その2
長靴に仕込んだ針をバゼルの首筋――頚動脈に押し当てたまでは良かった。
われながら素晴らしい動きであったと自画自賛なルディエラだったが、その後が本当に酷かった。
バゼルは瞬時に手を払い、そのままの勢いでぐりんっとルディエラの体を中空で力任せに回転させた。そしてそのままルディエラの体をやすやすと拘束すると「にーちゃんは情けない!」と言うや、ルディエラを自分の膝にうつぶせにおしつけたのだ。
途端に何がどうなるのかを理解したルディエラの血の気は一気にさがり、悲鳴じみた声で「やめてーっ」と叫んだものの後の祭り。
ズボンに手をかけられ尻をむかれ、べしべしと無遠慮に叩かれ――それだけでも恥ずかしいというのに、更に追い討ちをかけるように個室の扉は開かれ、第三騎士団副長でありルディエラにとっては宿舎も同室であるベイゼル・エージと目がばっちりとあってしまったのだ。
引いていた血が更に引くことがあろうとは誰が思うだろう。
手をふりあげていた熊殺しバゼルは、突然部屋の扉がノックの一つも無く開いたことに片眉を跳ね上げて「あぁっ?」と低い声を出し、ベイゼルはあまりの惨状に若干上半身を引かせた。
「何の用だ」
ギンっとバゼルが睨みを利かせたが、ベイゼルは一旦喉を上下させ、その場の空気などちっとも読めていないと装うように肩をすくめて陽気に口を開いてみせる。
「すんませんね。ソレ――そろそろ訓練の時間なんで返してくださいよ」
「個人的な話の真っ最中だ」
「話って感じじゃないスけどね」
そんな二人の会話の間、ルディエラは引ききってしまった血液を、今度は一気に顔に集中させてしまったかのように真っ赤になりつつズボンを引き上げ、びしりとバゼルに指を突きつけた。
「バゼル兄さま」
「――何だ」
「嫌いになるから」
低く突きつけた言葉は、ベイゼルからすれば滑稽な脅しだった。
こいつはいったい何を言い出すのやらと瞳を瞬いたが、驚くことに熊殺しバゼルが「ぐっ」と呻くようにしてたじろいだ。
ルディエラは更に指を相手の胸に押し付ける。
「嫌いになるからねっ」
「ル――」
「よけいなことは言わないで。よけいなことをしないで。とにかくっ、何かしたらぼく、バゼル兄さまのこと大っ嫌いになるんだからっ」
言い切ったルディエラは、相手が口を開くことすら許さぬ勢いでくるりと身を翻し、ばたばたと足音をさせてベイゼルの二の腕を引っさらった。
「副長。行きましょうっ」
「え、あ……あ、ああ」
ベイゼルは呆気にとられてルディエラと、そして呆然としている熊殺しとを交互に見てしまった。
――西砦の熊殺しは、真っ青な顔で狼狽し、泣きそうな顔で手のひらをわきわきと動かしていた。
あれ、これって俺でも倒せるんじゃないか?
