その6
うげぇぇぇぇぇ。
思わずもれそうになった乙女――は決してあげないであろうという潰れたヒキガエルじみた悲鳴を押さえ込み、第三騎士団見習い隊員ルディ・アイギルことルディエラは大きな目玉が飛び出るのではないかという程に目を見開いた。
針葉樹の森を抜けて迫りくる数多の騎馬の足音、出会って二月足らずの騎士団厩産愛馬はルディエラを放り出して逃走を図り、せっかく本日の特別訓練のメーンイベセント用にと武器庫から引っ張り出してきた壊れ鎧の鉄板もなく、何より食堂でせしめたゆで卵すらもない。
そんな訳の判らない状態で、更に追い討ちをかけるかの現状にいったいどうしたら良いものかと慌てるルディエラを迎え撃ったのは、三種類の隊服の一団。
見慣れた第三騎士団の隊服のユージン等も後方に数名見ることができるが、主だっているのは四方砦の警備隊の茶色い隊服だ。
ベイゼルが素早く愛馬の手綱を操りルディエラの前に回り込み、示し合わせたかのように灰色狼のカムものしりとルディエラの斜め前で威嚇するかのように身を低くする。
完全にかばわれる形になっていたが、しっかりとばっちりと先頭にいるソレと目線を合わせてしまったルディエラは、冒頭のごとくヒキガエルよろしく微妙な悲鳴をあげ、慌てて両手でもってその口に蓋をしたのだった。
突然の鉢合わせに相手も驚いた様子をみせ、馬の嘶きと足音が地面を蹴りつける。
手綱を引いた先頭の男は誰あろう――西砦の熊男。
否、西砦の熊殺しにしてルディエラの愛する次兄は眉間に皺を刻みつつ、厳しいまなざしでちらりとルディエラをにらんでいたが、すぐに鋭い眼差しを同じく馬上にいるベイゼルへと向けた。
「隊長はどこだ?」
「熊殺しの旦那のオニイチャン?」
馬の足音の勢いに焦りを浮かべていたベイゼルだったが、相手がバゼルだと知るととたんにニヤリと口元を緩めて揶揄するように言う。だが、現在のバゼルには通じないのか、眉間に皺を刻みつけて言葉を変えた。
「第三騎士団隊長ティナンはどこだと聞いている」
低い恫喝にも似た口調に緊張を感じ取ったベイゼルは、珍しく体制を整えて軽く肩をすくめてみせた。
「隊長は現在会議中。
うちの隊のことなら、今は副隊長である俺が全権を任されていますがね」
その全権を任されている立場を悪用し、訓練とは名ばかりで思い切り宴会をしようとしていたとはおくびにも出さない副長さすがです。
ま、その宴会だって鉄板がなくなってしまったので料理の幅が狭まってしまいましたが。
ああ、丸焼きか! 猪の丸焼きっ――一瞬ぱぁっと喜びに包まれてしまったが、果たしてその丸焼きとやらはどれくらいの時間で作成できるのかあやしいところだ。
「で、なんですかい、このものものしい感じ?」
ベイゼルの促しに、バゼルはひとつうなずいた。
「盗賊が他隊に追われてこっちに流れて来た。その途中で村を襲ったようだ。
山狩りに人員が足りない。悪いが第三隊のメンツを割いてほしい。
キリシュエータ殿下への報告はうちの若いのがいっている。
あんたらはそのまま山狩りの――」
簡潔に言葉を操っていたバゼルだが、ふいにぴたりと口を閉ざし、ベイゼルへと向けていたまなざしをその背後でこそこそとしているルディエラへと向けた。
「ルディ。お前は隊舎に戻っていろ」
突然の指名にぴんっと背筋が伸びたが、そのまま告げられた言葉にルディエラは声のトーンを上げて「はい?」と頓狂にいってしまった。
「足手まといは要らない」
物静かに、ただばっさりと言葉を投げつけると、もうルディエラのことはどうでもいいというように視線を戻し、バゼルはベイゼルと顔を突き合わせて会話を再開してしまった。
――足手まとい。
バゼルの言葉がくわんくわんと頭の中で反響し、ルディエラは呆然とバゼルとベイゼルの横顔を見つめてしまうことしかできない。
確かにルディエラは今のところただの見習いだ。だが、そんなあっさりと足手まといだなどと言われるつもりもなければ、認めてしまう気もない。
それでも、その言葉はあまりにも冷たすぎてルディエラの思考を凍りつかせてしまった。
「現状、第三騎士団の面子は散り散りになってますからねぇ」
ベイゼルはぼそぼそと言いながら自らの馬の腹に下げられている皮袋を探ると、中から一丁の短銃を取り出して中に装填されていた弾をつま先ではじきだし、空になった場所に赤い色で印の付けられた弾を装填し、おもむろに空へと打ち上げた。
