その1
国境の警備にあたっている西砦の熊殺しバゼル――通り名の通り、熊を殺したという逸話があるが、真実は少し違う。
朝の鍛錬のおりにばったりと熊と遭遇したバゼルは、熊との緊迫した相対に対して自慢の大刀でもって応戦した。ちょうど冬眠から起きたと思わしき熊は近くに小熊でもいるのか、立ち上がって人間相手に容赦なく迎え撃つ。一瞬死をよぎらせたバゼルは、気合を入れる為に「うりゃぁぁぁぁっ」と声を張り上げ、熊はその勢いに驚いて明後日の方向に走り出し、巨木に頭から突っ込んだのだ。
はじめのうちこそ「熊殺し」の噂を否定していたバゼルだが、次に「じゃあ熊脅かし」とニヤニヤと友人におかしな異名をつけられそうになり、甘んじて熊殺しと呼ばれることを受け入れはしたが、あえて自分からは吹聴したりはしない――意外に高潔な男。
騎士団顧問のエリックの次男にして、一番エリックの資質を受け継いでいると言われている男丈夫。
現在国境の西方砦の警備勤務についている為あまりその存在を目にすることはなかった為油断していたが――ルディエラにとって実は一番厄介な兄である。
何が厄介って――
「ど、うして髪が短いんだー」
泣いています……
まさに滂沱の涙。
「ちょっ、バゼル兄さんっ。いくら個室だって声大きいんだから、やめて」
思わず逆に声を潜めてしまうルディエラだが、熊殺しとまで言われている巨体を持つ男は、ぼろぼろと涙をこぼしながらルディエラの短くなった髪をわしゃわしゃとかき回していた。
食堂でとっつかまった時はいったいどうなるものかと身構えたものだが、幸いバゼルは珍しく脳筋をフル回転させた挙句思慮深さという埃にまみれた文字を何とか発掘したのか、ルディエラの正体を――自分の妹であるなどとあっさりと暴露したりはしなかった。
ルディエラの二の腕をがしりと掴み、自らの顎先をなでながら無遠慮にルディエラの頭から足先までを眺め回し「ルディ・アイギル……ねぇ」と呟いのだ。
咄嗟に何か言い訳をしようと口を動かしたルディエラだが、突発的な出来事に思考能力が低下しているのか、あわあわと口が動くだけで「あの、えっと」というあやふやな言葉しか落ちてこない。
泣き出しそうになっているルディエラに、クロレルがやんわりと助け舟を出した。
「バゼル、見習いを苛めるのは――」
「苛められているのは俺のような気がするんだが。ああ、それはまあいい。
それはともかく、ルディ・アイギル?
まさかこんなトコで顔を合わせるとは思わなかった。俺は旅行に行っていると聞いてたんだがな。それとも、旅行から戻ったのか? ルディ」
ルディエラではなく、ルディと呼ぶバゼルの言葉にルディエラは少しだけ勇気を出せた。
「ご無沙汰してすみません、バゼルさん」
兄さまお願いだから話を合わせて。
不自然にばしばしと瞳を瞬いてのアイコンタクトはバゼルに届いたようだが、バゼルは意地の悪い息をついた。
「さん? そんな他人行儀な。以前はバゼル兄さんって言っていたのに。叔母さんは元気にしてるか?」
叔母さんが元気にしているかどうかなど、もちろん知る由もないルディエラには乾いた笑いしか出てこない。
「二人は知り合いなんですか?」
微妙な空気をかもす二人の間で、クロレルがやんわりと問いかける。
「ああ。親戚だ――よな、ルディ?」
従兄弟という設定のままに会話を続けてくれるバゼルにほっとしたのもつかの間、バゼルはぐいっとルディエラの腕を引いた。
「こんなところで立ち話も難だ。ちょっと付き合えよ。
積もる話があるだろう? お互い」
ああ、朝食抜きで訓練だとか、へたすると遅刻だと――昨日の今日でコレって、いったいどういうことだろう。
ティナン兄さまはこの歩く災難との遭遇に対して寛容な気持ちを抱いてくれるだろうか――頭の中が真っ白というより極彩色でぐちゃぐちゃなしながら引きずられ、個室に入った途端――言い訳も何もなく、バゼルは「いったいどうなっているんだ」と熊のように吼えた。
「バゼル兄さまってば、声抑えてっ」
鼓膜がびりびりと震えてしまう。
両耳を押さえるようにして言うルディエラに、バゼルははじめのうちは怖い顔で詰め寄った。
その一睨みだけで熊を萎縮させるというその顔で。
「どうしてこんな場所で男みたいなナリをしているんだ、ルディエラ」
「ごめん、ここではルディで統一して。本当にお願い」
ギンっと睨み付けられ、ルディエラは一旦天井を見上げそうになったが、色々とあきらめの心境で息を吸い込み、熊殺しの操縦方法を思い出した。
