その3
すぅっと血の気が引いたような、一気に体温が下がるような感覚は、けれどすぐに別の冷静な感情によって押し込められた。
第三王子殿下キリシュエータは、いつもと同じように朝食の席で副官である第三騎士団隊長であるティナンに当日の予定の報告を受け、現在南砦のほうで起きている窃盗団についての解決策として他の砦から人員を裂くことができるか、もしくは第三騎士団から数名派遣するべきかを軽く討論を済ませた。
「その場合の優先度は砦側でよろしいのですか? 第三騎士団から人員を派遣するというのであれば、すぐに数名の選抜をして向かわせることができますが」
「砦側と騎士団とはもともと管轄が違う。あちらとしては自分達のことに口出しされることはあまり面白くないだろう。あくまでも他砦に打診してからにしたほうが軋轢は少ない」
「では各砦に早馬を走らせますので、回答は二日以内に出せるものと存じ上げます」
――つい先ほどまで冷静な副官はてきぱきと仕事を端的にこなしていた。若輩といわれながらも、冷静冷徹と一目置かれているまごうことなき有能さを見せていたのだ。
その副官の気配がぐっと不穏なものにかわることに気付いたキリシュエータは、自らの血の気が引いたことはさっくりと後回しに押しやり、ぐいっと手を伸ばしてティナンの肩口を押しとどめた。
「落ち着け。アレはああいう生き物だ」
だが、何故によりにもよって騎士団隊舎と警備隊隊舎との中央に位置する本翼の廊下で――何の思慮もなく無遠慮に他人に抱きついているのだろうか、あのにんじん娘は。
自分だって血の気を引かせて瞬時に不愉快な気持ちになったというのに、そんな状態になってさえも他人に気を使わなければいけないこの現状はまったくもって不本意なキリシュエータだ。
自らのうちに芽生えた感情は果たして何であろうか。
嫉妬……その言葉で表してしまえば単純だ。
兄として? 叔父として? はたまた……好きな相手として。ぐるりと腹をよじるようなこの感覚の正体が掴めない。腹を割ってティナンに告げればその正体が肉親のものであるのかそれとは違う気持ちであるのかはっきりとするのだろうか。
――ある種、自殺行為に感じるが。
キリシュエータはそんな気持ちを喉の奥で押しとどめ、今は自らがすべきことに専念することにした。
そう、今は自分よりも自らの副官である。
自らの一歩後ろを歩む副官がどのような行動にでるのか想像したくもない。
いや――だが、むしろ、公の場に立つ今であればティナンは冷静に対処をしてくれるのではないであろうか……自らの早合点に少しだけバツの悪いような気持ちになったが、ふっと見返したティナンの顔は絶対零度の冷ややかさと、小刻みに震えているる握りこんだ拳とが自らの行動が正解であったと知らしめる。
キリシュエータは更に相手を押さえる腕に力を込めて、こっそりと嘆息した。
先ほど自分で告げた通りに、ルディエラが他人に抱きつくのなど安易に想像ができてしまう、ありふれた行動だ。
あの小娘ときたら、誰だって好きなのだ。
そして自分が女であるという自覚があまりにも乏しい。もう少し自衛的本能を発動させて軽々しく他人に抱きつくなどという暴挙を行わないように、今度少しばかり言ってやってもいいだろう。
「ティナン、落ち着いたか?」
「私はいつだって冷静ですが」
「……その目はとりあえず止めろ。更にいえば、腰の短剣に掛けた手を離せ」
主を見る目ではないので、不敬罪を言い渡してもいいのではないだろうか。
ティナンは口元を引き結ぶようにして微笑を浮かべ、その肩を小刻みに震わせた。
「……まったく、あの子には困ったものです」
そう、悪いのは誰彼かまわず抱きつく小娘だ。