本来であればパンっという乾いた音がする筈の銃音は、ひゅーっという笛のようなかん高い音を響かせ、白く長い煙と共にまっすぐに打ちあがる。緊急招集用の連絡弾だと心のどこかで思いながら、ルディエラは悲しいのか悔しいのか判らない気持ちでぐっと拳を握り締めた。
そんなルディエラの気持ちを宥めるように、短銃を皮袋に放り込んだベイゼルが、今度は挙手するかのように手をあげ、バゼルの注意を引いた。
「山狩りなら犬がいたほうがいいんじゃないすかね?」
挙手した手を翻し、ベイゼルが親指でルディエラの犬――もとい狼を示す。
ルディエラの一歩前には灰色狼のカムが伏せているが、その耳はぴくぴくと人間の動向をうかがうようにしきりに動く。
犬と呼ばれたことが気に入らないのか、軽く顔をもちあげてギロリと三白眼でもってベイゼルを睨み付けたが、さすがに馬上の相手を噛みに行く気にはならないようだった。
「犬――ああ、それはありがたい」
「ですが、生憎とこいつは飼い主の言うことしか聞かないんすよ。な、アイギル?」
カムへと向けた視線が悪戯に加担するかのようにルディエラへと向けられ、同意を求めるその一言に、ルディエラは拳を握りこんでぱっと勢いをつけた。
「そうっ、そうですっ。
カムはぼくの言うことしかきかないから。ぼくが一緒にいかないと」
――ぱぁっと気持ちが浮き足立った。
足手まといなどといわれたが、カムに命令することができるのは訓練士以外では自分だけだ。
盗賊の山狩りと言えば多少怯むような気持ちもあるが、もともと騎士になりたかったのだから、そんなことで怖気ている場合ではない。
何より、この騎士団見習いとしての残り時間も僅かとなった今、何かしらの手柄をたてればティナンだとてそう簡単にルディエラの騎士昇格について無碍にはできないのではないだろうか。
いったんそう思えば、途端にルディエラは自分の未来がぱあぁっと明るく開けていけるような気持ちを味わった。
午前中に「とうもろこしの髭なんて大嫌い」などと第三王子殿下キリシュエータに対して思い切りまずいことを言ってしまったことなど、完全に忘却の彼方へと押しやり。
「ルディエラっ」
膨らんだ気持ちが、途端にぐしゃりと握りつぶされた。
更に目を見開き、馬上のバゼルを見返す。
鋭い叱責のような口調で妹の名前を口にした兄は、その場に他の面々がいることなど百も承知で言葉を続けた。
「いい加減にしろ。
遊びじゃないんだぞっ。
どうして山狩りをしていると思う?
町が襲われて女供が連れ去られているんだ。人質として奪われたのか誘拐なのか、それ以外の目的なのかも定かじゃない。今わかっていることは、時間を重ねれば重ねるだけ女達の身が危険にさらされている。
女子供の出る幕じゃないっ。お前はさっさと隊舎に帰れっ」
鋭い罵声を一気に浴びせたバゼルだったが、硬直して食い入るように自分を見返してくるルディエラが、今にも泣きそうな顔をしていることに慌てた様子で馬からおりると、オロオロとルディエラに近づき、幼い子供でもあやすかのように身を低くして声をやわらかくした。
「怒った訳じゃないぞ。
ただただ兄ちゃんは心配なだけなんだ。
ルディ、ルディエラ。いつまでも男の子のようにふるまっていてはだめだ。
兄ちゃんは可愛い妹のおまえが怪我でもしたらと思うと――」
「兄さま……」
今にもぐしゃりと崩れて泣きだしてしまいそうな顔で、ゆるゆると首をふるルディエラの口からかすれるような音が漏れ、まるで救いを求めるように幾度も兄を呼んだ。
「兄、さま――兄さま」
「うん?」
「大っっっっっっきらいっ」
ルディエラは憎しみの篭った口調で言い捨てると、思い切り油断しきっているバゼルの急所に蹴りを入れた挙句「カムっ、噛みつけっ」と命じ、急所を蹴られた挙句に足を噛まれるという大惨事にうずくまってうめいているバゼルを尻目に素早くバゼルの愛馬の手綱を掴むと、跨った。
「今度ぼくのことを女だから足手まといだなんてばかにしたら。
兄さまの大好きなフリフリのドレス全部焼いてやるからっ。
兄さまの寝台が総レースのドピンクだってばらしてやるからっ。
兄さまの趣味がお裁縫だってばらしてやるからーっっっ」
未だ怒りが収まらないというように続けざまに叫んだが、言われたバゼルは股間を押さえて悶絶するのみ。