一瞬そんな夢を見てしまうベイゼルだ。
「なぁ、今の――」
ルディエラはベイゼルの二の腕を掴んだまま、怒りを内包するようにずんずんと廊下を歩いていく。
引っ張られる形のベイゼルは、どうしたものかと逡巡しつつ、とりあえず「現状についてなにも触れないほうが不自然であろう」と結論付けて口を開いた。
「親戚です」
実の兄も親戚と言えば確かに親戚だろう。
間違いではないな、とベイゼルは冷静にうなずく。
「世話焼きなんですよ。ぼくが騎士なんて危ないだの何だのって――余計な世話なんですよ」
「随分可愛がられてるじゃないの」
「ちっちゃい生き物が好きなだけです。ぼく小さくないですけどねっ」
――熊殺しと比べれば、ベイゼルだとて小さな生き物だろう。この法則で言えばバゼルはたいていの人間を好きという結構な博愛主義者になってしまう。
ぷりぷりと怒りながら歩くルディエラの頭を眺め、ベイゼルはなんとも微妙な気持ちになった。
騎士団顧問エリックの愛娘。
第三騎士団隊長ティナン、西砦の熊殺し、やがては評議会で議長にまでと言われる長兄クインザム――更には【賢者の塔】には歴代三位の若さで塔入りを果たした四男。
第三王子殿下キリシュエータに目をかけられ、第二隊のどっかの馬鹿に好かれまくり。
第二王子殿下にはどうやら玩具認定され……
「おまえさん、実は最強なんじゃね?」
「は?」
最強とは縁遠い間抜けな顔をした小娘が振り返り、ベイゼルは自分の言葉を即座に撤回した。
「んなことないか」
***
「クインっ」
扉を蹴破るような勢いで叫んだバゼルは、扉の向こう側にいた長兄クインザムと――そして四男ルークの姿に思わず言葉を失った。
本来であればティナンを締め上げてやりたいところだが、それを押し留めたのはルディエラの言葉であった。
――よけいなことをするな。
少なくともティナンに何かすることは「よけいなこと」の部類になるのではないだろうかと脳筋をふる活動した結果、クインザムに苦情を言うに留めることにしたのだ。クインザムに言うことも「よけいなこと」に当たるかもしれないとは考えない男バゼル。
とにかく、誰かに噛み付かずにはいられなかった為にクインザムの屋敷を訪れたのだ。
「と、ルーク?」
「来客がルークだったから良いようなものの、別の人物だったらどうするつもりだ、バゼル」
冷ややかなクインザムの言葉に「すまん」と素直に謝罪の言葉を口にし、バゼルは自分が持ち込んだ事柄を一旦棚の上においてルークに話しかけた。
「久しぶりだな。元気にしているのか?」
「バゼル兄さんの目にはぼくが病弱に見えているのかな?」
「――あいっかわらず可愛いなお前は!
で、隠居ジジイみたいなお前がこっちに顔を出すなんて珍しいじゃないか。どうした?」
ふんっと鼻をならしてバゼルが言えば、ルークはちらりとクインザムへと視線を一度向けて「クイン兄さんに聞きたいことがあったから――もう用はすんだ」
さっさと言うと、ルークはすくりと席を立った。
「なんだよ。たまには酒に付き合えよ」
膝の上に置かれていたゆったりとしたケープを着込むルークに水を向けたものの、ルークは「忙しい」とそっけない口調で言い切り、クインザムに簡潔な挨拶を残してさっさと部屋を出ていってしまった。
思い返せば、屋敷の前には馬車がいたのだから来客は予想がついた筈であるのに、ルディエラのことに動転していた為すっかりと考える頭が抜け落ちていた。
「ルーク、何だって?」
「それより、お前こそどうした。突然」
クインザムは手元の書類にサインをしながら逆に問い返す。
話題を逸らされたと気付かずに、バゼルは「ああ」と肩をすくめながら先ほどまでルークが座っていた席にどかりと座った。
「ルディエラのことだ」
「――おまえもか」
「あ?」
「何でもない。で、ルディエラがどうした?」
深く息をついたクインザムは、持っていた羽ペンを彼にしては珍しくペン立ての中に放り込み、ぎしりと音をさせて背もたれに体を預けた。
「クインは知っていたんだろう?
あの子が騎士団にいることを」
「私が許さずにそんなことができるものか」
この家で絶対的な権力を握っているのはあくまでもクインザムである。たとえ父親であるエリックが娘可愛さにそれを許したところで、クインザムが許さなければルディエラは騎士団になど入ることは適わなかったであろう。
「どうして俺に言わないっ」
「言ったらお前は余計な手出しをするだろう?
無理やり連れ戻したり、もしくは砦の長官達を味方につけて自分を王宮に出向させたり」
味方――というよりは脅しつけてというほうが正解であろうが。
苦いものでも嚙むような顔をしたバゼルは、椅子の前にあるテーブルを威嚇するように蹴りつけた。
「女の子のすることじゃない!
