その2
「あ、ごめん。気をつけて」
その一言がもうちょっと遅ければ、おそらくばくりと咬まれていた事だろう。
セイムは持ってきた荷物を抱え込み、生来の俊敏さでもって横に退いた。
勢いよく大きな口をあけて空を咬んだ生き物は、恨めしそうな胡乱な眼差しでセイムを見上げ、そしてセイムは更にそれと距離をとって「何です、これっ」と思わず上ずった声をあげていた。
一目見ればそれが犬ではなく狼の類だというのは判る。
鋭い眼差しと決してもふもふとした柔らかとは言いがたい針葉樹のような体毛。そして小さいながらもがしりとして俊敏そうな体躯。
眼力だけで人をびびらせる存在感――あくまでも小さいが。
「カム。咬むから気をつけてね?」
ルディエラは言いながらカムと名づけられたちびすけの手綱を引っ張り、きょろきょろと辺りを見回し一番遠い家具の足に紐を引っ掛け直した。
灰色狼は咬めなかった事が悔しいのか、紐でずるずると引かれたことが悔しいのか、遠く離れ身を伏せていても相変わらずセイムを睨みあげている。その迫力は、ナリは小さいものの、どうにも落ち着かない気持ちにさせられる。
咬むから気をつけてね――というルディエラの説明は自分が聞きたかったものでは無かったが、ルディエラにそれ以上を求めるのは酷というものだろう。
なんといっても察しは悪い。
軽く嘆息し、それでもセイムは自分の役割を思い出し、主から頼まれていた衣装を入れた袋を軽く持ち上げて見せた。
「次兄様が新しくもってきた衣装をいくつかお持ちしましたけど……ちなみに、聞いていいですか?」
セイムは灰色狼を気にかけつつ、更にもう一つ気になる存在をちらりと見た。
通された部屋は豪奢な個人用の居間だと思われる。
ルディ・アイギルの使いで来たと受付で言えば、いつもであれば騎士団隊舎へと行くように言われるのだが、今回に限っては案内役までつけられ、そのままこの部屋に通されたのだ。
出入り口には幾人もの護衛。
扉を開いたおりにも中を確認する護衛の異様な有様に、まるでルディエラは何かしら悪さをしでかしてとらわれているのではないかと不安を覚えた程だったが――中で顔を合わせたルディエラときたら、いつもと変わらぬ能天気。
「あ、こちらは第二王子殿下――リ……」
リ――の後たっぷり一拍。
ちらりと天井を眺め、あやふやな口調で言い足した。
「しぇいら、さま?」
「惜しい! リルシェイラだよ」
第二王子殿下リルシェイラは自分の名前を間違えられたことに激怒したりもせず、むしろにやにやと面白そうに口にした。
「自分の護衛対象の名前くらいはちゃんと覚えないと駄目だよー。
あ、もしかしてキーシュの名前も覚えてない? 上の兄上は? まぁ、覚えたところで言うこともないか」
それ以上の突っ込みは無かったが、ルディエラは皇太子の名前を聞かれなかったことにほっとした。
――さすがに第三王子殿下キリシュエータの名前は覚えているが、皇太子殿下の名前は覚えていない。リルシェイラの言うとおり、どうせ呼ぶことも無いのだからいいだろうが、こうして聞かれることがないとも知れぬので、今度きちんと覚えておいたほうがいいかもしれない。
何より相手はあの皇太子殿下だ。突拍子も無いところからにょろりと――なんとなくにょろりという言葉が似合う――現れ、何故かてれてれとしながら自分の名前を言うように言うかもしれない。
なんだかんだと自分の名づけ親らしいし。
ああ、なんだか本当に面倒くさい。三人揃って呼びづらい名前。
危うく自分もそのうちの一人に混じりそうだったことなど忘れて言いたい放題、ちょっと薄情なルディエラだ。
そんなルディエラとは関係なく、セイムは面前の相手が第二王子殿下であるといわれて恐縮したのに対し、リルシェイラはまったく気にした様子もなく、座っていた寝椅子からぱっと立ち上がり、ぱたぱたとあわただしくセイムの手から荷物を取り上げた。
「ちゃんと目立たない感じのヤツ持ってきてくれた?