それを見てルディエラは開き直ったようにベイゼルへと視線を向けた。
「何か問題ありますか?」
「いえ……ありません」
あまりの出来事にその場にいた全員が言葉を失い、たった今耳にしてしまった見習い隊員とバゼルとの会話に言及するよりも、遠慮会釈なく股間を蹴られたバゼルの身を心配しつつ、自らの股間を守るかのように両手でしっかりと押さえてしまった。
「……ひゅんっ、今、ひゅんって、した……」
真っ青になりつつ誰かが呟いた言葉は電波し、その場の男達は賛同するかのように、こくこくとうなずくことしかできなかった。
***
――大嫌い。
――トオモロコシの髭なんて大っ嫌い。
ふ、ふふふふふ。
頭の中を木霊する言葉に、第三王子殿下キリシュエータは不気味な笑いを薄い唇の間から漏らしつつ、思い切り肩をふるわせた。
な・ぜ。
な・に・ゆ・え・に――あのような暴言を吐かれなければいけないのか。
自分はあくまでも親切心でもってあのような提案をしたというのに、それは確かに――多少の下心というか、なにかしらの見返りのようなものを期待しなかった訳ではない。
騎士にしてやるという言葉に、満面の笑みを向けてくれるとか、喜びのあまり抱きついてくるかもなどという気持ちが少しも無かった、とは言わない。
だがそれどころか、あのにんじん娘ときた日には、礼ひとつ言う訳でもなく、逆に大嫌いときたものだ。
「なんというっ」
なんという無礼な娘であろうか。
この自分が。
第三王子殿下である自分がこれほどまでに温情をかけているというのに。
「ティナンっ」
丁度かつかつと意思表示をするかのように足音をたててやってきた副官を認め、キリシュエータは力強く名を呼んだ。
「私はにんじんなど大っ嫌いだからなっ」
「知っておりますが。料理人もいろいろと苦心していると」
「誰がにんじんの話をしているっ」
「殿下が」
冷ややかな口調で言いながら、ティナンはわざとらしく両足の踵をそろえた。
そっと落ちた嘆息と眼差しは、キリシュエータが何を言わんとしているのかを十分に理解していたが、あえてそれを口にはしなかった。
「殿下」
「……なんだ」
なんとなく居心地の悪い気持ちになり、キリシュエータは自然と顔をふいっとそらしてしまった。
とっさのこととは言え、口にするようなことではなかった。
しかも相手はティナンだ。にんじん娘――ルディエラの兄の。
更に言えば、あのルディエラを溺愛している兄。
「会議室の用意が整ってございます」
「あ、ああ……」
「その前に、お尋ねしたいことがございます」
ティナンは静かに言うと、ひたりとその眼差しをキリシュエータの眼差しにあわせてきた。その真摯な力にぐっと息がつまる。
我知らず一歩、退く程の。
「クインザムとルークが来ておりますが――殿下。
本日の会議の議題というのは、いったい何なのでございますか? 今まで私のことをあえて排除してきたその意味をお聞かせ下さい」
「ティナン……」
「もし、ここで殿下の口からそれをお聞かせ願えないというのであれば、私は副官として殿下の信頼を得ることも適わず、その傍らに立つに値しない存在と存じます。
――剣をお返し頂く覚悟もございます」
淡々と、ただ静かに淡々と告げるティナンを前に、キリシュエータはぐっと唇を引き結んだ。
剣を返す。
捧げた剣を返す――それが示す覚悟に愕然とし、キリシュエータは詰めた息をゆっくりと吐き出した。
「……ルークには、私の妹のことについて調べさせた」
苦痛を搾り出すかのように吐き出された言葉に、ティナンはそれまでの頑な態度を緩めて眉間に皺を刻んだ。
「妹、姫……?」
言われた言葉の意味が掴めずに、戸惑いに眼差しが揺れた。
意外なことを言われたという思いと同時、先ほどティナンが遭遇したルークが発した言葉が脳裏によぎる。
――ぼくたちがここにいるのは、政事の話だ。
それ以上のことを問いかけようとしたのだが、クインザムにさえぎられてしまったのだ。
「さっさとお前の主を呼んで来い」と。
「なぜ、妹姫のことをお調べになることを私にお隠しなさるのですか」
正直な気持ちをぶつければ、キリシュエータは少しばかりうつむくようにして拳を握りこんだ。
「……私は妹のことを知らない。
産まれてすぐに命を落としたとしか知らされていなかった。公示されることもなく、慣例に従い名前すらつけられていない妹だ。
