その3
キィっとわずかな蝶番の音に、マーティアが背を向けたまま嬉しそうに声をあげた。
「ルディ様、お戻りになられるならそう言っておいてくださらないと。
先に言っておいてくださいましたらパイの一つも焼いておきますのに」
そう言いながら、それでもルディエラの帰宅に大慌てでパンケーキを焼き上げ、その上を生クリームとフルーツとで飾り付けている。
単純なケーキの代わりだが、ルディエラはきっと喜んでくれることだろう。
「あ、ごめん」
しかし、そう口にしたのは弟のセイムだったことにマーティアは動作をとめて振り返った。
扉をあけて室内に入り込んだのは一人だけで、生憎とルディエラでは無かった。
「あら?」
先ほど馬で突然帰宅したルディエラを迎えに出たセイムは、かりかりと自分の即頭部をかきあげ、苦笑を見せる。
「悪い、姉さん。ルディ様寄宿舎に戻った」
もう居ないという台詞に、マーティアは丁度手にしていた林檎の欠片の行くあてを失い、最終的に自分の口の中に収めた。
楽しかった気持ちが途端にしぼんでしまう。
この屋敷には現在主筋といえる者がエリックしかおらず、どうしてもマーティアには物足りないのだ。
「あらあら、すぐ帰ってしまうなら、私もお迎えすればよかったわね」
先走ってデザートを用意した自分が少し空しい。
落胆したマーティアに、セイムは苦笑をこぼした。
「なんか――俺が悪いかもしれない」
ぼそりと言う弟に、眉を潜めて唇を尖らせる。
「喧嘩でもしたの?」
子供の頃から喧嘩を繰り返してきた二人だ。それでも、最終的には仲良くやれていて、何より最後の一線――主従としての一線、セイムはルディエラに折れてきた。だから最悪なことになることは無かったのだが。
「喧嘩じゃないけど。うん、なんか……」
セイムは肩をすくめ、それから笑った。
「ちょっとまずかったかも」
***
灰色狼のカムを自分の寝台に引っ張り込んだのははじめてのことだった。重いし暑苦しいし、基本的に愛玩動物という意識などもっていないから。
けれど今夜は違う。
ぎゅっとその首に抱きついて――ルディエラはしばらくの間そのままじっとしていたが、やがて不満そうに言った。
「おまえ……毛が硬い」
もふりとした柔らかな感触が今は欲しいのに。
あいにくと生粋の狼は体毛がとげとげしい。これでは癒し効果が半減だ――あげく抱きついたおかげで風呂上りだというのに獣臭くなってしまった。
深々と溜息を吐き出し、目を閉じる。
とたんに――いやなことを思い出してルディエラは更にぎゅうっとカムの首を抱きしめ、丁度カムの口元でぶらぶらと交差させた手の平をがふりと噛まれた。
「――これが男です。ねぇ、本当に、知っていますか?」
耳元で低くささやかれた途端、背筋にひんやりとしたものが走り、下半身がすとんと力を失った。
あんまり驚いたものだから、思考能力が完全に支配力を失いセイムの腕の中でもがこうにももがけずに混乱してしまう。
抱きしめられた腕が、よりいっそうぎゅっと力をこめて。
だというのに次の瞬間には、まるで冗談のようにぱっとそれが解かれた。無駄に熱をもった体に外気がふわりと触れて、一気に寒さが身を包む。
「とにかく、急に言われたって用意できるものとできないものってのはあるんですよ。明日には届けますから」
まるで何事も無かったかのようにセイムは言い、もう一度馬の手綱に指を絡めた。
ぽんぽんっと馬の横面をたたき、口角を引き上げるようにして笑みをこぼしてルディエラをひたりと見返す。その眼差しが、何故かとても嘲笑をにじませているように見えた。
それを受け止めきれずに、ルディエラはどぎまぎと我知らず一歩下がってしまった。
