その4
ほぅっと満ち足りた吐息が口から零れ落ちた。
やっぱり朝食は大事だ。
朝からたっぷりとチキンと固ゆでたまごを平らげたルディエラは、差し出されたカップをありがたく受け取り、中の湯をふーふーと少々冷まして口にする。
昨日は時間が無いからと大慌てで朝食をかっこんだ為に味も判らなかったし、大好物の固ゆでたまごなど一つしか食べられなかった。
固ゆでたまごは大事な筋肉の元である。
毎日の腹筋、腕立て、脂身を削り取ったチキンに固ゆでたまごはルディエラにとってかかせぬ大事なアイテムだ。
――ただし、何が悪いのかあまり筋肉の発達に役に立っていないような気はしているが。
よけいな脂肪分がないのだから、もうちょっと筋肉がついてもおかしくないのに。
もしかしたらむしろちょっとは脂肪分を蓄えるべきなのかもしれない。腹筋の鍛え方が足らないのか。ああ、こういった楽しい会話をぜひともアラスター隊長と繰り広げたいというのに、アラスター隊長は第二騎士団の隊長――そして自分は現在第三騎士団のしがない見習いである。
接点の少なさに溜息しかでてこない。
父親であるエリックに筋肉の秘密を聞いたこともあったが、父はあまりにも簡潔であった。
「毎日鍛えろ」
どうやら父の脳みそもすでに筋肉に変換されていた。
「ご馳走様でした」
ルディエラは朝食を食べ終え、食後の感謝を口にした。
何故か毎度毎度ゆで卵の殻をむいてくれるフィルド・バネットは「おそまつさま」と応えるが、別にフィルドが作ったご飯ではないだろうとルディエラは毎度内心で思っていたが、先輩としての敬いであえてそこは無視している。
「で、昨日熊殺しはどうしたんだ?」
「ちょっと昔話をしたら帰っていきましたよ」
実際は帰ったかどうかは知らないが、おそらく――アレ以上の手出しはして来ないだろう。
それにしても、バゼル兄さまときたら情けない。まさか「嫌いになるから」などという子供の頃のたわごとのような台詞が未だに効くとは思わなかった。
クインザム兄さまに同じ台詞を向けたところで淡い微笑をこぼして「それはいやだな」程度でさらりと流してしまうであろうし、ティナン兄さまなんて鼻で笑われてしまうだろう。
いや……鼻で笑ってすませてくれるだけならいいほうかもしれないけれど。
ただいま絶賛鬼隊長であるティナンを思い、ルディエラは両手でカップをささげ持ちながらぶるりと身震いをした。
ティナンの傍若無人に対して「嫌いになるから」などと言ったところで、きっとクインザム以上に通用しないことだろう。むしろルディエラに対する態度がもっと酷くなるのではあるまいか。
「お好きになさい」と冷ややかに返された挙句、剣術指南などの名目で当たりが更に酷くなるような気がするのだ。
――ティナン兄さまってば、こわっ。
「あれ、そういえばフィルドさん今日はゆっくりですね」
「今日はリルシェイラ殿下の担当は二班だから」
第二騎士団は全部で三班に別れていて、日によって勤務状態が変わってゆく。もちろん、第二王子殿下リルシェイラの護衛担当は必然的にリルシェイラとかくれんぼをする羽目に陥る確率が高い。
毎日ではないのがミソだが。
「そういえば、リルシェイラ殿下が今度正餐にお前を誘おうかって言っていた」
「勤務時間外ならお付き合いしますって伝えておいてください」
わりと仲良しな二人である。
「それと」
フィルドは手持ちぶたさなようでテーブルに置かれている籠の中のゆで卵に更に手を伸ばした。
「今夜あたり飲みに行くか?」
自動固ゆで卵むき機と化したフィルドが三個目のゆで卵の殻をぷりんっと綺麗にむくと、当然のようにルディエラに手渡してくる。ルディエラはありがたくそれを受け取り、食べ終わった食事のプレートを持ち上げた
「嬉しいですけど、お酒は禁止されているから飲めないんですよ」
嫌いではないが、どうも自分は酒癖がよろしくないらしい。
一度一緒に飲んだ人間からは、たいてい「飲むな」ときつく言われてしまうのだ。今は騎士団を統括している第三王子殿下キリシュエータに「飲むな」と厳命されている為、たとえ仲の良いフィルドと一緒でも飲むことは適わない。
うっかり飲んで何かやらかしたことが原因で騎士団見習いを剥奪などされてはたまらない。
もう――そもそも残りの日数も少ないのだから。
