです。是非、お言葉に甘えさせて下さい」
「おお!そうか!それは良かった!!──それじゃあ、チケット!」
大変嬉しそうな笑顔を浮かべると、男性はシオンにチケットを渡した。
………
……
…
その後、駆けつけて来た警備兵にひったくり犯を引き渡すと、料理長は二人にレストランの場所を教え、受付の為にシオンとユフィアの名前の確認を行い、「そのチケットは失くさないように気を付けてくれよ!うちの店、『チケットを持たない者、紛失した者の入店を禁ず』っていう頭の固い規則があるからさ。──それじゃあ、本当に有難う!夕方頃、待ってるよ!」と重ねて礼を言って二人と別れた。
料理長の男性と別れた後、シオンとユフィアは「楽しみだね」「ああ、そうだな」と言い合いながら、再びまったりと繁華街を練り歩いた。
魔術で生成された水や光によるアート展を観たり、魔術本や魔道具、魔装武器などを取り扱うお店に行ったりと、魔術学生らしさのある場所を訪れて共に時間を過ごしながら、シオンとの時間をユフィアがたっぷりと堪能していると、あっという間に時刻は18時前になっていた。
「わ、すごく良い匂い……!『絶品キノコとチキンソテーのお店』だって……!美味しそうだね」
「ああ、すげぇ美味そうな匂いだ。もし今度二人で王都に来たら、ここで食べたいな」
「こ、今度……っ。う、うん……!そうだね……っ!」
僅かに耳を赤くしながら、ユフィアは答えた。
「っと、もう18時前か。美味そうな匂いを嗅いで腹も減ったし、そろそろレストランに向かうか」
「うん……!」
そう言うと、シオンは路上に設置されている街の地図を見つめた。
「……こっからだと、レストランまで歩くにはちょっと遠いな。馬車に乗って行こうぜ」
ユフィアの体力に気を使ったシオンの提案によって、二人は「Restaurant CHERE」まで馬車に乗って行く事となった。
二人は近くの馬車停留所に行くと、設置されている案内板を見て赤い車体の馬車が「Restaurant CHERE」方面に行く事を確認した。
暫く停留所で待っていると赤い車体の馬車が通り、二人はその馬車を止めて乗車した。
客車の中には横長のシートが向かい合うように二列に並んでおり、シートは片側に成人が四人座れるくらいのスペースがり、シオンとユフィアは隣り合うように座った。
また、二人が乗り込んだのは相乗り馬車で、二人の向かい側には先客が一人座っていた。
少しくたびれた紺色のジャケットを着込み、赤い花束を手に持って座っていた先客は、70歳くらいの見た目の男性の老人だった。
二人が対面のシートに座る先客の老人に向かってペコリと頭を下げると、老人も柔和な笑顔を浮かべながら二人に会釈をした。
「お客さん、どちらまで?」
「『Restaurant CHERE』までお願いします」
「はいよっ。それじゃあ、出発しますね」
客車に向けて問いかけてきた御者に対してシオンが客車の隙間から答えると、御者は気前よく返事をして、馬車を走らせた。
「君達も、『Restaurant CHERE』に行くのかい?」
「ええ」
向かいから話しかけてきた老人に対してシオンは微笑みながら答え、ユフィアもその隣でコクリと頷いた。
「行くのは初めてかい?」
「はい、そうです」
「そうかい、そうかい……。あそこの料理は、本当に素晴らしいからねぇ……。きっと、良い思い出になるだろうさ」
シオンが答えると、老人は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「おじいさんも、『Restaurant CHERE』に?」
「ああ、そうだよ」
ユフィアが尋ねると、老人は優しく頷いた。
「その花束は?」
「ああ、これはね、妻に贈る花束さ」
そう言うと、老人は花束に暖かい視線を向け、言葉を続けた。
「40年前……まだ私が若かった頃、町の抽選で運良くペアチケットが当たって、一度だけ『Restaurant CHERE』に妻と二人で行ったんだ。その時に、妻と"必ずまた一緒に来よう"って約束をして、40年後の予約を取ったんだ。……そして今日が、その予約の日でね、今日はこの花束を、妻に贈るんだ」
「素敵な約束ですね……。……奥さんとは、待ち合わせですか?」
「いや……」
ユフィアが問いかけると、老人は首を横に振った。
「妻は、10年前に亡くなってね……。今日は、妻の指輪と、この花束を持って行って、40年前に予約した席で食事をしながら、この花束を、天国の妻に贈るんだ」
「そう……だったんですね……」
悲しそうな表情を浮かべるユフィアに、老人は続けた。
「私は昔からドジでね……。妻には生前、数え切れないほど助けられて、苦労をかけてばかりだった……。彼女が生きてる間、私は何一つ恩返しをしてやれなかったけど、二人でもう一度あのレストランに行くという約束だけは、どうしても果たしたくてね……」
