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『約束の糸』  作者: wokagura
§ 切れぬ糸 §
9/26

~接近~




 黒いヴェルファイア。その助手席に、萌は緊張した面持ちで腰掛けた。ワイパーが激しく左右する音が、外の雨とともに車内に響く。彼女は恐る恐る声を掛けた。


「ありがとうございます。でもなんで___」

「タメ口でいい」


 思わず隣にいる彼を見ると、やはり冷徹な瞳ままだ。ぶっきら棒だが、それでもくだけた口調になることで、彼女はかなりありのままの彼に近付けたような気分になれた。


「とりあえず、駅前まで行けばいいんだよな?近くなったら方角を教えてくれ」

「わ、わかった」


 アクセルを踏む。中学時代は当たり前にこういった話し方で話していたのに、今こうして話してみると、とても違和感があった。

 校門を出たあたりで、逞真は苦笑いともいえる笑みを浮かべた。


「驚いた?」


 再び彼を見て、コクリと頷く萌。


「話し掛けちゃいけないんだと思ってたもの」

「すまない。突然のことに驚いて、つい避ける様な態度を取ってしまった」


 萌は違和感の原因がわかったような気がした。声変わりの途中だったあの頃の声ではなく、完全に大人のものとなった低めの声だから。そして、タメ口の口調が明らかに昔とは違っていたから。萌は記憶を辿りながら、こんなに堅苦しい話し方だったかな、と疑問に思っていた。

 彼女は何も言えず、ただ首を振った。まるで、つい最近会ったばかりの初対面の相手と話しているようだった。


「でも、学校ではあまり親しく話せないかもしれない。僕は生徒から悪評を受けたあの姿を保たなければならないんだ」

「どうして?」

「・・・色々あって」


 “これ以上踏み込むな”そう言っているように悟った萌は、それからは何も聞かなかった。沈黙が続く。何か明るい話題に切り替えようと、萌は再び口を開いた。


「バスケ、上手いんだね」


 逞真は少しの間考え、はっとしたように萌のことをチラ見した。


「もしかして、今日の観てた?」

「気づかなかった?」

「全然・・・。うわ、急に恥ずかしくなってきた」


 照れた様に頬を赤く染める彼の様子に、心を奪われ、彼女は微笑んだ。今の彼でも、こんな表情見せるんだな、と。


「私感激しちゃった。あんなに見てて楽しかったバスケは初めてだったよ」

「部員をいじめただけだ」

「でも、駿君楽しそうだった」

「ドSだから」


 車内が笑顔に包まれた。萌は彼の新たな一面を感じ取れた気がした。決して、感情の無いロボットみたいな人ではないと、すぐにわかった。創っているだけなんだ、と。続けて逞真は、そうだ、と思い出したように言う。


「ずっと気になってたんだけど、苗字変わったよね。紹介された時、一瞬違和感を感じたよ」

「ああ・・・そうだよね。あの時は相坂だったものね」


 彼女の言い方が、遠い過去を振り返るようで、逞真は少し寂しげになる。自分ではあんなに忘れられなかったあの日々が、彼女の中ではもう思い出になっていると思うと、胸が痛くなった。

 萌が少し戸惑ったように笑う。言われる言葉を覚悟していると、思いもよらぬ発言が返ってきた。


「私の家、あのあと離婚したの。それで母方の苗字に変わったんだ。中3だったかな」

「え、そうなの?」


 彼自身、とても気の抜けた返事を返したな、と思う。思い切り虚を衝かれた感覚だった。赤信号でブレーキをかけると、一気に脱力してハンドルから手を離しかけた。


「結婚してるのかと思ってた」

「え!そんなんじゃないよ。寧ろ、相手がいないっていうか・・・」


 徐々に彼女の声が小さくなっていく。恥じる様子も可愛らしい。逞真は意外だ、と思いながら萌を見詰めていた。あんまり見ないで、辛い、と苦笑しながら顔を背ける萌に、逞真は思わず吹き出してしまった。相当ショックだったのだろうか、彼女の口がポカンと開いている。笑いを堪えながら、彼は謝罪した。