抱きしめられた体温だとか、力強さだとか、大きな手。かすれるような声とがぐるぐると頭の中で回っていて、心臓がいつもと違う速度でめぐる。
「ほら、こっち来て。
足、揉みほぐしてあげますから」
「いいっ」
ちょいちょいと招かれた指先に、何故か更に体温が上がる気がして、慌てて声が出ていた。
「いいっ。もう戻る――突然来てごめんねっ」
一言一言が突飛な音で跳ね上がる。
壊れた楽器みたいに無様に。
「でも」
「いいからっ。じゃあっ」
早口で言いながら、相手の手にある手綱をひったくるようにして掴み上げ、普段ではありえないくらいもたもたとした動作で馬上に乗り上げると、ぐいっと乱暴に馬首を巡らせた。
まさに脱兎の如く逃げ出した自分が恨めしい。
あんなの――よくあることじゃないか。
兄さま達だっていつもぎゅっと抱きしめてくれる。セイムに抱きしめられたことは……あまり覚えていないけれど、子供の頃からの付き合いだ、きっと何度か経験はある筈だ。
何より、アレに意味はない。
きっと、ちょっとした悪ふざけだ。
そう思うのに、腹の中で何かがぐちゃぐちゃと暴れている。
ありていに言えば――ぬるりとしたなまずっぽいものが数匹腹の中でもがいているかのように気持ちが落ち着かないし、気持ちが悪い。
「おーい、ぼけなすいるか?」
突然、カーテンの向こうから同室のベイゼル・エージの声がして、ルディエラはわたわたと意味不明に慌てた。
「は、はいぃっ」
「おう、いたいた」
返事を受けたベイゼルが「あけるぞー」という言葉と同時にお互いの寝台を隔てる為のカーテンをばさりと開く。
「ほれ。湿布――つか、おまえ手ぇ食われてるぞ? 痛くないのか?」
ひらひらと湿布が入っているらしい布袋を振ってみせるベイゼルは、気安い調子でルディエラの足首をひょいっと掴んだ。
「たくっ、無茶すんなよ。少し揉みほぐしてやろうか?」
生温かい大きな手が寝台の上に伸ばされた足首を掴む感触に、ルディエラは歯を食いしばるようにして言った。
「ぎ」
「ぎ?」
「ぎゃあっっっっ」
とどろく悲鳴におどろいて、ベイゼルが慌てて手を引っ込める。更にルディエラに寄り添っていたカムが突然の悲鳴にむくりと体を起こし、ぐるると喉の奥を鳴らして臨戦態勢に入り、真っ赤になったルディエラは慌ててカムの首を押さえ込んだ。
「すみませんっ。ちょっと痛くてっ」
ベイゼルの手が掴んだ場所が激しい痛みを訴えた――かのように慌てて取り繕ったルディエラだが、自分の心臓が激しい鼓動を打ちつける事態に心は半泣き状態に陥っていた。
――触れられた途端に湧き上がった動揺。羞恥。
どうしようもないくらいうろたえて、自分で自分を制御することもできずに咄嗟に悲鳴をあげてしまった。
今までそんな気持ちを抱いたことなど一度も無かったのに。
……これはいったいどうしたことだろう。
男の人に触れられるのが、無骨な手が、凄く……恥ずかしいなんて。
***
翌日の天候は晴天。
まさに訓練日和だというのに。
「ばか、ばか、ばーか」
ベイゼルは三連発でバカを繰り返し、朝食用のプレートを乱暴にルディエラの枕元に置いた。
「筋肉痛に熱まで出して動けないって、まぁお恥ずかしい」
「面目しだいもありません」
しゅんと寂しそうに落とされた言葉に、ベイゼルが眉間にくっきりと皺を刻む。
「隊長には言っとくから、寝てろ。いくらあの人が鬼だって、動けないモンを寝台から叩き落とすことまではせんでしょ。一応医者にもいっとこか?」
「お医者さんはいいです。ごめんなさい」
医者とはできるだけ御近づきになりたくない。いろいろと面倒なことになってはたまらないから。
大きく息をついたベイゼルが、無造作に自らのポケットに手を突っ込んでくしゃくしゃになった白手を引き出す。
「昼飯も届けてやるから、ちゃんと食えよ?
