その3
腹の底が一瞬にして冷えた。
その感覚は鋭い刃の切っ先を向けられたに等しく感じられて、喉の奥が干上がる。
――我が君。
そう敬うように言うくせに、まるでそれは決して許さないという命令のようだ。
誰が主か。
ぐっと奥歯を噛み締めて、キリシュエータは一旦その瞼を伏せた。
覚悟という単語がずぐりと腹でうごめく。それはどういう覚悟なのか。
「ティナン」
「はい」
「――」
お前の妹は、私の姪かもしれない。
――お前と血は繫がらず、私と血が繫がっているのだと。
血のつながりが無いという言葉に、ティナンの勢いはゆるゆると衰え、まるで迷い子のようにその瞳が胡乱な色を乗せ、さまよった。
「嘘、ですよ」
「――」
「殿下、何故そのようなことをおっしゃるのですか?
いったいどうしてそのような……突然、嘘ですよね?」
血の気の引いた顔に戸惑いを浮かべ、ティナンは乾いた笑いを浮かべてゆるりと首を振った。
「あの子は、私の妹です。
私の――」
「気持ちは判る。だが」
「小さな頃から、ずっと見守って来たんですよ?
兄さまって、兄さまって、ずっとあの子は――」
その動揺に思わず手を伸ばすと、ぱしりとティナンが両手でキリシュエータの手にすがりついた。
「ぼくと血が繫がってないなんてっ」
「おちつけ、きちんと説明を」
「だったらあんなこともこんなこともできちゃうじゃないですかーっっっっ」
――という想像がすぐに頭をよぎったのは言うまでもない。
「我が君っ」
更に言葉を重ねて真摯な口調で突きつけてくるティナンを、ふっと鼻で笑ってキリシュエータは冷たく言い放った。
「我が君と私を呼ぶのであれば、私のやることに口を出すな」
――どうしてこいつを喜ばしてやらねばならん。
キリシュエータがふんっと横をむいて頑なさを示せば、ティナンは眉間に皺を刻んでそれ以上の言葉を失った。
***
――厳重注意を受けました。
ルディエラは腹の内の酸素を全て吐き出すかのように嘆息すると、恨めしい眼差しで灰色狼のカムをねめつけた。
犬舎の訓練士から、管理をもうちょっと真面目にするようにとこっぴどく叱られたのだ。
カムは訓練士の言うことをちょっとだけきくようになっているが、あくまでもルディエラを主人、もしくは群れの主であると思っているらしく、そのへんに放置すると他の人間にはなかなか捕まえることはできない厄介さを持っている。
昨日そんなカムを散歩に連れ出し、ちょっとしたアクシデントからそのまま放置してしまった為に犬舎はカムを捕まえるのに大分時間をとられ、通常勤務に支障をきたしたのだと言う。
「クロレル副長が手をかして下さったからなんとかなったものの、もともとこんな厄介なものを持ち込んだ責任をとってきちんと管理して下さい」とこんこんと説教を垂れられてしまった。
相手は犬の訓練士なのだから、そちらがきっちり管理しろと言いたいが、押し付けた感が強い為にオトナであるルディエラはぐっと言葉を堪えた。
そのかわりカムを相手にしっかり愚痴る。
「おまえね、働かざるもの食うべからずだよ? ぼくだって家にちゃんと下宿代を収めているんだからさ。
おまえだって、せめて訓練士さんの言うことくらいはちゃんと聞かないと」
顔を突き合わせて切々と言ってみたが、果たしてカムに通じているのかどうか。
「狼相手に何を言ってるんです?」
呆れたな口調が耳に入り込み、しゃがんでいたルディエラはふいっと顔をあげた。誰かが近づいているのは気付いていた。ぴくぴくとカムが反応をしていたから相手が気配を殺して近づいていたとしても判る――更に、カムが身を伏せて威嚇音を発しないことからそれが自分にとって害の無い存在であることも判っていた。
「セイム」
声に出して名前を呼び、ふとなんだか最近見ていなかったと思い出す。いつからだったかとふと頭に浮かんだが、とりあえず前回着替えやら何やらをもってきたのはマーティアだったなぁとしか思い出せなかった。
セイムはなんだかぎこちない笑みを浮かべ、軽く持参した手荷物をかかげて見せた。
「着替えと姉さんからの差し入れ」
「やった。アップルパイ? それともプティング?」
ぱっと喜色にまみれた表情で荷物に飛びつくルディエラの後頭部を眺め、セイムは苦笑してそっと首を振った。
――前回、少しばかりルディエラをなかなか褒められた態度ではなく脅しつけてしまったという思いからあえて距離を置いていたのだが……
「ルディ様」
「ん、何?」
嬉しそうに荷物の包みを解き、中から焼き菓子を引っ張り出してそうそうに口に放り込む女主を眺め、セイムはわざとらしい程ふかぶかとした溜息を落とした。
前回、ちょっとした悪戯心にしどろもどろになって慌ててセイムから逃げたルディエラの姿に、少しは女の子として何かが芽生えたのではあるまいかなどと思ったものだが。
「何でもありません」
「一個だけならあげるけど、一個だけだからね。
そもそもセイムはマーティアと一緒にいるんだから、帰ってから一杯食べれるでしょうに」
不満そうに言いつつも菓子を一つ差し出すルディエラに、セイムは更に溜息を落として、ついで何故か声をたてて笑い出した。
「ちょっ、何?」
「いや、うん。ルディ様は相変わらずルディ様ですよね」
「だから何なのっ」
顔をしかめたルディエラの頭にぽんっと気安く手をのせようとした途端――すいっとその頭は避けた。
不自然にセイムの手が宙に浮き、それに気まずさを感じるようにルディエラが下から顔を赤らめて睨めつけてくる。
「なにっ」
菓子を片手に更に噛み付くように言われ、セイムは一瞬素の顔になり、やはりまた笑い出してしまった。
「いえいえ、なんだ、ちゃんと成長しているじゃないですか」
「――また馬鹿にして。ぼくだってちゃんと身長伸びてるよ。セイムはもう身長とまってるでしょ。あっという間に追い抜くからね」
「楽しみにしています。
そうだ、賭けますか? オレより身長伸びるかどうか」
「いいよ!