お前が許したというのがまず信じられんっ」
「こちらも事後承諾だが。あの子が望んだことを――できればやらせてあげたいと許したまでだ」
「もし何かあったらっ」
「そういったこともすべて含めて経験だ。何より、もし何かあったとしてもあそこ程結婚相手に望ましい者達がそろっている場もない。
あの子ときたら社交界には興味は無いし、市井から誰かを探そうという気もない。少しは男を見る目を養って欲しいものだよ」
保護者としてティナンもいるし。
あっさりと言う兄の言葉に、バゼルは信じられないという様子でゆっくりと首を振った。
「悲惨な結果になったらどうするつもりだっ」
「――つぶす」
端的にクインザムは言い切った。
「身元ははっきりとしている。
そうでなくとも草の根分けても探し出し、周りからじわじわと真綿で首を絞めるように圧迫して自ら血反吐を吐いて殺してくれと懇願する程に追い詰めて、公開処刑してやればいい。私にそれができないとでも?」
「……ルディエラの心や体を傷つけてもいいというのか」
クインザムの迫力に多少押されつつ、それでも反論するバゼルにクインザムは肩をすくめて見せた。
「そもそも、そんなことは絶対に起こらない。
あそこには無駄な保護者がいるからな」
「まぁ……親父もティナンもいるからなー」
それでもどこか釈然としない気持ちで――無理やり自分を納得させたバゼルを見つめながら、クインザムは皮肉に口元を歪めた。
「本当に無駄でしかないが……結果としては役に立つ」
***
「あ」
ベイゼルの二の腕を掴んだままだかだかと足音高く歩いていたルディエラは、突然そう口にし、ぴたりと足を止めた。
ベイゼルは引かれるままに後ろを歩いていたのだが、突然目の前のルディエラが止まるものだからたたらを踏み、軽くルディエラにつんのめるようにしてとまる。
「なによ?」
思わず不機嫌に返したベイゼルであったが、ルディエラはそんなことには頓着せずにくるりと振り返り、みずからがっちりと掴んでいたベイゼルの手首をじっくりと見つめ、ぱぁっと――まるで花がほころぶかのように綺麗な笑顔を浮かべてみせたのだ。
先ほどまでの不機嫌をまるきり捨て去るあまりのかわりように呆気にとられるベイゼルに、ルディエラは何が嬉しいのかぶんぶんとベイゼルの手を掴んだままの手を振って、
「なーんだ。大丈夫だっ」
と、意味不明な喜色に溢れた言葉を落とした。
何が大丈夫なのかまったく理解できないベイゼルが眉間に皺を刻みつけると、今度はぱっとその手を外し――謎の行動原理で動く小動物は、おもむろにぎゅうっとベイゼルに抱きついた。
「ほーら、大丈夫だっ」
一人で勝手に「大丈夫」と納得したルディエラは、あまりのことに棒のように突っ立ったままのベイゼルを無視し、ぱっと身を引き剥がすと何故か機嫌を良くして「まだ時間ありますよね。ご飯少しでも食べて中庭に行かないとっ。副長、いきますよー」と身を翻した。
しかし、一人残されたベイゼルは硬直し――スキップまがいに遠のくルディエラを追いかけることもできずにへたりとその場にしゃがみこんでしまった。
二の足は力を失い、ばくばくと激しく心臓が脈打ち、意味不明に耳が痛い。
いや、痛いのではない、熱いのだ。血液が耳に集中し、どくどくと痛いくらいに脈打っている。
「なに、なに、なんなのあのお子さんはっ」
ぐしゃぐしゃと乱暴に自らの髪をかき回し、ベイゼル・エージは「ぎゃー」と声にならない悲鳴をあげた。
なんだこれ、なんだこれ、なんなんだこれっ。
マジで勘弁しろ。
ふざけんな。
いろいろとありえないだろうが。