「ごめん・・・だってずっと勘違いしてたもんだから・・・。なんか・・・面白かった今の反応」


 その言葉に萌は拗ねたように口を尖らせた。バッグを抱き締めながら顔を赤らめる様子が逞真の心を擽る。


「全然そういうのないのにさ、経験豊富って思われちゃうんだよね。それで敬遠されちゃって、誰も寄ってこないみたいでさ。なんでかなぁ・・・」


 本気で悩んでいる面持ちだった為、彼は励ましモードに変えた。


「そんな美人だったら、仕方ないよ。元から綺麗な顔立ちだったけど。僕だって緊張したし」


 彼女の心臓がドキッと脈打つ。聞こえていないかチラリと彼を見ると、逆に彼は今の発言を悔やんでいる様子だった。


「ごめん、口走った」


 互いの顔が真っ赤だった。まるで、14年前のあの頃のように。少し続いた沈黙の跡、再び逞真が唇を開いた。


「・・・でも、本当のことだから」

「そっ、そんなこと・・・」


 普段から美人だね、とか可愛いね、とか言われ続けている萌は、そういった部類の褒め言葉の上手い流し方くらいは心得ていた。けれど今回だけは、どうしても流すことができない。彼の言葉が本心だと伝わったからだろう。照れ隠しをするように、萌は逆に訊き返した。


「す、駿君こそ、どうなの?」

「僕?・・・生徒から聞いてるだろう。独身。君と同様、相手もいないよ」

「そ、そっか・・・」

「なんか、悲しいね。こういう話するの」

「ほんと」


 その時、2人はハッとした。会話がスムーズになっている。今までも会っていたようなその感覚。とても懐かしく思えた。やっと戻れた。そう感じた。

 駅前までやってくる。萌は順序良く、右、左、と方角を指示した。


「本当に駅近郊に住んでるんだな」

「うん。職場も近いしね。あ、あれ、私の働いてる会社」


 指さす方に逞真は目を向けた。ヤマハ音楽教室北駅前スクールと書かれた看板が目立つ。彼はしみじみとそれを見ていた。


「ここ、確かうちの生徒も通っていたな」

「北中の子、結構来てくれるよ。私も引っ越すまでここだったの」

「似てるね。昔通っていた場所に、今教える側として勤務してる」

「そうね。なんか変な感じ。たまに同じ頃の自分を思い出すの。私もこうだったな~って」

「僕は、思い出さないようにする毎日だよ」


 わざと明るく言ったその言葉が、萌には深刻に感じた。教師の宿命、それはどんなにいわくつきの学校にだって、強制的に赴任しなければならないこと。北中に赴任したのも、彼の要望ではなく、教育委員会が定めたからである。どんなに辛い過去がそこにあっても、なにもなかったかのようにいなければいけない。