そうやって馬鹿にしているのも今のうちだからね。ぼくのほうがすぐに大きくなって、セイムの頭ぐりぐりなでてやるから」
少し意地になって顔を赤らめながら食いつく女主を目を細めて眺めながら、セイムは心の中で呟いた。
――はい、まいどあり。
***
ぱたりと扉の閉じる音が響く寸前「へーい」と返答だけを残した第三騎士団副長であるベイゼル・エージはがしがしと自らの頭を乱暴にかいた。
午後の訓練についての注意と、午後は何だか突然の会議だとかで後のことは全て任せると面倒くさいことまで言われてしまった。何があろうとも邪魔するなと。
その言葉を言ったティナンはといえば、どうも不機嫌そうにしていたが、なんといっても触らぬ神に祟りなしだ。
――なんとなく、彼等の主である第三王子殿下キリシュエータすらぴりぴりとした空気を纏っていたような気もするが、喧嘩でもしたのかもしれない。
珍しいことだ。
キリシュエータとティナンと言えば、士官学校の頃から大きな喧嘩もなく過ごし、ある程度の年齢になるとティナンはそれとなくキリシュエータの副官になる為の特別な訓練を一人受けるに至った。
それを陰で親の七光りだ何だのと言う人間達はいたし、実際にその年齢から疑惑じたいはぬぐわれていない。
とにかく、ベイゼルが知る限りキリシュエータの背後にはいつでもティナンが控えていたものだ。
騎士団顧問のエリックの息子。
現陛下の覚えもめでたく、個人的に会話も親しむというエリックは騎士でも爵位持ちでもないがこの国で大きな存在であることは否めない。
七光りだの何だのと世間はわずらわしいが、当人達は歯牙にもかけぬ。いや、むしろ気にかけているからこそエリックの息子達は誰一人落ちこぼれることなく優秀なのか。
今となっては、息子達に比べるとエリックは見劣りしてしまうのではあるまいか。
――あの父親ときたら、はたから見たらただの筋肉達磨以外の何者でもない。
ああ、どう考えても優秀とはほど遠いのも一人いるが。
いや、優秀は優秀なのであろうが、どうも斜めにいっているのが。
「午後の訓練……面倒くせぇなぁ」
ベイゼルはぼやきながら顔をしかめた。
昨日は馬だった。その前は槍。
いつだったかの訓練のように半日敷地内を延々と走らせ続けようか――これだとベイゼルは悠々自適に馬柵にでももたれて眺めていればいいので楽だ。だがこの訓練は実に受けが良くない。何よりベイゼルが公然とさぼっているように見えてしまうのはいただけない。
ティナンがいないのだからある程度は手を抜きたいが、はたから見てさぼっているとおもわれるのは心外だ。
そういえば、ティナン隊長は念を押すように「私が居ないからと見習いを甘やかさないように」と言葉を付け足していた。
甘やかすも何も、午前中の訓練でめちゃくちゃ可愛い妹を痣だらけにしておいてよく言う。
――ちなみに、ティナンがじきじきにルディエラを訓練の相手に指名する時は組み手が多いのだが、一応模造剣で怪我をさせないようにという配慮なのだろうか。
ただし、思い切り投げるし、容赦なく潰すが。
「午前中が組み手だからなー、もっと楽なのがいいよな、真面目に」
馬具の手入れとか、昼寝とか、もういっそのこと飯盒炊飯とか。
山でも行くか山。
今頃なら旨いきのこでも拾えるだろう。どんな逆境でも食い物を確保するのは大事な訓練といえる。そう、これは生きる為の怖ろしい訓練だ。
すでに頭の中は楽しい遠足状態になったベイゼルだ。
鼻歌交じりで廊下を歩み、馬房の裏手で家人と楽しげに菓子を食べているルディエラを見つけると、ベイゼルは鼻白む様子で眉を潜めた。
「おーい」
「あっ、副長っ。そろそろ昼休み終わりですか?」
「お前はちゃんと犬舎の呼び出し行ったんだろうな?」
「行きましたよ。こってりしぼられましたっ」
多少距離がある為に口元に手を当てて話す相手の背後、ぱっと名前も浮かばないが、ルディ・アイギルの家の使用人である青年は訳知り顔のすかした表情で一度軽く頭を下げた。
