その2
撃沈――そう、その言葉がよく似合う夕刻。
昼間の間聞こえていた喧騒も潜み、針葉樹の森の向こう側がにじむようなオレンジ色に染まり始める。
第三騎士団出戻り騎士見習いルディ・アイギルは王宮及び騎士団隊舎敷地内を延々走り続け、ペース配分も虚しく地面に沈んだ。
ほんの半月程度第二隊で過ごしただけだったというのに、その基礎訓練の量は大きく違っていたし、何より初っ端からただひたすら走らされるという訓練に、体が悲鳴を上げていた。
「おうっ、生きてるかー?」
息が上がって喘ぐような息遣いだけが口から吐き出され、投げ出された四肢のうち、億劫そうに腕だけを持ち上げて僅かな太陽光すらさえぎるように目の上に置く。
肺すら痙攣しているのではないかという痛み。
上下する胸に流れる汗。
足ががくがくと痙攣する久しぶりの感覚に、ルディエラは眩暈すら覚え――突如その上に、勢いよく何かが投げつけられ、その冷たさと痛みのようなものに混乱した。
打ち付けられたものが一瞬何だかわからず、慌てて体を起こそうにも筋肉が悲鳴を上げる。
ばしゃりと弾けるな音をさせ、全身を一瞬のうちでぬらした、そう水。冷たい水は熱をもった体を突き刺すように降り注ぎ、落ちた。
大きく瞳を見開き、目元を覆った腕をはずせば今度はばさりと布がかけられ――慌ててもがきながらそれをはずせば、自分の隣に立つベイゼルの背が見えた。
「やりすぎでしょうに」
「訓練ごときでつぶれるヤツが役に立つか」
鋭い声は第三騎士団隊長ティナンの声で、ルディエラは上半身をあげた状態で現状を把握する為に何度も瞳を瞬いた。
――まず、そう……確かに水が掛けられた。それも結構な量。
額に髪がはりついているし、跳ねた前髪から滴る水分は汗だけでは無い。
空になった水桶をその場に放り出したティナンは、冷たい表情のまま淡々と言った。
「まだ時間は終わっていない。アイギル、立て」
「隊長。個人的な虐めとかってみっともないすよ」
「誰が虐めだ。これは訓練だ」
ティナンとの間に入ってくれているベイゼルに感動しつつ、ルディエラは額に手を当てて勢いよく前髪をかきあげた。
――体が痛む。
足の裏の薄皮がべろりとむけているだろうし、大脚四頭筋と下脚三頭筋がぴりぴりと電流を走らせている。
まさに今、筋肉は喜びの声をあげている!
発達しているとか今まさに乳酸が出ているとか、そんな感想に浸っている場合ではない。
「もう一度言う。
訓練は終わっていない。ぼさっとしていないで立て」
傍若無人な調子の言葉だが、ティナンの言葉も理解できた。
訓練ごときで潰れていては、有事に対応できる訳がない。
ティナンは間違っていない。何より――このところ訓練らしい訓練をしていなかった為に自分の体がなまってしまっていたのは事実で、少し前の自分であればもうちょっと対応ができていた筈だ。
なまっていた体の配分を完全に間違ったのは自分だ。
体力作りのあとには隊長自ら訓練してくれるという言質までとっていたというのに、間抜けすぎる。
ルディエラはぐっと拳を握りこみ、自分の上に掛けられた上着を引き剥がして地面に放り出すと、なんとか立ち上がった。
「はいっ」
奥歯をかみ締めた声で元気に言い、ティナンと自分との間に立つベイゼルの体を押しのけるようにしてティナンの前に立ったルディエラだったが、鋭いティナンの眼差しがゆるゆると別のものに変化していくことにゆっくりと眉を潜めた。
当初はいつも通りの厳しい隊長の顔をしていたというのに、ルディエラの顔を一瞬とらえ、ついでふと下へと向けられた顔がこわばり――呻き、みるみるうちに赤くなったかと思えば、ふいにその手を伸ばしてルディエラを抱きしめた。
は――?