裏を返せば、萌はその分北中の伴奏のオファーを断る選択肢があったはずだ。それなのに彼女は敢えてその中学校の伴奏を了解した。それが逞真にとっては疑問だった。


「萌は、嫌じゃなかったのか?最低最悪な終わり方をした場所なんか___」

「そんなことないよ!」


 突然、萌は荒げた声を出した。思わず顔を窺うと、潤んだ瞳と震える唇が目に入った。


「どうしても行きたかった。理由はわからないけど。・・・平和だね、今の北中。これも駿君のおかげかな?」


 昔と同様、辛く感じることも明るく言ってしまう萌に、逞真は酷く感嘆した。何も言えず黙り込むと、萌が躊躇しながら薄く微笑んだ。


「駿君、ありがとう。もう家に着いちゃった」

「あっ、あそこ?」


 慌てて窓の外を見上げると、小さめだが、かわいらしい暖色のアパートがあった。エンジンを止め、ロックを解除する。


「玄関まで送る」

「え、いいよいいよ。ここまで送ってくれたのに」

「傘ないんだろう?せっかくここまで濡れないで来たのに、意味ないじゃないか」


 そうドアを開けて、自分の持つ傘を広げた。助手席の方へ回ると、ゆっくりとドアを開け、傘を傾ける。


「ごめんね、なんか」

「いや。ここまでしないとこっちの気が済まない」


 そこでも彼の普遍なる優しさを実感した。ちょこんと片方の傘のスペースに収まると、すぐ隣にいる彼を見上げる。


「駿君って、背、大きいんだね」

「そうか?萌は相変わらずだね」

「なによーっ。なんか慣れないな。大人の男の人って感じで」

「なにそれ」


 笑いあいながら進む。一つの傘に入る姿も、お似合いだった。すっと馴染んでいる様子。無感情で玄関まで前進する逞真だが、萌の方は、一歩進むたびにときめきともいえる感覚を感じていた。ふと付き合いたての頃を思い出す。あれは雪の降る時期だったから相合傘はできなかったけれど、もっと早くこうしていたかったな、なんて思いながら、彼の早い足取りに急ぎ足でついていく。


「もっとこっち寄って」


 逞真が萌の肩を抱く。互いが触れ合った時、思わず目が合った。素早く肩の手を離す彼は少し照れくさそうだった。


「・・・濡れるだろう」

「うん」


 27ともあろう大人にしてこの初々しさ。けれど2人はそれを心地よく感じていた。本当にあの頃のままだったのだ。

アパートの玄関まで辿り着くと、萌は丁寧にお辞儀した。


「本当にありがとう、駿君。助かりました」

「こちらこそ、楽しかったよ」


 その流れで逞真は一枚の名刺を差し出した。


「連絡先」


 それだけしか言わなかったが、萌はとても嬉しかった。喜んで受け取り、萌の方も慣れた手つきで名刺入れから自分の物を出す。


「なんか社員同士のやりとりみたいだね」

「そうだな」


 また2人で笑いあう。名残惜しげに逞真は背を向けた。


「見送りはいいからすぐに中入れよ」

「うん。・・・次は今週の土曜日の午前に、お邪魔するから」

「そうか。逢えるといいな」


 そう言い残して逞真は黒のヴェルファイアに乗った。玄関で手を振り続ける萌に、困ったように笑いながら、ゆっくりと出発した。別れ際の彼女の笑顔を味わって。


 その次の土曜日の朝。学校の駐車場に車を停めて、逞真は物思いに耽っていた。今日は彼女が来る日だ、と。合唱部の練習は早いから、もう既に校内に来ているだろうと予想を立てながら、内心、逢えることを楽しみにしていた。彼は午後から部活の指導だ。それまでの間、いつものように残業を済まそうか、音楽室のあたりを覗いてみようか、とそわそわしながら考える。そして、そんな考えに自粛しながら車を降りた。


(冷静になれ。俺はあくまで北中の教員だ。校舎に入った瞬間に、他のことは忘れるんだ。しっかりしろ)


 そう自分に言い聞かせながら、校舎までの道のりを歩く。不意に自転車のタイヤの音と、生徒の叫ぶ声が聞こえた。


 ガシャン


 背後から迫ってきた生徒の自転車。そのタイヤに右のふくらはぎを強打し、逞真は腰から崩れるように倒れた。上に自転車と男子生徒が覆いかぶさる。暫らくの間、意識が朦朧として頭が真っ白になった。先に気づき、起き上がったのは男子生徒。うっすらとした視界の中で、1年生であることが認識できた。慌てて自転車を直し、逞真に何度も声を掛けていた。


「先生!ごめんなさい!ごめんなさい!大丈夫ですか!?しっかりしてください!」


 やっと意識がはっきりしてきて、ゆっくりと体を起き上がらせた。生徒の顔は青ざめていた。恐らく怒られるんじゃないかという恐怖心と、事故を起こしてしまった不安感だろう。逞真は溜息を吐き、生徒のジャージの襟を掴んだ。まるでカツアゲに遭った気分のように生徒の体が強張る。しかし、逞真が彼の襟を掴んだのは、ジャージの襟の色を確認してしっかり学年を把握する為だった。