私は今まで、本当に、ほんの少しも気にかけていなかった」
墓はある。
だが、その墓を参ったことすら片手で足りるだろう。
――命日があろうと、それを口にするものもいなかった。
まるではじめからその存在すらなかったかのように。
それにたいして疑問を持つことも無かった。
なぜなら、父王がそのように定めていた為だ。
それは、父王の深い悲しみがそうさせるのであろうと――漠然と思うだけで何の感慨もなかった。
一旦閉ざした口。
乾いた唇を湿らせるようにそっと舌先で舐めて、キリシュエータは腹にずしりとくるものをねじ伏せて、心持そらしていた視線をあげてティナンをしっかりと見返した。
「お前の妹が――私の本当の妹かもしれない」
ゆっくりと、確かに告げた言葉を耳にしたティナンの瞳は、すぅっと瞳孔を開き、その言葉の意味を理解すると引きつったような笑いを落とした。
「ご冗談を」
「冗談でこんなことを言うか。
死んだとされた姫が、ルディエラだと言う者がいる」
「馬鹿なことを言わないでくださいっ」
焦りをみせるティナンに、キリシュエータは何故かやたらと冷静さを取り戻し、ただ淡々と口を開いた。
「言っているのは皇太子フィブリスタだ」
あえてそのフィブリスタが父親だの何だという戯言は口にせず、ただ淡々と。
「兄の話では、真実死んだのは乳母であるミセリアの産み落とした赤子だと。その後どういう経緯かは知らないが、愛妾カーロッタの産み落とした赤ん坊はミセリアの手元に託されたと」
言葉にすると、それが真実なのだと自分の内で染み渡る。
そして、キリシュエータは笑い出してしまいたくなった。
何故、ティナンに告げているのか。
何故、そんな気持ちになったのか。
想像は幾度かしたが、それでも決して口にする気になどなれはしなかったというのに。
――自分とルディエラには血のつながりがあると、それはすなわち、ティナンとルディエラにはないのだと。
大嫌いだと言われて、大嫌いになったからか?
いいや、そんなことはない。
――嫌いになれればどんなにいいか。
嫌いに……
乾いた笑いが、口から漏れた。
笑い出した主の前で、ティナンは動揺にゆるく首をふる。
「嘘ですよ――どうして、そんな嘘を」
「こんなことを嘘や冗談で口にするものかっ」
笑いは滑稽な程大きくなり、やがて腹に手をあててキリシュエータは耐え難いというようにくるりと身を翻し、そこにある机に片手をあずけて体を支えた。
「嘘に決まっている。
ルディエラはっ、私の、この私の妹ですっ」
怒るように言うティナンの言葉を背に受けながら、キリシュエータは堪えきれない笑いを必死に押さえ込むように片手で口元を覆い隠した。
幾度か想像したのとは違い、ティナンの発言は憤りに満ちていた。
そこに一片のふざけた雰囲気など見せず、ただ家族を侮辱されたかのように。
「いくら殿下といえど、言っていいことと悪いことがございます」
想像とは違い、喜ぶどころか真実怒りをみせるティナンは鋭く言い放つと乱暴な足音をさせてその場から退出しようとした。
だが、本来の役割を思い出すように苦渋に満ちた声を落とす。
「会議の準備は整ってございます。
どうぞ、おいで下さい」
「すぐに行く――お前も、同席するといい」
お互いに背を向けたまま言い合う言葉に、肩が、声が震えた。
「勿論。お待ちしております」
遠ざかる気配に、相変わらず肩を震わせて歪んだ表情を押し下げて。
押さえ込んでいた唇から、言葉が零れ落ちていく。
感情の高ぶりがそのまま大気に溶けるように振りまかれ、やがて喉に何かを詰められたかのように苦痛に転じた。
気づかれたくは無かった。
漏れ出でるのが笑いではなく嗚咽であることに。
滲んだ涙が、頬を伝い落ちたことに。
……自分自身にすら。
遠ざかった筈の気配がかつりと足音をさせ、がばりと身を翻す。
づかづかと無遠慮に近づく気配に、慌てて手の甲で滲んだものを拭い去り、振り返るとティナンは主に向けて無礼にも思い切り指を突きつけた。
「殿下っ、恋愛的な意味でルディが好きなのかとおもっていたら、実は妹が欲しくなったのですね!
ぼくと妹の麗しい兄妹愛に羨望の気持ちを抱いたとしても、ルディはあげませんからっ」
……まず、おまえ等二人のどこをどう見たら麗しい兄妹愛に羨望できるのかちょっと説明してみろ。