その4
ぎゅっとして。
過去にそんな風にねだられたことがあったであろうか――いや、無い。
何故なら、そんな言葉など必要としていないからだ。
小さな妹はティナンを見つけると、ぱっと喜色もあらわに駆け寄ってきて両手を広げて自らぎゅっと抱きついてきた。
それは――それは、ほんの数ヶ月前まで変わらない慣例だった筈なのに。
「兄さまっ。お帰りなさい」
そう言って抱きついてきたのはいつのことだっただろうか。
ティナンは瞬時に答えを見つけ出した。
それはほんの二ヶ月と半月程前のことで、あの時のルディエラは上から降ってきた。
二階の一室、その窓から何の躊躇もなく体を空に躍らせてルディエラは地面におりたち、馬で帰宅したティナンの腕の中に全幅の信頼をもって飛び込んできたものだ。
抱きついてくるその力強さを支え、見上げてくるきらきらとした瞳を受け止め、その額に口付けをすることが当然の慣例。
ティナンは腹の底からわきあがるものを押さえ込むように、ぐっと体中に力を込めた。
こみ上げてくるのは愛しさと、寂しさと、そしてぐちゃぐちゃとした熱のある感情。
あの時と同じように見上げてくる瞳を受け止め――両手を伸ばし、抱きしめてどんな願いでも適えてやりたいという、切望。
***
もしこの部屋に大きな置時計の一つもあったのであれば、その秒針の音が機械的に響き渡ったことだろう。
チッチッチ、と。
それくらい微妙な静けさが第三騎士団宿舎、ベイゼルとルディエラの相部屋に満ちていた。
寝台の上には伏せて顔を持ち上げて鼻に皺を寄せた灰色狼。
その首を押さえつけている騎士団見習い隊員ルディエラ。
そして、寝台の脇には無表情で立ち尽くす第三騎士団隊長ティナン。
「兄さま、ぎゅっとして」
褒美に何でも言えと言うティナンに、ルディエラは思わずありったけの勇気を振り絞ってねだったというのに――あまりにもその後に満ちた沈黙が痛い。
先ほどまで多少の笑みさえ浮かんでいたというのに、すっと消えた表情の挙句、ただ向けられるだけの眼差しが冷ややかさを感じさせ、ルディエラの口腔に緊張の為にか唾液がたまった。
「あ……の、兄――」
沈黙の痛さに耐え切れずにからからに渇いた口で言葉をつっかえつつ問いかければ、とまっていた時間が動き出したとでもいうようにティナンは喉仏を動かした。
「兄でも妹でもないと言っておいた筈だ」
冷ややかな言葉に、ざぁっと瞬時に血の気がうせていく。
向けられた言葉の意味にばくばくと心臓が音をさせ、ルディエラは先ほどまでとはまったく真逆の緊張で一気に体をこわばらせた。
「申し訳、ありませんっ」
「貴様の覚悟はその程度か」
「ちがっ、違います。どうかお許しください――隊長っ」
罠?
あと残すところ二週間程度だというのに、ここにきて兄の罠に嵌ってしまったということだろうか。
ルディエラは目の前が真っ白というより真っ赤になるような感覚に陥った。必死にふんばっていた自分の頑張りなど、この程度のことで覆されてしまうのか。
甘言に乗せられて、思わず兄さまと言ってしまった。
先ほどの優しい声も、しぐさも――すべて鬼隊長の罠だとしたら、自分はもうおしまいなのだろうか。
相手のことを酷いと非難する気持ちより、むしろ自分の迂闊さ加減に絶望する。
自分の隣で身を伏せていたカムが臨戦態勢を伝えるようにぐっと尻を持ち上げてぐるぐると喉の奥を鳴らす。
咄嗟に更にそれを強い力で押さえつけ、ルディエラは「伏せろ」と短く命じた。
そうしておきながら自分はより一層頭を下げる。
下げることしかできない。
――それでなくとも職務を自分のミスで休んでしまっているのだ。
これを決定打として騎士団見習いを剥奪されてしまったとしてもおかしくは無い。
絶望にぎゅっと下唇を噛むと、追い討ちをかけるように口を開いたティナンが――くるりと身を翻した。
「明日の訓練は更に厳しくするつもりだ。
気を引き締めておくのだな」
きつい口調で扉を出て行ったティナンの姿に、ルディエラはがばりと勢いよく顔をあげ、呆然としながらそれを見送った。