キリシュエータは自らも納得させるように大きくうなずいてみせた。本当に、できることならどこかに押し込めて、もうちょっと色々と考える脳みそになるように色々と教育を注ぎたいくらいだ。
「殿下、点呼の時刻に遅れます」
更に冷静に言うティナンに安心したキリシュエータは、ティナンを抑えていた腕を外した。
思いのほか力か入ってしまった為が、微妙なしびれすら感じさせる手を軽く払い、キリシュエータは苦笑した。
「まぁ、まだ少し早い。サロンでお茶を一杯いれてくれないか?」
相手を更に落ち着かせる為にそんなことを持ちかけると、ティナンはいつも手にしているファイルを持ち直し、苦笑した。
「私がお茶をいれるのですか? 最近は従卒ばかりに任せていますから、味の保障はありませんよ」
微妙な違和感を覚えつつも話しに合わせて来るティナンにほっと息をつき、ふと視線を先ほどの物体二人へと戻せば、すでにその場にいたのはベイゼルだけで、そのベイゼルはと言えば何故かその場でしゃがみこんでいる。
眉間に皺を寄せたキリシュエータを置き去りに、ティナンはさっさと歩き出して小気味良いカツカツという長靴の音をさせて――
ひやりと冷たいものが胃の辺りを通り過ぎ、呻いたところで後の祭り。
先ほど悪いのはルディエラだと認めた筈のシスコンは、ベイゼルの背中を思い切り蹴りつけていた。
***
「今も昔も、記録係の人数は決まっている」
ルークは淡々と言いながらファイルへと落とした視線の速さは変わらない。
「王宮に仕えている書記官のうち、十名が毎日その日にあった出来事についての仔細を書き連ねる。それは細部にわたるが、十名もいれば書かれることは視点によってかわっていく。だからこそ、より正しい情報を残す為にきっちりと十名の書記官が記録を残すことが定められている」
その言葉を受けているのは、ウィル・ヒギンズ――事務官として警備隊隊舎に部屋を持っているのだが、その実内部調査間としての顔も持ち合わせている。
そのウィル・ヒギンズは壁に背を預けて腕を組み、興味が無いとでもいうようにその場で目を瞑っていた。
そして同室にいるルークは、そこに相手がいるということじたいどうでも良いかのように、独り言のように淡々と言葉を落としていく。
「その書記官が記載したものを元に歴史書が作成される。これはまた違う部署の作成だけれど、歴史書の中に記されている皇女についての期日は実にたったの数行で示される。曰く、母親である愛妾カーロッタと父親である皇帝との間に産まれた皇女は死産であったと。その時の書記官が記した記録書は何故か三冊しか発見することができなかった。むしろこの三冊については何らかの不手際によって残ってしまったと考えるほうが妥当だと思う」
片方は目をつむり、片方はひたすら手の中の資料の文章を追いながらのやりとりは、実に奇妙なものであった。
「さて、ここでまず矛盾がうまれる。
書記官の残してしまった書類には、皇女は三ヶ月の間生きたとある。まぁこれはいい。もともと王族は産まれて三ヶ月たってのち正式に発表されるのだから。
それまではむしろ内々のこととしておおっぴらにはされないのだからさして大きな違いともいえないかもしれない――そしてもう一つ。愛妾カーロッタの投獄について。これもまた奇妙な話だ。死産であるならば投獄されるようなことはおこりはしない。だがカーロッタの罪は王族殺しと言う。広義でみれば確かにカーロッタは王族を殺したのかもしれない。けれど、調べれば調べるほどに矛盾に溢れている。今までの記録で死産が無かった訳ではないけれど、そちらの方はこれといって罪にとらわれることは無い」
ルークは親指をぺろりとなめて、その湿り気で古い紙の資料をめくりあげた。
「カーロッタは投獄され、そしてカーロッタの一族は衰退した。