「なんだ、奢ってやろうかと思ったのに」
奢りという言葉にそれでもぴくんっと反応する。
タダ程恐いものは無いなどと言うが、フィルドはセンパイだからちょっとくらい甘えても良いだろう。
――ルディエラは誰よりも自分にとっても甘い。
「【アビヨンの絶叫】の牛タンの煮込みだったら食べられます」
「じゃあそれで決まりだな」
フィルドの手がルディエラの頭に伸びて、くしゃりと髪をかきあげる寸前――もう大丈夫だと判っていても、ルディエラは咄嗟にひょこりとその手を避けた。
「じゃ、ぼく行きますね」
――そそくさと逃げるように食事プレートを手に身を翻してしまったルディエラだ。
昨日、ベイゼル副長に触っても抱きついても大丈夫だったのだから、もうあの奇妙な感覚は完治したものと思ってはいるのだが……なんとなく、そう、なんとなく避けてしまう。きちんと体制を整えて何度か試しに他の人と接触を図っておいたほうがいいのかもしれない。
「なんだかなー」
プレートを返却し、ルディエラは嘆息を落とした。
時計を見れば点呼まではもう少し――昨日はこの時間に食堂に走りこみ、大慌てで食事を腹の奥に詰め込んで中庭へと出たのだが、ルディエラは拍子抜けする羽目に陥ってしまった。
第三王子殿下キリシュエータはおろか、第三騎士団隊長ティナンすら姿を現さなかった。
遅刻気味にほとほとと歩いてやってきたベイゼルが点呼と確認とをすませ、いつもながらの適当さで訓練を割り振ると解散させてしまったのだ。
――かえすがえすも悔やまれる。
昨日の朝食……遅刻しても大丈夫だったのだから、もう少し食べておくべきだった。
せめて固ゆで卵をもう一つ。
ルディエラはただいま絶賛成長期なのだから。
***
「俺……書類処理嫌いなんですが」
第三王子殿下キリシュエータの執務室、その前室にて机に向かわされているベイゼルは予算計算に嘆息していた。
明らかに八つ当たりを受けている。不当な扱いと言っていいだろう。
だが文句は言えない――何故なら、ティナンが不機嫌であるのだから。
昨日、あのどうにも居たたまれない空気を払拭させたのはティナンであった。否、もっと酷い地点に突き落としたと言っても過言ではなかったが。
第三王子殿下キリシュエータの失言に、キリシュエータ自身固まり、ベイゼルも言葉を失っている状態でティナンはやけに綺麗な微笑を浮かべて見せた。
「殿下――我が君」
挙句、あまり普段でも耳にしない言葉がベイゼルの耳に掠める。
聞いたことが無いなどとは言わないが、これほどまでにうそ臭い「我が君」を耳にしたのは初めてのことであったろう。
尊敬も何もあったものではない。
「まさか、うちの子相手に――邪なことを考えてくれちゃっていたり致しますか?」
「……ティナン?」
「まさか、妄想の中でもあんなことやこんなことしちゃってなんかしていたりしませんよね?」
「ばっ、誰がそんなことをするかっ」
あまりの言い様にがばりと身を翻してティナンに対したキリシュエータは憤りのままに応えたが、相手は相変わらずの微笑魔人と化したまま、さらに口元をほころばせた。
「そんなことって、何ですか?」
「いや、あの……してない、デス」
「あんなことって、まさかあんなことですか?」
あんまりな場面で、ベイゼルはじりじりとその場から撤退しはじめた。
氷河期が面前に迫るその時に、のんきにしていては自ら死期に首を突っ込むようなものだ。
普段であれば自らにやにやと口元を緩めて「殿下―、あんなことってどんなことですかー?」とティナンの言葉尻に乗っかりたいところだが、ベイゼル・エージには危機回避能力が備わっている。
「殿下の想像なすったものがどんなものであるのか、じっくりとお聞かせ願いたいのですがよろしいでしょうか?」
――そして死期を見誤った殿下は星になった。
チーン……
ベイゼルはわが身が可愛いのでもちろんそれを見送ることしかできなかったが、どうやら話し合いは穏便にすんだのか――ティナンは本日も機嫌がよさそうに微笑を称えている。
キリシュエータのおかげで自分は忘れ去られたようなので藪から蛇を出すような真似はしたくないベイゼルは、ただおとなしく言われた仕事をこなすことにした。
たとえその仕事が理不尽なことであろうとも。
沈黙は正義。
静寂は美徳。
昨日、どうしたんスか?