「・・・1年は自転車点検がまだだったな。その自転車、ブレーキが故障しているぞ」

「すいません!今日乗り始めたばかりで、家でも点検するの忘れてて・・・」

「家は近くなのか。確かに近郊に住んでる生徒の自転車通学許可は昨日からだったな」


 とっくに雪は解けてどの学校も自転車通学が主流となっているというのに、北中は地域によってはこんな初夏から自転車通学を許可している。おかしなシステムだ、としみじみ思いながら再び溜息を吐き、生徒を睨みつける。


「でも気をつけろ。もっと大きな事故にもなりかねない。帰りは自転車を押して帰って、きちんと点検してこい」

「はい!本当にすみませんでした!!」

「行け」


 慌てて駆けていく彼を見詰め、逞真自身も反省した。今までは、こういったことが起きても反射的に気付いて自転車をかわせられたのに。きっと気が緩んでるんだ。自業自得だ、と。

 動きにくい体を起き上がらせようとすると、逞真は顔を顰めた。タイヤに強打した右ふくらはぎと、倒れた時にコンクリートにぶつけた腰が悲鳴を上げていたのだ。深呼吸してゆっくり起き上がり、足を引きずるようにして歩く。


(とりあえず、手当てくらいはしないと駄目だな・・・)


 職員室に入っても、彼の異変に気付く先生方は誰一人いなかった。休日で、来ている先生方が少ないものあるが、彼自身誰かに悟られて大事になるのは面倒だったし、平静を装ってできるだけ普段通りに振る舞ったのだ。大人しく自分の席でデスクワークを熟しながら今日何度目かわからない溜息を吐く。高校時代に大きなけがをして以来のなかなかの痛みだった。ブレーキの利かない猛スピードの自転車と衝突したんだ。当たり前だろう。不意に時計を見ると、もう昼ごろになっていた。部活が始まる前になんとか手当は施しておこう、と保健室へ向かう。


 ゆっくりと階段を降りていくと、上の階からスリッパで歩く音がした。まさかと思い振り返ると、丁度そちらも逞真の姿に足を止めた。目が合う。彼女だ。


「あっ、こんにちは」

「どうも」

 

 約束通りのよそよそしい会話。しかし、この前学校で逢った時より明らかにお互いリラックスしていた。


「これからお帰りですか?お疲れ様です」

「ありがとうございます。駿河先生はこれから部活のご指導を?」

「ええ、まあ」


 会釈をし、再び階段を下ろうとすると、彼女は首を傾げて彼を追いかけた。


「あの、大丈夫ですか?」

「え?何が」

「足・・・ひきずってらっしゃるから」


 ポーカーフェイスで黙る逞真だが、内心とても感激していた。職員は誰一人気づかなかったことを、彼女はすんなりと気にかけてくれたのだ。心配そうに寄り添う彼女に、逞真は苦笑した。


「ご心配なく。大したケガじゃないので」


 そして一段下の階段に足を踏みかけた時、逞真は気が緩んでしまった。痛む右足に思い切り力を入れてしまったのだ。顔が歪んだと思えば、体のバランスが崩れ、気付けば萌のほうへ倒れようとしていた。


「あぶな____」


 萌の声を遮るように壁に両手をつく。手と手の間には萌の顔があった。覆いかぶさるように寄り掛かる逞真と、押潰れそうになる萌はかなりの至近距離にいた。足は交互に絡みあい、胸と胸がくっついている。傍から見れば、とんでもないシチュエーションだった。彼の肩口から顔を出し、チラリとすぐ隣にある横顔を見る萌。


「・・・嘘つき」


 面目なさそうに逞真も目を伏せた。


「すまない」


 腰痛もピークを迎えていた。その時、上の階から足音と話し声が近寄ってきた。恐らく練習終わりの合唱部員か、先生であろう。どちらにしろ、この光景を見られてしまっては色々とまずいと察した2人は、慌てて離れた。尚も顔を歪ませる彼を見て、萌は決心したように彼の腕を肩にかけた。