この全てはまるでもとより無かったかのように隠蔽され、それ以上に詮索することなかれと陛下は緘口令を敷くことになる――やっと産まれた愛らしい姫君の死について、陛下も随分と悲しみを抱いたのかもしれない」
うん、と小さく呟いてからルークは首を振った。
「これはぼくの感想だけれど――陛下はカーロッタの妊娠を喜んではいなかったのではないかな?」
「よけいな憶測は必要がありませんよ」
それまでただじっと聞いていたウィル・ヒギンズが言葉を発すると、ルークはちらりと壁へと視線を向けた。
「何より、賢者殿。
貴方はすでに回答を得られた筈です」
「そう、ことは単純で――単純なだけにややこしかったみたいだ」
ルークは深々と溜息を吐き出し、ぱたりと資料を閉ざした。
――その表紙には、家庭菜園についてという文字が描かれ、まったく今までの会話とは無縁と思われる。
ウィル・ヒギンズはそれを軽く流しながら、薄い唇の間から呼気を落とした。
「さて、陛下は――キリシュエータ殿下にどう報告してもらいたいのか言ってくれるかな?」
「どうぞ。ご自身の気持ちのままに」
淡々と言われた言葉に、ルークは一瞬驚いた表情を浮かべた。
「――なら、はじめから脅かさなければいいのに」
「手の平の上にある駒と手の平から落ちた駒は違うものですよ」
「……面倒くさいおじさんだな」
ぼそっと小さな呟きをこぼしたルークに、ウィル・ヒギンズは片眉をぴくりとうごかしたが、一つだけ陛下から出されている条件を思い出して口にした。
***
どくどくと激しく脈打つ鼓動を抑えるようにしゃがんでいたベイゼル・エージであったが、いつもであればその気配くらい気付いても良かっただろう。
相手は足音も高らかに歩いてきたのだし、おそらく普通に垂れ流してはいけないような何かも隠すことなく垂れ流し状態になっていた。
だが、ベイゼルは現状そんなものにかまっていられない程動揺していた為、気付くことが完全に遅れ、無防備な背中は思い切り蹴りつけられた。
「邪魔だ」
どわぁっと前のめりに床に叩きつけられそうになり、慌てて体制を整えなおす。突然のことに更に混乱は激しいものへとなりかけたが、相手の顔を見た途端にベイゼルは口を動かしていた。
「俺が好きなのは巨乳ですってば!
貧弱な成長途上の子供になんてちってともぜんぜん完全に興味なんざありゃあしませんって。ぼん・きゅっ・ぼんどころか、きゅっ・きゅっ・きゅじゃないですかっ。
体だってもっと柔らかいのが女ってもんですよ。筋肉をつける為ってやたらめったら体を動かしているもんだから、ものすっごい硬いんですよ、あいつの体。
枯れ枝だってもうちっと柔らかさってもんが――」
保身を込めて、そして自分を納得させる為に次々と暴言が口をついて出た。
完全に枯れ枝とか、さすがにそんなことを思ったことは無い。確かに鍛えているが、やはりどこか女の子らしい体つきをしていることだって承知している。
ただ、その全てを上書きするように吐き出さずにはいられなかったのだが――
「あんなのに欲情するようじゃ人間終わってますってば」
よし。そうそうだ!
最期に口をついた言葉に――さすがに心の片隅で言いすぎだろうと思いながらも、それでティナンの怒りも解かれるだろうし、自分にしてもドキドキしてしまったのは間違いであったと納得しかけた……
「悪かったな!」
まさかティナンより先にキリシュエータの拳をぱしりと受け止める羽目に陥ろうとは……ベイゼル・エージは思ってもいなかった。
咄嗟に手の平で受け止めた相手の拳。
自分の手の平がジンジンと僅かな痛みを訴える中で、ベイゼルは大きく瞳を見開いてキリシュエータを見返し、乾いた声で「マジっすか」と、よけいな一言まで呟いていた。
――というか、この場合、何がマジなんだ?
できれば本気で考えたくない。