それは決して尋ねてはいけない言葉だ。
そしてガリガリと羽ペンを動かし、慣れぬ計算に四苦八苦しながらベイゼル・エージは自分にとっくりと言い聞かせていた。
アレが兄。
アレが兄。
アレが兄。
まかり間違って「オレ、あいつを好きなんじゃあるまいか」などと決して思ってはいけない。
何故なら、漏れなくアレがセットでついてくる。
単品ならともかく、絶対にアレは引き剥がそうにも離れない。「セットでこちらも如何ですか?」ではなく、セット以外の選択肢は存在しないのだ。
タチの悪い抱き合わせ商法の如く。
挙句、更に間違って遊び程度の気持ちでアレの可愛い妹と付き合ってしまったらば、良くて全殺し、悪くて半殺しだ。
逆? 逆ではない。
この場合ヘタに生き抜くことのほうがシャレにならないだろうから。
つまり、オレは、アレを好きとかそういうのではアリマセン。
オレの好きなのは今も昔もナシュリー・ヘイワーズ。
警備隊官舎で勤務している事務官ウィル・ヒギンズの事務補佐官――素敵なむっちりとしたおっぱいの持ち主です。
後ろから揉んで良し、掴んで良しと色々と想像をたくましくさせてくれるおっぱいが大好きだ。決してルディ・アイギルのような発展途上の貧弱な胸に興味はございませんっ。
胸に滲んだ微妙な感情を全力をもって叩き潰す作業に没頭するベイゼル・エージだったが、ふと室内の空気が動き反対側で書類の処理をしていたティナンがするり躊躇無く奥の部屋、キリシュエータの執務室に入っていくのを眺めてぶるりと身を震わせた。
――確かに第三王子殿下キリシュエータに対して膝を折り、この命が朽ち果てるまでと忠誠を誓ったベイゼルだが「オレの忠誠なんてホラ、とりあえず長いものには巻かれろ、上司には頭を下げとけってなもんですから、ホント、スンマセン」と、内心で謝罪とも思われぬ謝罪でそそくさと視線を逸らした。
***
「二日酔いですよ」
呆れた口調で言いながらティナンは水差しの水をグラスに落とし、主へと差し出した。それをまるで毒でも入っているのではないかという眼差しで眺めたキリシュエータは、わざとらしく片眉を跳ね上げて水とティナンとを見比べる。
「毒見致しましょうか?」
「冗談だ」
「どうでしょう。しておいたほうがいいかもしれませんよ」
返答を待たずにティナンはキリシュエータの手からグラスを取り上げ、ほんの少しだけ口に含み、わざとらしく喉の奥へと嚥下して見せた。
「そんな真似をするな」
機嫌を損ねた主の憤慨の声に、ティナンは微苦笑で応えてみせる「冗談ですよ」主と同じ言葉でもって。
「お前だって昨夜は同じくらい飲んだ癖に」
「それはもちろん。バツの悪い思いをなさったどなたか様がわざわざ開けてくださいました上等の酒ですからね、存分に楽しませて頂きました」
――違う、そんなつもりじゃなくて……アレだ。言葉のアヤ。にんじんは私にとっても古い付き合いの可愛い妹のようなもので、ベイゼルの言い様があんまり酷いものだから、多少むっとしてあんな風に反応してしまっただけで、決して私があの子に対してジョ、ジョウヨクなどというものを感じている訳では無い。
咄嗟の言い訳を、ティナンの眼差しを真っ向から受けて真面目に並べ倒した。決して疚しさなど無いと叩きつけるかのごとく。
言葉にした途端に、苦いものが胸に滲んだが、それは封印する。
妹とは――思っていない。思いたくない。
それが事実であるのかもしれないというのが痛くて仕方が無い程に。自らの内に芽生えてしまった自覚に対し、ルディエラを避けて過ごしている。もちろん、毎日一度は確実に顔を合わせるが、それすら足の爪先にぐっと力を込めるようにしてやり過ごしているのだ。