飯の横にある薬包紙の中身は解熱剤だから。熱が高くてぼぅっとするなら飲んどけ」
「すみません」
謝ってばかりのルディエラに、ベイゼルは白手をきっちりと指に装着すると、すいっとそのままルディエラの頭の上にぽんっと置いた。
途端、ルディエラは体が硬直するのを感じ、昨夜のようにみっともなく悲鳴をあげてしまわないように、ぐっと奥歯をかみ締めた。
ぽんぽんっと、二度。
それはいつもとかわらない所作。
最後にくしゃくしゃと短い髪をかきまわして「じゃ、寝とけよ」と言葉を押し付けるようにしてベイゼルは部屋を出て行った。
つめていた息をゆっくりと吐き出し、何かにすがるように自分の寝台の枕辺で身を伏せているカムにはりつく。
ちくちくとした体毛に「うっ」と小さく呻きつつも、それでもその暖かさと力強さに救いを求めながらルディエラはぼやいた。
「なんなの、これ」
熱のせいか、思考回路は相変わらずぐちゃぐちゃとしているし、足は揉み解されてもいないから痛みがちくちくと神経を刺す。
泣きたいような気持ちのまま、それでもこのままではいけないとずるりとした体を引き起こし、ルディエラは昨夜ベイゼルが持ってきてくれた湿布に手を伸ばした。
袋の中には包帯とガーゼ、それに軟膏とヘラ。
嘆息しながらガーゼに軟膏をぬりたくり、昨夜自分で貼り付けた湿布をはずして新しいのと取り替える。
薬草を練りこんだ軟膏の冷たさに、足がジンジンと痛みを訴える中、ルディエラは肩を落とした。
「本当に――なにこれ」
どうしてこんなことになったかといえば、悪いのはセイムに違いない。
あんな風に抱きすくめられて、なんだかおかしな気持ちになってしまった。
「そもそも!」
ずるいんだよ、セイムは。
背が伸びたとか言ってルディエラを喜ばせたが、実際はセイムのほうがずっと背が伸びてるじゃないか。それこそ、昔はどっこいどっこいだった癖に。そりゃ、まぁ、年齢的な問題でわずかにセイムのほうが背は高かったけれど、昨日気づいた。絶対に頭一つぶんくらいセイムのほうが高い。
肩幅だって広くなってた。
そうむかむか考えながら足に包帯を巻きつけ、ぶつぶつと悪態をこぼしていると――なんだか元気を取り戻したような気がした。
セイムが悪い。
とりあえずもうそれでいいや。
ご飯食べて寝よう。
脳筋ルディエラ、考えると知恵熱がでる。
***
カムのうなり声で目を覚ましたルディエラは、寝台の足元――部屋の出入り口側に立つ人の姿にあわてて体を起こそうとして、それがティナンだと気づいて血の気を引かせた。
「隊長っ」
うわっ、うわっ、うわぁぁぁぁ。
腕を組むようにして眉間に皺を寄せたティナンが、一文字に結んでいた唇を溜息で解く。すると、その瞳が厳しさを緩めた。
「だらしない」
「……すみません」
「騎士たるもの、自らの体の体調管理も大事な鍛錬の一つだと知りなさい」
「はい」
わたわたと上半身を起こすルディエラに、ティナンは枕辺のほうへと近づき嘆息を一つ。そして、白手に包まれた指先をすいっと伸ばし、ふいにルディエラの目元に触れた。
「え……あの?」
「泣いていたのか?」
「いや、そんなことは?」
泣いていた覚えはないのだが。
けれどどうやら目元には涙の跡がくっきりとあるらしい。ティナンは幾度か溜息を落とし、ふいにその口調を変えた。
「見習い期間も残り二週間を切った。
一つくらい褒美があってもいいだろう――何かあるか? 今だけ、何でもきいてあげるから」
その口調は紛れも無く兄の言葉で、ルディエラは驚きに目を見開いた。
見習いとして騎士団に来て以来ずっと鬼隊長を貫いていた兄が、今は確かに優しいティナン兄としてその場にいるのだ。
嬉しくて抱きつきたい気持ちになった。
でも、はたりとその思考がとまる。
どうしよう――大丈夫だろうか?
男の人に触れられるのも、なんか気恥ずかしい気持ちになるというのに。
今兄に抱きついて、うぎゃあっと悲鳴をあげてしまわないものだろうか。
いや、だからこそ兄で試すべきだろう。
ほかの男性で試すのも難しそうだ。
あまりよろしくない思考回路をなんとか接続しまくり、ルディエラは「本当に何でもいいですか?」と上目遣いで兄に確認をとった。
すでに鬼隊長の殻を脱いでいるティナンがふわりと笑む。
「遠慮はいらない」
安堵したルディエラは嬉しそうに言った。
「じゃっ、兄さまぎゅっとして」