両手を合わせて、瞳を潤ませて「兄さま、本当にお願い」と頼み込む。
髪が短い上に騎士団見習いの隊服という格好で以前と同じように威力を発揮してくれるか怪しかったが、バゼルは途端に怒らせていた眼差しをかえてしまい――だぁーっと涙をこぼし、冒頭に戻る。
「これでは三つ編みも編み込みもリボンも似合わないじゃないか!」
「……いや、うん」
「ドレスだって着れないんだぞ。
いやいや、お前は可愛いんだから短い髪になったとしても似合うドレスがきっとある。安心しろ。兄ちゃんがお前に似合うドレスを探してきてやるからな」
いや、だからドレスは別に要らないし。
ルディエラは額に手を当てたい気持ちになりつつ、男泣きの熊を前に辟易としていた。
一番厄介――それは一番面倒くさいと同義だった。
バゼルはその外見に似合わず、可愛いものが大好きだ。そのごつごつとした指先で器用にルディエラの髪を編み上げる。
その技はマーティアなどものともしない。年齢が離れている為に一緒に暮らしていた時間は少ないが、時折自宅に滞在する時などはそれはそれは毎日――地獄のような日々だった。
ズボンとシャツという簡素な服装が大好きなルディエラを毎日可愛いレースとフリルふんだんに使われたドレスで飾り立て、髪型もばっちりと決めてくれる。一回の着替えで納得できなければ納得できる服装になるまで延々と着せ替え人形を繰り返し――満足すると最悪画家まで連れ込む始末だ。
おそらく今もきっと――バゼルの持つ懐中時計の蓋の裏には「お前はいったい誰なんだ」と言いたくなるようなそれはそれは愛らしいルディエラがいることだろう。
「なんでこんなことになったんだ。
誰がこんなことを……親父か? まさかあの糞親父がむさくるしいところに可愛いお前を放り込みやがったのか?」
「違うから。それに……ねぇ、落ち着いて。
もともとぼくが騎士団に入りたかったのはバゼル兄さまだって知っていたでしょ?」
「か弱いお前が騎士団なんて無理に決まっているじゃないかって、おまえどうして一人称がぼくなんだ。そんな、は、はっはしたないっ」
そりゃ、熊殺しにしてみれば誰でもか弱いだろう。
それよりも「はしたない」という台詞を真っ赤になって照れ照れというのはやめていただきたい。
「ああっ、そういえば!
以前ちらっと第三隊の訓練の時にみかけた赤毛――あれはやっぱりお前か? 糞っ。あの時に気付いていれば……」
あの時に気付かれていれば、おそらく問答無用で担ぎ上げられて自宅へと送還されていたかもしれない。
今だとて相当危ういというのに。
「つまり――そうか、あの馬鹿。
ティナンだなっ」
一人で勝手に結論付けて、拳をばしりともう片方の手で迎え撃つバゼルの姿に、ルディエラは血の気を引かせてあわててその腕を押さえ込んだ。
「ティナン兄さまは関係ないからっ。
ね、ねぇ。バゼル兄さま。ちゃんと聞いて。お願いだから落ち着いて――ぼく、えっと、私が騎士になりたいって言っていたのは知っていたでしょう?」
極力女性らしい言葉を拾い集めてみたが、慣れ親しんだ粗暴さの為にかどうにもぎこちない。
「なりたいとなるのとでは大きく意味が違うだろう?
か弱いお前がこんな場所でどうして生活できるというんだ。可哀想に。兄ちゃんがすぐに家に帰してやるか――」
あまりの話の通じなさに、ルディエラは苛立ちを押さえ込むことを放棄した。にっこりと微笑むことも、女言葉も、ドレスもリボンも――まるでお姫様のように扱われることも我慢の限界だった。
そして何より、このまま自宅に連れ戻されるなど冗談ではない。
バゼルの腕を押さえる傍ら、もう片方の手を軍靴に滑らせて中指と人差し指でひといきに引き抜いたのは通称針と呼ばれる細く鋭い隠しナイフだ――そしてそれは引き抜いた勢いのまま、尚且つ間違うことなくバゼルの顎下、頚動脈へと押し当てられた。
「兄さま――ぼくはか弱くなんかない」
***
「宮廷に?」
ごきゅごきゅと冷やしたワインで喉を潤し、唇の端を流れた透明な液体を乱暴に手の甲でぬぐい上げたバゼルは眉を潜めてそう尋ね返した。
本来であれば臨月の腹を抱えた母親がいる筈の家にいたのは、長兄クインザムと、長兄の足元で本を読みふけっている四男ルークのみ。
士官学校から久しぶりに戻ったというのに、あまりにも味気ない家の様子にバゼルは眉間に皺を刻み込んだ。
唯一話し相手になりそうなクインザムもなにやら仕事があると手だけはせわしなく動いている。
「お袋が宮廷に行ってどうするんだよ?