「ルディ様、オレもう行きますからね」
「うん。ありがとうセイム。マーティアによろしく。あ、今度はアプリコットのジャムをたっぷり使ったタルトがいいなって言っておいて」
「オレもよろしくー」
思わず便乗してベイゼルが言えば、セイムは一度ぎょっとしたような表情を浮かべたが、すぐに口元に薄い笑みをはりつけて「判りました。いつもうちのルディ様がお世話になっていますから、とっておきのをオレが焼いてきますね」と一礼し、何事かをぼそぼそと主に告げてそのまま背を向けた。
「何だって?」
よっと、と勢いをつけて廊下の窓枠から身を躍らせると、悪戯を隠す子鬼の顔で小娘は鼻をふくらませた。
「セイム、あまりお菓子作ってくれないけど作ると凄く美味しいですよ。楽しみにしていてくださいね」
「おう」
――無理矢理こいつの口に押し込もう。
おそらく、何かろくでもない菓子を持参されるに違いない。苦いとか辛いとか脳が腐りそうな程甘いとか。
ルディエラは残っていた焼き菓子を一切れベイゼルに手渡し、もう一切れをカムに示した。
「伏せ――待て」
狼の矜持などものともせずにカムは主の言葉にしっかりと身を伏せ、鼻頭に乗せられた菓子をじっと睨んで耐えた。
「よし」
その一言にがばりと口が開いて鼻面を動かし、次の瞬間にはその菓子は綺麗さっぱり姿を消した。
かふかふと口が動いているのでしっかりとその口の中に入り込んだのであろうが、あまりの早業にベイゼルは「へんな曲芸教えるなよ」と思わずぼやいてしまった。
ついで、自分もやってみようかと受け取った菓子を小さくちぎってつまみ、ルディエラと同じように「カム、伏せろ」と命じたのだが、言葉より先にカムはがばりと大きな口をあけ、あやうくベイゼルの手は菓子ごとがぶりとかじられそうになり、慌ててその手を引っ込める羽目に陥った。
「うぎゃあっ」
「危険な遊びはやめたほうがいいですよ」
呆れた口調のルディエラを不本意そうに睨み返し、ベイゼルは唇を尖らせた。
「ああ、そういえば――おまえさん、第二隊のフォードと何かあったんか? なんだかやたら今朝気にしていたろ」
「だから、フィルドさんですって」
カムのこともそうだが、フィルドのこともベイゼルはわざと言い間違えている節がある。ルディエラは律儀に訂正しつつ「別に気にしていた訳じゃないですけど……なんだか寝込んでいるらしいですね」今朝、食堂に顔を出さなかったフィルドを思い出し、我知らず視線を泳がせた。
もともと少しばかり顔を合わせるのは気まずい思いがあったのだが、当のフィルドは食堂に顔を出さなかった。少しばかり拍子抜けしてきょろきょろとフィルドを探したのがベイゼルの目についたのだろう。
クロレルもなかなか食堂に顔を出さず、やっと来たクロレルにフィルドのことを尋ねるとクロレルは苦笑しながら「どうやら熱があるようでね。あまり気にしなくて良いよ」と穏やかに応えてくれた。
あの後――一日ほぼ避けてしまったのでその後の動向はちっとも判らなかったのだが、もしかしたら朝の時点で熱があったのかもしれない。あれは熱ボケってことで処理されていれば良いのだが。
ルディエラ自身、フィルドの名誉の為にも綺麗さっぱりと忘れて上げられるのだけれど、当人が引きずっていると厄介だ。
まだ何か問いたげにしているベイゼルを黙らせるように、ルディエラはぱっと表情を変えた。
「そんなことより、午後の訓練ってどうなっているんですか?」
午前中の訓練ではティナンからこってりとしぼられて、実は今も訓練中に作った打撲やら擦り傷やらが小さな痛みを発している。
残るところ数日、厳しくされるのは覚悟しているが――できれば体にもうちょっと優しい訓練だといいなと淡い期待を抱いてみた。
その言葉にベイゼルは午後の訓練を思い出したらしく、崩れた焼き菓子を口の中に放り込んでニヤリと口元を緩めた。
「山。山行こう、山。
遠駆けは楽しいぞぉ」