更に厳しい言葉が浴びせられると覚悟しただけに、その呆気なさが信じられずに体から力が抜けてくれない。
明日の訓練……それはつまり、クビではないのだろうか。
なんだかキツネにでもつままれたような微妙な気持ちのまま、ルディエラはまたしても温かな癒しをカムに求めた。
ぎゅうっと首に腕を回し、切ない声が思わず漏れる。
「……ぼく、馬鹿だ」
――兄の甘言に踊らされてしまったと自らを嘆くルディエラだったが、その部屋のドアの前。
自分の胸に両手を当てて「寝台は、寝台は駄目だ、寝台は危ないっ」とぶつぶつつぶやいている第三騎士団隊長の姿は――ハタから見てもあぶなかった。
ルディエラが罠であったのかと悲しんでいるそのウラで、ティナンもあまりにも危険な罠に悶絶していたりしたのだが、幸いそれに気付くものは居なかった。
***
ぱしんっと乾いた音が響き渡り、ついでもう一発。
自分に気合を入れなおす為に両手で挟むようにして頬を打ちつけたルディエラは、ジンジンと熱のある痛みを訴える頬を両手で挟みこんだまま「っしっ」と小さく声を漏らした。
「おー、今日は調子よさそうだな」
自分の寝癖のついた髪をかきあげつつ言うベイゼルに、昨日の自分を反省したルディエラは拳を握って「はいっ」と応えた。
昨日の失態をなんとか取り返す為にも、本日は万全であらねばならぬ。
気合の入りまくるルディエラの様子に、第三騎士団副長ベイゼル・エージはいつも通りルディエラの頭をわしわしとかき混ぜようと手を伸ばしたが、ルディエラはすばやくそれをひょいとよけた。
「あ?」
「ほらほらっ、早く食堂行きましょう。朝ごはん食べないと筋肉だって衰えちゃうんですから」
そ知らぬ顔でベイゼルの横をすり抜けたルディエラは、そっと自分の胸を押さえ込んだ。
昨日の昼間、セイムの姉であるマーティアが届けてくれた荷物の中には、単純にコルセットを作り直したような胸当てが入れられていて、最後の仕上げにとマーティア自らサイズをあわせていった。
セイムが顔を出すものと身構えていたルディエラは、まさに肩透かしをくらったかのような微妙な気持ちになったものだ。
そしてまた腹がたつ。
あんなこと……正確にどんなこととは言葉にして伝えられないが、あんな気まずい状態になったのだから、翌日は何事も無かったかのように顔を出すべきだ。気まずい気持ちのまま、気持ちがもやもやとしたまま数日過ごさなければならないなんて冗談じゃない。
「どうしてセイムじゃないの」
腹立たしさにマーティアにやつあたりすれば、マーティアは相変わらずのオネエサン顔で苦笑してみせた。
「やっぱり喧嘩なさいましたね。
あの子ときたら、台所仕事やっておくから私にルディ様のところに行って欲しいなんて頼むんですもの。仲違いなさったならすぐに仲直りしなさいと言いましたのに。そんなんじゃない、なんて」
くすくすと笑うマーティアは楽しんでいるようで、ルディエラはますます不機嫌に顔をしかめた。
「喧嘩なんてしてないよ」
「あらあら、そうなんですか?」
「あれはっ、セイムがっ――」
それ以上の言葉が途切れて、ルディエラはふんっと顔をそむけた。
「とにかくっ、セイムに言っておいてよ」
言っておいてよ、と言いつつも何を言っておいて欲しいのか浮かばない。顔がどんどんとしかめられ、諦めたルディエラは唇を尖らせた。
「ばーか、って!」
ばーか、って……――思い返せば、そんな自分が馬鹿らしい。
どこの子供だ。
他に何か浮かばなかったのだから仕方ないかもしれないが、もうちょっと考えろ自分。ルディエラは嘆息交じりに廊下を歩き、食堂への途中、ベイゼルに先にいってくれるように頼み、自分は犬舎にカムを預けて――あずけた途端に犬達とカムとの間に物凄い緊張が走っていたが、いつものことなので気にしない――そのまま食堂まで行くと、丁度第二騎士団の第三分隊副長クロレルに遭遇した。
ぱっと意識を切り替え、笑顔がこぼれる。
「クロレル副長っ」
「やぁ、おはよう。具合は大丈夫? 昨日ベイに湿布を預けておいたけど――役にたったならいいのだけれど」
食堂のセルフ用トレイを手ににっこりと微笑むクロレルにある種の癒しを感じながら、ルディエラはにっこりと微笑んだ。