ゆっくりと蓄積されていく想いが――決壊でもしようものなら、おそらくきっと自分は無様なことをしでかすだろう。
あんな小娘相手に情けない。
「妹みたいなものだとおっしゃる訳ですね」
淡々とティナンは言葉にし、それを許しのように受けてキリシュエータは自らを取り戻し、うんうんとうなずいてみせる。
「そうだ」
妹だの姪だのとは決して思いたくないが。
内心など隠し通して、とりあえずこの副官の奇妙な眼差しやら口調だとかを黙らせようと画策するキリシュエータであったが、相手はふぅっと嘆息を落とした。
「じゃあ殿下もうちの子にキスしたいとかぎゅっとしたいとか、膝の上に抱っこしたいとか一緒に寝たいとかって思う訳ですか?」
「それは妹へと向ける感情じゃないよな?」
「ああ、それ以下の妹へと向ける感情なのですね。ならいいですよ? なんといってもうちの子は可愛いですから、誰にでも好かれてしまうのですよね」
「だから、ちょっとまて」
その後はなんだか色々となし崩しでティナンの「妹のどこが可愛いか」談義に突入したのである。
なんとか誤魔化せたとほっとしたキリシュエータだったが、どうにもティナンの言葉には引っかかりを覚えてならない。
すっかりと水差しの水を飲みきったキリシュエータは、確かに昨夜は飲みすぎた。つきつきと小さく痛む頭を抱え「安酒ではなかったのに。飲み方が悪かったですね」と笑う副官にグラスをつきかえす。
それを合図にするようにティナンは仕事へと戻った。
「ルークから書簡が届いております」
その一言でキリシュエータの背筋がすっと伸びた。
封印された書簡を持つティナンの手元、第三王子キリシュエータ宛の親展を示す印が刻まれたそれを当然のようにティナンが開こうとするのを押しとどめ、手のひらを差し出す。
「殿下?」
「自分で見る」
その中に記されていることが――妹なのか姪なのか、それとも他人であるのか……血が、逆流でもしてしまったのではないかという程に気持ちがはやり、先ほど一杯の水を飲んだことなど無かったかのように喉がからからに渇いた。
***
頭の中を大好きなおっぱい――ではなく、ナシュリー・ヘイワーズで一杯にして意気揚々と自室の前に立ったベイゼル・エージであったが、木製の取っ手に指を掛ける前にその手がぴたりと止まった。
深呼吸を二度繰り返し、肩を上下させて「よしっ」と気合を入れて扉を開いた。
入り口付近で横たわる灰色狼のカムが胡乱な眼差しを向けてくるが、ベイゼルには少しも興味が無いのか、すぐにそっぽを向いた。
「あ、お帰りなさい」
引かれたカーテンの向こうからひょこりとルディ・アイギルが顔を出しながら、上着の袖口のボタンをはめた。
「なんだよ、まだ隊服か?」
「外出するんですよ」
言いながら身なりを軽く整える。
騎士団には休暇時以外は隊服を着用するようにという規約が存在する。勤務時間外といえども、官舎に暮らす人間は基本的には待機なので必然的に隊服ということになる。
ルディエラは足元にすりよるカムをぞんざいになで上げ、嬉しそうに言った。
「フィルドさんが奢ってくれるって」
「そいつぁありがたい話だな」
「って! どうしてエージ副長が居るんですかっ」
フィルドの怒鳴り声を右から左に流しつつ、ベイゼル・エージ自身自分の行動にうんざりとしていた。
どうしてオレが居るのか――そりゃお前。
「奢ってくれるんなら来るっしょ」
「副長におごりませんからねっ」
どうしてオレが居るのか――そりゃお前、オレ自身が知りたいよ、ホントによぉ。