「何を・・・」

「保健室まで、手伝います」


 意志の強い、真っ直ぐな表情だった。逞真は苦笑しながら、彼女に体を任せつつ歩き始めた。


 保健室には誰もいなかった。その日は土曜日で、養護の先生は来ないことになっている。休日に生徒がケガをした場合は、顧問が手当てをするか帰宅させるかのどちらかを選択するのがルールなのだ。閑静な室内に入り、ソファに座り込むと、彼は手際よく棚の救急用具を使い、足の手当てを始めた。その早さに、萌は驚きを隠せず目を丸くして見ていた。


「流石バスケの先生。手当ても手馴れてるね」

「足は現役時代からよくやらかしてたから。問題は腰なんだよな」


 ほとんど手を施し終えたふくらはぎから腰に目を移す。痛みで腰を捻ることができない様子だった。


「よければ、私が貼ろうか?」


 萌がそう言うと、逞真は心から救われたように笑みを零した。ところどころで見せるそれに、幾度も萌の胸の鼓動は高まる。

緊張したその手で背を向ける彼の服を捲り、白い素肌を露にする。程よく筋肉のついた背中には、青黒い痣が数カ所窺えた。ゆっくりと丁寧に湿布を張っていくと、悶えるように彼の体がうごめいた。


「どうしたの?このケガ」

「転んだ」

「本当に?」


 疑っている様子の萌を背中で感じた逞真は、


「本当に、それだけだから」


 と無理矢理話を押くるめた。が、痣に湿布していく萌はそれだけでは食い下がらず、負けじと言い返す。


「駿君のことだから、誰にも事情を言わないで何もなかったように振る舞ってるんじゃないかなと思って。誰か一人くらい本当のことを言ってもいいと思うけどな」


 彼の抱えてきたことが一気に解放されたようで、逞真は彼女の優しさに感激した。


「はい、おしまい」


 服を腰まで下ろし、萌は手当てした残りの道具を片づけた。その様子を見ながら逞真は立ち上がる。


「ありがとう。少し楽になった」

「よかった」

「これでやっと指導ができるかな」

「無茶しないでね?」

「努力はしてみるよ」

「心配だな~」


 やりとりがまるで恋人の様だ。微笑みあいながら、2人で保健室を出る。そして、廊下の分かれ道で別れた。


「手伝ってくれて、ありがとうございました」

「いえ。ご指導、頑張ってくださいね」


 徐々に徐々に、戻りつつある気持ちと感覚に、逞真と萌の気持ちは揺れ動いていた。


 その晩、逞真は風呂の中で、萌のことを考えていた。あの頃となんら変わりない純潔な彼女。彼女に逢う度に、懐かしいあの想いが胸の底から湧き上がっていく気がしていた。それと同時に、未だ入ることのできないでいる旧1年2組の教室が脳裏に過る。重い瞼をゆっくり上げながら、彼は拳を握りしめた。___今なら、乗り越えられる。あの子と一緒なら・・・。

 強く決心したように湯船から出た。

 洗面所で髪を無造作に拭き、ふと天然パーマの癖が出てきた前髪に触れる。


(髪の矯正もそろそろ切れる頃だな。美容室に行かないと)


 そしてあることに気が付き、髪から手を離した。


(俺は、何のためにストレートパーマなんてかけているんだっけ・・・。ありのままでいいじゃないか、彼女のように・・・・)


 そこまで考えた時、我に返った。今さっき考えた自分の想いに呆れ、嘲笑する。


「はは、ははは・・・馬鹿か、俺は」


 思わず口に出してしまう。のぼせたか?と体を確かめるように見渡し、深呼吸する。そして普段通りの冷徹な瞳に戻した。あの3年を忘れてはいけない、この髪はそのための戒めなんだ。そんな意味深な言葉を心の中で繰り返した。


 翌朝のことだ。職員玄関で靴を履きかえていると、客専用の靴箱にヒールが入っているのに気が付いた。日曜日だし、部活以外で来ている先生方も昨日より少ないのにも関わらず、来客がいるのは珍しいことだった。少し不思議に思いながら職員室まで行くと、その前で立ち尽くしている女性の姿があった。例の来客だと思い、近寄る。