老人は、ポケットから取り出した指輪を握り締めた。
そんな老人に対して、ユフィアは目元に涙を浮かべながら話しかけた。
「……恩返しが出来なかったなんて、そんな事ないと思います。……大好きな人から、そんなに大切に思われて……。きっと、奥さんはすごく幸せな人生だったと思います。……今日、おじいさんに連れて行って貰えること、奥さんは天国で、きっと喜んでると、私は思います」
「………!!」
その言葉に、老人は目を見開いた。
そして、彼もまた、じわりと涙を浮かべた。
「そう、かなぁ……。そうだと、良いなぁ……」
老人はぎこちない笑顔を浮かべながら、ぽろりと涙を溢した。
……暫くして、老人は申し訳なさそうに二人に謝罪した。
「……すまないね、若い二人に、こんなつまらない話をしてしまって……」
「いえ、素敵な、……本当に素敵なお話が聞けて、良かったです」
微笑みながらそう言ったシオンの横で、ユフィアもコクリと頷いた。
そして、客車の前方から、馬の足音に紛れながら、ぐすりと鼻を啜るような声も聞こえてきた……。
◆
「ぅ、ふぐっ……、うぅ……。到着致しました……っ。……お、お代は結構ですので、どうか、素敵なお時間を……っ」
と、滝のように涙を流す馬車の御者の厚意によって、シオンとユフィア、そして老人の三人は運賃が無料となった。
「お先にどうぞ」
「ああ、すまないねぇ」
三人は「Restaurant CHERE」の前で馬車を降り、ユフィアに微笑みながら促された老人は先に店の入口へと向かった。
「いらっしゃいませ。ご予約のお名前とチケットを確認致します」
店の入口の前に立つ黒いベストを着た女性店員に尋ねられ、老人は夫婦両名の名前を名乗りながら、ジャケットの胸ポケットへと手を伸ばした。
だが、その直後。
「あ、あれ……っ、確かにチケットは胸の内ポケットに……っ」
老人は、ジャケットの内側を弄りながら焦った表情浮かべた。
「お客様、チケットはお持ちでしょうか……?」
「え、ええ……!持っています、持っていますとも……、あれ、あれ……」
「!」
ユフィアとシオンも後から老人の後ろに並ぶと、彼のその異変に気が付いた。
「あ、あぁ……っ!内ポケットに、穴が……」
「───!」
瞬間、老人は絶望的な表情を浮かべた。
訪れる、僅かな静寂。
シン……、とした空気の中、静寂を破ったのは女性店員だった。
「あの、お客様……。チケットは、お持ちでしょうか……?」
「………」
尋ねた女性店員に対して、老人は力なく首を横に振った。
「そうですか……。……申し訳御座いませんが、チケットをお持ちでないお客様は、ご入店頂く事が出来ません……」
女性店員は、心苦しそうに老人に伝えた。
「……何とか、何とか入れて頂けないでしょうか……っ。今日は、今日ここでディナーを食べる事は、亡くなった妻との、大事な、大事な約束なんです……っ。どうか、どうか……」
頭を下げ、花束を握り締めながら肩を震わせる老人に対して、女性店員は目を伏せながら首を横に振った。
「心中お察し致します……。しかし、規則ですので……」
「あの──」
老人の後ろから「そこをどうにか」、と店員に懇願しようとしたユフィアを、シオンは手で制した。
ユフィアがシオンの方を振り向くと、彼はただ静かに首を横に振った。
「私個人としましても、楽しみにして下さったお客様には是非、当店の料理を楽しんで頂きたい所存です。……しかし、この規則は先代のオーナーからの絶対的な決まり事でして……。これまでもお客様のような方は幾人もいらっしゃいましたが、全て、入店をお断り致しておりまして……」
「………っ」
形式的な謝罪などではなく、女性店員は、心の底から申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
老人にも、ユフィアにも、女性店員の辛い気持ちが嫌という程に伝わった。
だからこそ、「どうしようもない」のだと理解せざるを得なかった。
「……うぅ。私は本当に駄目な男だ……。いつも、こんな取り返しのつかないようなドジばかり……。生前の妻にも、迷惑ばかり掛けて……。私は、妻との最後の約束さえ果たせない、駄目な夫だ……。すまない……。本当にすまない……」
「…………」
指輪を握り締めながら、涙と共に懺悔の言葉を繰り返す老人。
そんな姿の老人を前に、ユフィアの心は揺れ動いていた。
──レストランのチケットは、シオンが頑張ってひったくりを捕まえて、そのお礼で貰った物……。
──本当は、国内一の高級レストランのディナーを食べる素敵な思い出を、シオンと一緒に残したい……。
──私のわがままで、折角のチケットを、二度とないかもしれない機会を台無しにしたら、シオンに嫌われるかもしれない……。
──でも、それでも……。
──それでも、私は……っ
「ね、ねぇ……。シオン──」
「───ユフィア」
意を決したように口を開いたユフィアの言葉を、シオンは遮った。