一瞬のうちにティナンとは間逆の真っ白になったルディエラだが、ティナンはルディエラが先ほど放り出した上着をきょろきょろと探し、持ち主であるベイゼルが嘆息混じりに拾い上げ、ほいっと渡されるままにひったくるようにして奪うと、体を引き剥がしてルディエラの胸元にぐいと突きつけた。
「もういい。風呂に入って着替えろ」
「え、あのっ」
厳しい口調で命じたその後、ティナンは小さな消え入りそうな声で囁いた。
「いいから、下がれ――胸、透けてるからっ」
早口で言いつつ、ティナンはくるりと身を翻すと逃げだすように去っていき――残されたルディエラは眉根をぎゅっと寄せて、胸元に押し付けられた上着をそっとはずしてそこを確認した。
普段であればシャツの下には鎖帷子をつけている。だが、昼休憩の後に通常装備とコレは違うと判断してこっそりとはずしてしまっていた胸は――水を掛けられぺったりとシャツにはりついていた。
以前はセイムに洗濯板だの何だのと暴言を吐かれていた胸は、当人の意思に反して自己主張をしていた。あくまでも控えめにだが。
それでも明らかにふっくらとした女の胸だと理解できる現状にざぁっと血の気が引いていく中、自分が胸にもう一度押し付けた上着が誰のものかを思い出し、ルディエラは慌てて振り返った。
「ふくっ――」
ちょーっという言葉は途中で途切れた。
ティナン同様、ベイゼルは何故かその場から消えていた。
***
前髪と、頬とを水滴がつっと流れて落ちた。
にんじんとまで呼ばれる明るい髪色がぬれて更に際立ち、水気で艶やかさを増して首筋に張り付く。
一日鍛錬に付き合わされたよれよれになったシャツも水気を吸い上げ、波打つようにして素肌にはりつく。
決して質の悪い生地ではない薄手のシャツはくっきりとその体の形をあらわにした。
「ティナンっ」
突如呼ばれた声にびくりと反応し、ティナンはかつかつと歩いていた足をくるりと返し、思わずその勢いのまま自らの殿下に抱きついていた。
「なっ、何だっお前っ」
「殿下っ、殿下っ、殿下ぁっ」
「気色悪いっ、離れろ。というか、何でお前ぬれてるんだ」
ルディエラの濡れた体を隠そうと思わず抱きついてしまった為、その水分で自分も濡れていたティナンは第三王子殿下キリシュエータに嫌がられたが、そんなことには構っていられない。
激しい動揺が自分を侵食していて、泣きそうな気持ちでティナンは搾り出した。
「どうしましょう、殿下っ」
「なんなんだ、お前はっ」
「――ルディ……女の子なんですけどっ」
突然意味不明なことを言われたキリシュエータは、素で「は?」と奇妙な音を漏らしてしまった。
ルディエラが女の子であるのは知っている。
何より、アレの兄であるティナンの台詞としてそれはいったい何なんだ?
「ちっちゃかったぼくのルディがいつの間に女の子になっているなんて……おにいちゃんは嬉しいのか悲しいのかもう、というか、もうどうしたらいいのか」
「どうもこうも……」
もとからアレは女だろう。
「だってルディに胸があるんですよ」
「……」
錯乱中のティナンは、がばりとキリシュエータから体を引き剥がして――拳を握り締めて力説した。
両手の平を湾曲させて――
「いや、小ぶりですけどね。
形は悪くないんじゃないかな。いえいえいえ、そんなはっきりと見ていませんよ? 凝視とかそんな恥ずかしいことしてませんってば。それに布越しでしたし。
ああっ、でもこういう成長は突然突きつけられるとお兄ちゃん困っちゃいますよ。どうしたらいいのでしょうか。お祝いしたらいいのですか? 二次成長ばんざい? 何か違うような気がするんですが、でも嬉しいやら切ないやら」
どうしましょう?
というティナンを、キリシュエータは握りこぶしで一発殴りつけた。
今まで部下を殴ったことはなかったが、なんとなく今は許されるような気がしたのだ。誰だとて害虫を見れば叩き潰すあの感覚と似ている。
一寸の虫にも五分の魂などというが、おそらくこの面前の害虫はそれ以下だ。
「なっ」
「黙れ。腐れ兄――お前とアレは兄妹だからな。おかしな思考回路を切り替えろ」
低く唸るように警告しつつ、キリシュエータは気付いていた。
――自分も、アレと兄妹かもしれないのだと。
ティナンに対して変態だのヤメロなどと言いつつ、その言葉がそのまま自らに突き刺さる。まさにブーメラン。
挙句、アレが自分の妹、もしくは姪かもしれないと思えばティナンのおかしな暴走が激しく腹立たしい。しかも、この腹立たしさは二倍なのだ。
自分の妹に対しておかしな目を向けるな。
お前が兄ではなく、自分が兄なのだ。
あの子は――私の妹なのだ。
という兄としての憤り。