「何かご用ですか?」


 そう声を掛けてみて、逞真は一瞬時が止まったように感じた。振り向いた女性は困ったように笑う。


「今日って合唱部お休みだったんですね。たまたま仕事がオフだったので来てみたんですけど、誰もいなくてびっくりしました。・・・どうかなさいました?」


 逞真はすぐにそれが小鳥遊萌であることに気が付かなかった。仕事の無いせいか、服装がいつもよりお洒落で、髪型も違い、雰囲気もまた違っていたからだろう。唖然と言葉を失いかけていたが、変な沈黙にならない様、彼は慌てて言葉を探した。


「今日は、ほとんどの部活が定休日ですよ。ですから、来ている先生方も少ないんです。僕は仕事のデータを持ち帰り忘れていて、取りに来ました」

「そうだったんですか。はあ、先生が来てくれて安心しました。バスケ部もお休みなんですか?」

「ええ。USBメモリを持ち帰るだけですので、僕も休暇となりますね」


 萌はひらめいたように微笑むと、逞真にねだるような表情を向けた。


「駿河先生、このあと用事とかあります?」

「いえ、特には」

「よければ、学校案内、していただけませんか?今日は伴奏者としてでなく、元北中生として学校を見て回りたいんです」


 逞真はすぐに了解した。北中の卒業生がよく遊びに来て学校案内をすることはよくあった。けれど、自分の同学年に案内するのは初めてのことだったため、新鮮な気持ちで歩き始めた。案内を始める前に、彼は同い年として話すよう彼女に言った。彼自身も、教員としてでなく、元同級生として学校を回りたかったのだ。


「あまり変わってないね、こうやってみると」

「そうだな。でもトイレは新しくなって、音姫がついた」

「最先端だね」


 4階から1階へ徐々に降りていく。懐かしさが強くなっていくことに2人は気付いていた。あの1年間ともに過ごしてきた教室に近付こうとしているのだ。


「あっ、チョコ渡したところ」


 旧特別活動室を萌は指差した。今では1年4組という札がついている。


「今1年生は4クラスだから、通常学級として使われてる」

「みたいだね。何もなくて殺伐としてた教室が、にぎやかになってるもの」

「でも、変わらない教室も、あるんだぞ」

「えっ?」


 逞真はそのまま廊下を突き進み、奥から2番目の教室の前で立ち止まった。札は1年2組、そのままだ。


「ここって・・・」


 萌が彼に振り向くと、思わず目を見張った。彼の拳が、唇が、小刻みに震えていたから。どれだけ彼がこの教室に悩まされたか、すぐに察することができた。すると段々と萌も緊張してくる。


「赴任して2年目でありながら、しっかり入ったことはないんだ、この教室。中学生のときも2、3年は上の教室を使っていたから中1で最後だった」

「じゃあ、駿君も私と同じ入るのは14年ぶりになるんだね」

「・・・入る勇気はあるか?」

「ある。大丈夫。きっとここの教室を見るために今日見学しに来たんだわ」

「わかった。なら、行こう」


 彼は思い切りドアを開け放った。顔を見合わせて頷くと、2人でゆっくりと中に入る。2人は目を見開いた。机の数も、装飾も、壁紙だって違う。なのに、すぐに頭にはあの酷な光景が思い浮かべられるのだ。その隣にある教室とはまるで違う雰囲気。建物そのものが、あの日々を回想させた。


「懐かしい・・・匂いまで、そのままだ」

「他の教室とは全然違うな。何故だろう」


 不意に壁や黒板を見て、逞真は笑ってしまった。壁は傷だらけだ。凹んでもいる。黒板は端の方に削られた跡があった。紛れもなく、彼らの時代につけられたものだ。萌もすぐに気付き、2人して苦笑した。


「これ、絶対に私たちのクラスがつけたものだよね」

「今だから言えることだけど、本当に酷かったんだな、僕たち」

「よくやっていけたよ、お互い」

「でも見て、萌。黒板消しとチョークは置いてある」

「床もちゃんとタイルの色だ」


 腹の底から笑った。あれだけ辛かった日々が、今はただ懐かしくて、それを共有できていることに感動していた。笑い疲れて、窓の外の景色を眺める。空気の入れ替えをすると、心地良く風が教室に入ってきた。サッカー部がボールを蹴る音を聞きながら、萌は尋ねる。