でかい腹抱えて何かあったら――」
「何もある筈がない。
母さんは宮廷で出産し、愛妾のカーロッタ様のお産みになるお子様の乳母になる。その為に今から食事だとかの管理をするということで、すでに宮廷に召された。産婆としてネティも同行しているし」
本来王族の血をひくお子の乳母として召されるのは、位の高い貴族であると決まっている。もともと侯爵家の娘であった母といえど、貴族でもない傭兵に嫁いだ母に地位はない。
不信に思うバゼルが片眉を跳ね上げると、バゼルの口から吐き出される言葉をさえぎるように長兄クインザムは続けた。
「父さんが陛下より直々に要請を受けたそうだ」
「まー、うちの母さん子育てのベテランだから」
「――陛下が望んでいるのはそういうことでは無いらしいが」
ぼそりとクインザムは呟いたが、バゼルが口を挟む前に足元の末弟を抱き上げた。
「やめてー」
ルークが本を抱きしめたままむずがるように体を動かして暴れるのを無視し、バゼルはそれを受け取った。
「よーし。ルーク。可愛い服に着替えようなー」
「クインっ、助けてっ。クインっ」
「そうかそうか、嫌がってるお前も可愛いなー」
ぎゅうぎゅうと末弟を抱きしめて部屋を出て行くバゼルを見送り、クインザムは深々と
溜息を吐き出した。
――母さんがどうして?
その質問はもちろん何より先にクインザムが口にしていた。
父親は口を濁し、母親は苦笑をこぼしてクインザムの頬にそっと手を添えた。
「お父さんの稼ぎが悪いのよ」
納得した。
騎士団の顧問として名を馳せてはいるものの、父親のエリックの使えなさはクインザムが何より一番知っている。
父親が傭兵として働いている時、この国は隣国との戦争真っ只中だった。当時は悪鬼とも悪魔とも恐れられ、傭兵という地位らしい地位も持っていない癖に代替わりしたばかりの陛下と懇意にして活躍を果たしていたという。その戦争も講和によって一応の解決をみせ、現陛下は傭兵であるエリックを友と呼び――褒章を与えるに至ったが、物事を深く考えないエリックは土地も爵位も受け取らず、唯一望んだのは侯爵家令嬢であるミセリア。
――子が産まれたのはその数日後。
丁度ミセリアが産気づいたのはカーロッタが産気づいて一刻半程のことであったというが、すでに四人の子を産み落としたミセリアはカーロッタがその後三刻半もの間産みの苦しみを味わうのに対し、四半刻早く子を産み落とした。
「男の子だ」
帰宅した父は重々しくそう告げ、クインザムは正直「またか」と思ったものだ。三人目のティナンの時も、四人目のルークの時も皆口にはしなかったが女の子を待ち望んでいたが、その裏で「どうせ男だろう」というどこか諦めのようなものを感じていた。
「それで、赤ん坊にはいつ会えますか?」
産まれてすぐに会えなくとも別に構わなかった。ルークの面倒もあるし、赤ん坊なら見飽きている。
男の子であればなおさらだ。
――だが、三月後に母親が青い顔でその腕に抱いていた赤ん坊は、女の子だった。
***
溜息が出た。
「はー」ではなく「はぁぁぁぁぁぁったくっ」という類の溜息だ。
胃の辺りがきりきりと傷む。
ティナンの兄であるバゼル――それはすなわち、ルディ・アイギルの兄ということになる。
食堂の端っこで我関せずを貫いていた第三騎士団副長ベイゼル・エージは思わず壁になつきたいような気持ちになってしまった。
許されるのであればもちろん見なかったことで済ませたい。
済ませ……
「わりぃ、これ片付けといて」
近くにいる隊員に未だ手のつけていない朝食プレートを押しやり、体内の空気をすべて吐き出すような溜息を吐き出した。
昨日の今日で訓練にちこくするのはマズイ。
過酷になるであろう今日という日に朝食を抜くのもマズイ。
このまま放置してヤツが怒られようとどうなろうと知るものか――完全無視で生きていけるような器用さを俺は持ちたい。
おそらく……一番近くにある小会議室とめぼしをつけて、その扉の奥で人の気配を確認し、ベイゼルは生来の暢気で空気の読めない男を前面に押し出しつつ、中に声を掛けるなどということもせずに無遠慮に扉を開いた。
途端にベイゼルの耳に飛び込んだのは悲鳴じみた高い声。
「もうやだーっ」
そして目に飛び込んできたのは、がたいの大きな熊殺しバゼルの膝の上、半泣きのルディ・アイギル――ケツをむかれて尻たたきの刑執行中、って……
ああああああっ、どうして俺はこう面倒くさい場面に遭遇しちゃうかなぁっ。
どちくしょうっ。