そしてもう一つ――好きな娘を他の誰かに語られる不快さ。
うらめしい眼差しで殴られた箇所をなでているティナンに、キリシュエータはふんっと鼻を鳴らした。
「お前の弟――【賢者の塔】にいるルークからの連絡は無いのか?」
「いえ、まったくありませんが。
また召喚状を出しましょうか?」
どちらにしろこのような生殺し状態で生きているのは辛すぎる。
妹、もしくは姪であると証明されるのであればこの気持ちは――きっぱりと捨て去ろう。
愛だの恋だのとそこまで深い感情ではない筈だ。
まだ大丈夫。
ただ、あの子が気になり可愛いと想い、好いていると感じる。
その想いを全て肉親の情へと転化させるなど今ならまだ簡単なことだろう。
それこそ、その時は晴れて兄でも妹でも無いということになるティナンを応援してやってもいい。
「ああっ、殿下。ぼく気付いてしまったんですがっ」
「何だ」
ティナンはハっと息をつめ、何故かきょろきょろと周りを確認して声を潜めた。
「今日、訓練中のルディに頭から水をかけちゃったんですけど、女の子ってむしろ全裸より服が濡れて体に張り付いているほうがドキドキしちゃいますよね」
「誰がお前の応援などするかっ!」
絶対に許さん。
というかむしろ邪魔するべきだろう。
***
セイムにさんざんまったいらと呼ばれ続けた胸が、確かに成長している。
女の子としてのルディエラは勿論セイムに向けて自慢したい。いやむしろなんとなく「ざまーみろ」な感じだが、あいにくと今現在そんなものが成長しても嬉しい訳がない。
カチカチの胸筋ならともかく、触れればなんだかマシュマロみたいに柔らかいのだ。
包帯のようなもので覆い隠せば成長は止まるものだろうか。
成長を止めるのも大事だが、今日のようにふいに胸のふくらみが他人の目に晒されるのはあまり好ましくない。
などと考え、ふとルディエラは自分の頬に熱が集中するのを感じた。
兄さまに見られた……
いや、兄さまは兄妹なのだから体を見られたって別に大騒ぎすることではないはずだ。体でいうなら、以前第三隊の大浴場でベイゼルやらフィルドやらに尻を見られたことだってある。あれは恥を通り越してもはやものすごい黒歴史だが。
今日は――兄からの特別訓練を受け損なったし、なんかもう散々だ。
体のあちらこちらが引きつっているような気さえするし。
ルディエラは外出許可を得て馬を駆り、郊外の更にはずれにある自宅へと辿りつくと大きく溜息を吐き出した。
突然の馬の嘶きに、家の離れからセイムが慌てて出てきて馬の手綱を預かる。
「ルディ様? どうしたんですか」
不思議そうに見上げてくるセイムに、ルディエラは眉間に皺を刻み込みながら下馬して言った。
「ごめん、体痛いから揉み解して。足が酷いんだ。
このままじゃ明日の訓練動けないし――それとね、セイム」
「はい」
セイムは馬の顔を軽く叩きながら優しい表情で小首をかしげ、いつもと同じように手を伸ばしてルディエラの髪をくしゃりとかき混ぜた。
「身長伸びていますね」
「伸びてる? やった。
ああ、でも胸も大きくなってるんだよ。もう板切れとか言わせないからなっ」
威張って言うルディエラの得意げな顔に、セイムは口元を引きつらせた。
「ああ、そんなことより。
女の人って胸につける下着とかないのかな。包む感じのやつじゃなくて押さえるようなのが欲しいんだけど。まったくイヤんなっちゃうよ。
ああ、そうだ。そろそろ月一のお客さんも来るんじゃないかな。手当て用の道具も揃えてもらわないと。あーめんどうくさいなっ」
ぼやくルディエラの前で、セイムはふかぶかと溜息を吐き出した。
「ああああああっ、もうっ。
俺にも女の子に対する夢があるんですよ。
こうがらがらと音をさせて破壊するのやめてくれませんか?
恥じらいとか羞恥とかって言葉をぽいぽい捨てるのはやめて下さいよ。
そもそも、どうして俺に言うかなっ。
俺だって男ですよ」
「いや、男なのはちゃんと知ってるよ。
子供の時に一緒に川遊びとかしたし。凄い兄さまに怒られたけど」
六つか七つの頃の話だが、それでもすっぱだかで二人で遊んでいるのを発見されてバゼル兄にめちゃくちゃ怒られた記憶がある。
何より、セイムを女などと思ったことなど一度もない。
真顔で言うルディエラに、乾いた笑いをこぼし、セイムは自らの内を切り替えるように大きく息を吐き出した。
手綱をつかんでいた手を離し、ルディエラの二の腕を捕らえると引き寄せる。
ぐいと力を軽く込めて、しっかりとその体を自分の腕の中に閉じ込めて――完全に密着した体を更に隙間なく埋めるように強く抱き、耳朶に唇を触れさせるように囁いた。
「これが男です――ねぇ、本当に、知ってますか?」