「大変だったよね、2年もこの学校で働いて、この教室でのことを思い出さないようにするの。どうして、今日はここへ来てくれたの?」


 風が前髪を揺らす。彼女は左側の額の傷を隠そうとするのが癖になっていた。このときも手が勝手に前髪の方へ移る。逞真はその手を掴み、彼女の額を露にさせた。


「お前と逢ったあの日、この傷を見せられて、過去を思い出したくない自分がいたんだ。けれど、徐々に話していくうちに、気持ちが変わって・・・・もう、逃げるのはやめようと思ったんだ。向き合いたかったから。過去の事とも、萌とも」


 微笑んでいた。14年前、彼女を勇気づけてくれたあの頃のように、彼は、輝いていた。何も、変わってなどいなかった。気づけば、萌の目からは涙が零れ落ちていた。


「私・・・無意識に考えないようにしてたのかもしれない。貴方のこと、中1の頃のこと。だから、再会しても、そんなに感激できなかったの。駿君は別人の様に振る舞ってたし、なんか、あの日の約束なんてどうでもよかったなんて思っちゃって。でも違ったね。あの頃大好きだったあの人が今ここにいる。変わらずに」


 突然、ふわりと優しい温もりに彼女は包まれた。その腰と後頭部に彼の腕がまわされる。萌は彼の胸元で慌てて涙を拭おうとした。尚も強く抱きすくめられる。


「服、濡れちゃうよ・・・」

「気にするな」


 そして逞真も瞳を潤わせながら、言葉を続ける。


「あの頃より、大分不器用になってしまったけど、約束を忘れてなんていない。逢えてよかったって、心から思ってる」

「うん、私も・・・」


 彼女も彼の背中に手をまわす。暫らくの間、2人は抱き合い続けた。体が離れると、はにかむように笑い合い、また窓の外の景色をみた。

ふと萌は窓際の前から3列目の席に座った。きょとんと逞真が小首を傾げると、萌は“最後の席替えで座ってた場所”と呟いた。彼も机と机の間をくぐり、廊下側の一番後列に腰掛ける。


「僕はこの席からよくお前の横顔を見てたよ」

「こんなに遠くなのに?」

「ああ。全然気にならなかった。それだけ好きだったんだろうな」


 照れくさそうに笑うと、萌は顔を赤らめて俯いた。その様子を窺いながら逞真は教卓の方へ移動する。


「どうした?小鳥遊萌っ」


 ピクリと反応して顔を上げると、今度は頼もしい教員の顔をした彼が教壇に立っていた。


「今の僕は、ここにいることのほうが多い」

「うん、様になってる」


 萌は生徒になったつもりで畏まって腰掛け直した。


「駿河先生の授業、聞いてみたいですねぇ」


 不意を衝いたリクエストに一瞬渋い顔をしたが、彼はよし、とチョークを持った。


「では、これから小鳥遊萌さんに贈る特別授業を行います。教科は勿論、数学です」

「はい」


 おどけた様に返事をする萌はとても可愛らしかった。

 逞真は小さな授業を行った。最大限の実力と、表現力を彼女に魅せつけた。萌は逞真からの出題に、本当の生徒の様に真剣に臨んだ。彼の成長した姿に、見惚れていた。


「私の授業は以上です。ありがとうございました」

「ありがとうございました」


 彼女は満面な笑顔で拍手した。どっと恥ずかしさが湧きあがり、腕で口元を覆いながら目を逸らす彼。


「凄かったなぁ。やっぱり教えるの上手だね!」

「やめて、照れる」

「夢、叶ったね」

「いや、まだまだだ。教師としてはちっぽけな未熟者だから。これからだよ」


 前向きな彼の発言に、萌は微笑んだ。


 最後の学校案内も済み、萌は最寄りのバスで帰っていった。彼は車で送ろうかと提案したのだが、萌は晴れているし、流石に悪いと彼に気を遣い、断ったのだ。それもまた彼女らしかった。彼女はバス停で最後にこうつぶやいていた。


「今日、ここに来れて良かった」





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