「ああ、やっぱり。あれってばクロレル副長の差し入れだったんですね。ありがとうございます」
――中を探ったら痔の薬まで入っていた為そうじゃないかと思いました、とはさすがに言わずにおいた。
相変わらずこの人はルディエラのことを痔主だと思っているのかと、その間違いを訂正したいところだがあいにくと痔主であると言い切ったのはルディエラ本人である。
世の中にはどうしようもないことが多々ある。
オトナの階段を涙をかみ締めてのぼるルディエラは――その時思い切り油断していたのだろう。
背後から近づいていたフィルド・バネットの気配に気付くのが遅れた。
フィルドはゆっくりと深呼吸を一つし、多大なる決意を秘めて、自分のキャラではないことは先刻承知で行動に移した。
久しぶりに見かけた可愛い後輩に対し、一般的な先輩が極自然に接するつもりで。
すなわち、背後から首のあたりに手を回しぐいっと抱き寄せて――ベイゼルですら絶対にやらない親密な動作に「よぅ、はよう」と気安く声を乗せ……ルディエラはその瞬間、相手の腕を引き抜き、ねじりあげ、そのまま引き倒していた。
「なっ、なっ、なっに、するっ――」
暖かな男の手が触れた瞬間、ざわりと全身から鳥肌がたつような感覚を覚え、その後はまさに本能のままに動いたルディエラだったが、あまりの反応に食堂がざわりと驚きの気配に揺れた。
「ちょっ、やだなぁっ。フィルドさんってば急に脅かすからっ」
ドキドキと早鐘をうつ心臓を抱え込み、かろうじて悲鳴を飲み込むことに成功した自分を内心で褒めていた。
黄色い悲鳴全快で叫んでいたら、フォローのしようがないというものだ。
片腕をとられて床に引き倒された当人であるフィルドは、両目を見開いて驚きを示していたものの、自分の行動が後ろめたかった為か、あわてて立ち上がり「いや、すまない」と謝罪の言葉を口にした。
「本当に、すまない。
そんなに驚くとは思わなかった」
「驚きますよー。あー、本当、突然攻撃されるかと思った」
はははっと誤魔化しつつ、自分達へと向けられた好奇のまなざしにルディエラはぺこぺこと頭を下げた。
「大丈夫かい? フィード」
クロレルが苦笑をこぼしてフィルドに声をかけ、けれどきっちりと「アイギルはこれでもよく訓練している少年だからね。突然の行動はよくかんがえなさい」とフィルドを諌めてみせる。
さすがに周りの視線が元に戻り、照れを隠すようにルディエラはテーブルにあるトレイを掴んだ。
「さっさと朝ごはんにしちゃいましょう」
今のは忘れて。
そうにっこりと微笑んだところで、ルディエラはざーっと自分の血の気が下がるのを感じた。
そう、それは先ほど同様本能的な何かで。
一瞬目に入った何かが、ソレを理解するより早く自らの危機を知らしめる。
自然と保身するようにトレイをぎゅっと抱きしめたルディエラだったが、敵は容赦というものを知らなかった。
「何の騒ぎかと思えば――あんたの隊の小競り合いか?」
野太い声がクロレルに問いかけ、クロレルは微笑んだ。
「いや、そんな大げさなものではないよ。
それより、貴方がいるのは珍しい――バゼル」
トレイをしっかりと抱いたまま、ルディエラはそぉっと、そぉっと精一杯気配を殺してゆっくりと足を動かし、相手に気付かれないようにぐぐぐっと顔をそむけて、その場から逃亡を図ろうとした。
「定期報告に来たんだが、早くついてな。朝飯をこっちでもらおうと思ったんだ。
ところで、そっちの赤毛――見習い隊員の隊服だな。こんなのいたのか?」
「もう二ヶ月以上前に第三隊に入ったんですよ。名前はルディ・アイギル――苛めないで下さいよ」
「そうかー、アイギルかぁ」
顎先に手を添えて「へー?」というバゼルは、「ぼく、失礼しまーす」と逃げ出そうとしたルディエラの腕をがしりと掴んだ。
「アイギルといえば、俺の親父の妹の嫁ぎ先がそんな名だわなー」
――ルディエラは悲鳴をあげたりしなかった。
幸いなことに全身鳥肌がたったりもしなかった。
だが、別の意味で叫びたかった。
バゼル兄さまでたぁぁぁぁっ。




