穢れ
雲ひとつない晴れた空の下、草原に寝転がっていた──ら、良かったのにと彼女は心底思った。
現実はというと、曇天の下、自転車でバランスを崩して堤防から転げ落ちてしまった。雨の後だったので草原は湿り、そこら一帯が軽くぬかるんでいた。
しばらく痛さで動けなかった。川沿いをなぞるように風が通る。
しかし人通りが少ない堤防とはいえ、誰に見られているか分からない。それに雨で濡れた草の匂いと、傷口に染みる泥が気持ち悪かった。
しぶしぶ彼女は身体を起こして、自転車に絡まった足を引っこ抜き、よろよろと立ち上がった。
幸い足は捻っていなかった。しかし足から滴る血の量と、制服の汚れ具合は彼女のため息を引き出すには十分の量だった。
「よりによって雨降った後に……」
高校生にとって制服とは命の次に大切と言っても過言ではない。それは自分を魅せる道具であり、青春の象徴とも言えるからだ。
夏服なのでシャツの洗濯は可能だが、スカートは所々ほつれてしまっている。新しい制服が届くまで、当分は体操服で登校しなくてはならないだろう。
買い直すと言っても簡単ではない。女子のスカートはたかが一着で軽く一万は超える。
母親への言い訳を考えながら堤防の坂に転がる自転車を起こしていると、二十代後半くらいの男が声を掛けてきた。
「君大丈夫?」
彼女はギクリとする。やはり一人くらいは通行人が居たのだ。ぎこちない笑みを浮かべて、足に付いた泥を払う。
「あ、あはは。すみません、大丈夫です」
払い除けた泥は雨の後で湿っていて、足からは離れたが手にこべり付いた。どうせこの先使い物にならないと、さり気なくボロボロスカートに塗りつけた。
「自転車運ぶの手伝うよ」
「あ、ありがとうございます」
男は目鼻立ちははっきりしており、しかし見た目よりは温和な話し方をした。
とりあえず痛む足を我慢しながら彼女は自分が落ちてきた坂を登った。途中で転がったカバンも回収して。
堤防の上は道路になっているが、車も人も無い。男は自転車を道路に置いて、軽く点検する。
「うん、タイヤとかは歪んでないね。ブレーキも効くし」
「じゃあこのまま帰れますね」
「え、歩いて帰らないの?」
彼女の血の滴る足を見て男は驚く。しかし家まではまだ距離があるので、彼女からしたら痛みを我慢する方がマシなのだ。
「はい。足は問題なく動くので」
「でもその傷じゃ痛むでしょ。せめて洗った方が」
「でもこの辺り、水道ありませんよね」
人通りが少ないという事は、その分公共施設も少ない。近くに公園など無かった。
「あ、ちょっと待ってて」
男は何かを思いついたように、腰に巻いていたカバンからまだ封の切っていないペットボトルを取り出した。ミネラルウォーターだった。
「これで傷口洗いなよ」
「あっ、ありがとうございます!あのお金──」
カバンから小銭を取り出そうとすると、男はそれを制した。
「このくらい構わないよ」
「え、でも」
「いーからいーから」
男がパキッとペットボトルのフタを開けて彼女に差し出す。
彼女は先に擦りむいていた手を差し出して泥を落とし、ローファーとハイソックスを脱いで足を流して貰った。
最後に男は広告の入ったポケットティッシュを出して、彼女の足の水と血を拭いた。
「はい、できた」
「何から何まですみません。ありがとうございました」
ハイソックスはドロドロだったので、ローファーだけ履くことにした。綺麗に洗った足には、生々しい傷口が赤く貼れていた。
自転車のカゴにカバンを放り込んで、彼女は自転車にまたがった。思わぬところで助けられてしまった。
最後にもう一度頭を下げると、男は笑った。
「気を付けてね。脇見をしてたら──連れて行かれちゃうよ」
途端、彼女の背中にゾクリと悪寒が走った。顔から血の気が引き、言葉を失いかける。
「え、……あ……えっと、そうですね。あはは!不審者とかには気を付けないとですね!」
まるで男の顔が『別モノ』に見えたが、彼女は適当に誤魔化した。「それじゃっ!」と言って、彼女はそこから逃げるようにペダルを踏んだ。漕いで漕いで、出来るだけ早くその場から立ち去りたかった。
ドクドクと心臓の音が耳に響く。
昔から彼女は『視える』体質だった。堤防から転げ落ちたのも、視界に黒いモヤが映り、嫌な予感がして引き返そうとしたからだ。
家に着くやいなや、カバンを引っ張って、荒くたく自転車の鍵を抜いた。そして家に入るとドタドタとリビングへと走る。
リビングのソファには母親がのんびりとくつろいでいたので、娘の慌しい帰宅に驚く。
「あら、お帰りなさい」
「お、おおおお母さん!なんか変な何かが!」
さっきの男を『人ではないモノ』と直感した彼女は、思わず分かりにくい説明をしてしまった。
母親は訝しそうに首をかしげる。
「変な何かって何よ。ってやだちょっと!泥まみれじゃない!お風呂入って来なさい!」
「なら消毒液を先に頂戴!」
「えぇ、消毒液?あったかしら……どこか怪我したの?」
「そんなの見たら分かるでしょ……う……え?」
彼女は驚いて、自分の足を凝視した。制服こそボロボロで、泥や土は付いていたものの、手にも足にも血どころか擦り傷さえ無くなっていた。
何年かして彼女は、水は穢れを払い落とすモノだと知る。神社の手水舎などがその例だった。
もしかしたら堤防から転げ落ちたあの時すでに、彼女は『アチラ』側に居て、あの男は『コチラ』へ返してくれたのかもしれない。
勿論彼女の推測に根拠など無かったが、高校生の夏に起こったあの出来事も夢だとは思えなかった。