そして彼は、優しい笑顔を浮かべてこう言った。
「昼間にも言ったけど、今日の主導権は全てユフィアにある。だから、このチケットは……」
そう言うと、シオンはユフィアにレストランのチケットを差し出した。
「ユフィアの、好きに使いな」
どこまでも澄んだ、暖かく優しい微笑みがユフィアへと向けられた。
────ああ、私は……
────この人を好きになって、本当に良かった……
「───あの、このチケットで、この人をお店に入れてあげて下さい」
「えっ……?」
老人と女性店員の間に割って入ったユフィアに対して、老人と店員は驚いた表情を浮かべた。
「……そ、そのチケットは、君達二人のものだろう……っ?」
「良いんです。私達は、おじいさんにこのお店でご飯を食べて貰いたいんです」
「い、いや……そんな……。受け取れる訳が無いよ……」
「おじいさんが受け取ってくれないなら、どっちにしたって俺達はこのレストランには入りませんよ」
「え、えぇ……!?」
ユフィアを援護するように割って入ったシオンの言葉に、老人は戸惑った声を上げた。
「君達……。どうして、そこまで……」
「こいつは、底抜けのお人好しですから。このまま"国内一の人気高級レストラン"で食事をしたって、おじいさんの事が気になって美味しく食べられる訳がないんですよ。それにきっと、今日だけじゃなくて、これから先も、おじいさんの助けになれなかった事をずっと後悔すると思います。こいつは、そういう奴なんです。……ずるい言い方をしてしまってすみません。でも、俺からもお願いします。このチケットを、受け取ってやって下さい」
「………っ」
シオンの言葉に老人はくしゃっと顔を歪め、側に立つ女性店員も、目元を潤ませながら口元に手を当てた。
「そ、そんな事言われたって……。私だって、君達みたいな、素敵な若者二人の幸せを邪魔してまでチケットを譲られたって、素直に喜べないよ……。きっと、天国の妻だってそうさ……」
老人は、視線を落とした。
「……幸せの邪魔、か……。だってよ、ユフィア?」
シオンが隣に立つユフィアに視線を向けると、彼女は老人に向かってニコリと笑顔を浮かべた。
「幸せの邪魔なんかじゃありせんよ、おじいさん。──だって私は、シオンと……、彼と一緒なら、どこにいても、世界一幸せですから」
「…………っ!!」
視線を上げた老人の目には、幸せに満ち溢れた、曇りない満面の笑顔が映った。
思わず言葉を失った老人に近づくと、シオンは老人にだけ聞こえるように側で呟いた。
「じいさん、アンタが受け取ってくれないと、あの笑顔が曇りますよ」
「!!」
そして、再びユフィアの隣に戻ると、シオンは優しい笑顔を浮かべて、老人に言った。
「亡くなった奥さんとの、大切な約束なんだろ?」
「…………ッ!!」
老人は顔を伏せ、噛み締めるように顔をくしゃくしゃにしながら、ぽろぽろと涙を溢した。
「ぅ……うぅ……ぐぅ……っ」
そんな老人の横で、ユフィアは女性店員にチケットを手渡した。
「……確かに、チケットをお預かり致しました。では、一名様……、いえ、二名様、ご案内致します」
女性店員は目元の涙を指で拭いながら、扉を開いて老人を店内に招き入れた。
「ありがとう……ありがとう……」と、老人は何度もシオンとユフィアに頭を下げ、店内へと入って行った……。
………
……
…
「───あの……!」
シオンとユフィアが「Restaurant CHERE」の前の馬車停留所で暫く待ち、来た道を戻る馬車に乗り込もうとした時、先程のレストランの女性店員が二人に声を掛けた。
「?」
二人が振り返ると、女性店員は深々と頭を下げた。
「いつか、お二人が再びこの店に訪れる日を、心待ちにしております」
それを見たシオンは、薄く笑顔を浮かべて答えた。
「ええ。いつか、必ず二人で来ます」
───と。
「料理長さんに『急用が出来て来れなくなり、申し訳ありません』と、お伝え下さい」と言うと、シオンとユフィアは馬車へと乗り込み、女性店員に丁重に見送られるのだった。
◆
来た道を戻る馬車の中で、ユフィアはシオンに話しかけた。
「ねぇ、シオン」
「ん?」
「さっきの、二人でって……」
「ああ。いつか、必ず二人であの店に食べに行こうな」
「…………っ!!………うん!」
ユフィアは、シオンの隣で満面の笑みを浮かべた。
「約束だよ、シオン」
「ああ、約束だ」
………
……
…
その後、二人は繁華街の中心の方へ戻り、夕方に「今度王都に来た時に食べに行こう」と話していた"絶品キノコとチキンソテーのお店"を訪れた。
絶品と銘打つだけあって、確かな美味しさの茸の風味豊かなチキンソテーを提供するレストランではあるが、お手頃な価格の、至って庶民的なレストランだった。
けれど、ユフィア・クインズロードにとっては、どれほど人気のある高級店で食べるよりも、幸せで、思い出に残るディナーだった……。
次回、最終話