うーん、ちょっと可愛すぎる気がするなー」
それは勿論、ルディエラの女装――女性用の衣装ときたら、まるきり当人の趣味ではなくて次兄であるバゼルの趣味だ。
レースだとかふわふわとしたものが大好きなバゼルの見立て、可愛くないものが存在する筈もない。
びらりと衣装を引き出し「ま、ドレスよりましかー」などというリルシェイラが理解できず、セイムはちらりとルディエラを見たが、ルディエラは同じように肩をすくめてみせるだけだった。
「あの、私はこれで――」
なんとなくイヤな予感がして早々に退出を願い出ようとするセイムに、しかしリルシェイラは手に持っているスカートの裾をひらひらとさせながらにっこりと微笑んだ。
「髪って結える?」
「は?」
「まぁ簡単でいいんだけどね。私は、ほら、髪が長いから。ある程度結い上げたほうがいいと思うんだよ。アイギルに聞いたら家人にいつもやってもらうから無理だって。ホントに女の子としてのスキルが無いね、この子ってば」
かくて、セイムは着付けと髪結いまでさせられたあげく、やっと解放されるかとほっと息をついた途端に「ついでに」と微笑まれた。
「一旦ココを離れたら、東の井戸のトコに来てくれる? 難しいことを頼むんじゃないよ。今夜は私の代わりに私の寝台で寝てくれればいいんだ。ああ、一人だと退屈でしょう? カム君もおいておいてあげるから、ちょっとお手でも教えていてね」
にこやかに言われる言葉に、とっさにルディエラを見るとルディエラは思い切り視線をあさってのほうに向けていた。
***
「で……なーにしてんのよ、おまいさんはっ」
声を殺して、それでも耳元で怒鳴ってやると、ルディエラはぎゅっと身を縮めて反論した。
「それをぼくに聞かないで下さいよー」
「くぅっ。他の誰に言えって?
第二王子殿下の逃亡に加担なんてしている場合じゃないっしょにっ」
「いや、逃亡ってほどじゃなくて。ちょっと夜遊びしたいだけだって。
それに……」
――だって、キーシュは良くて私が駄目というのは理不尽じゃないか。
というのがリルシェイラの言い分だった。
そういわれると確かに、キリシュエータはほいほいと居酒屋【アビヨンの絶叫】に顔を出したりするのだから、結構自由度が高いのだろう。それに対し、リルシェイラは夜遊びなどもってのほかなのだという。
人一人分離れた席で座っているリルシェイラだったが、当初こそ興味深そうに回りを見回し、ちびちびと酒を口に楽しげに眺めていたものだが、やがてあることに気づいてしまった様子で、ぐっと身を伏せるようにしてルディエラの肩口を引っ張った。
「アイギル」
「はいっ」
「ちょっ、大きな声出さないでよ。
あのさ、ちょっと気にかかることがあるんだけど」
更に身を寄せて言うリルシェイラの眉は綺麗に八の字を描いた。
「なんか……軍人、多くない?」
こそこそと身を縮めて辺りを見回せば、軍服や隊服、私服も混じってはいるが微妙な空気が漂う。
「――でも、ぼく飲み屋ってここしか知らないです」
またしても聞かれたこと意外の返答をするルディエラだ。
「女の子いないっぽいし」
実際はもっと歓楽街の方ならわかるのだが、そこまではさすがに連れ出す勇気が無かった。
「男臭いとこじゃなくて、もっと可愛い女の子がいるお店とかは?」
「ごめんなさい。本当にそういうのは判らないです」
――賭け事のお店ならもうちょっと判るのだけれど、やはりそれはもっと街の外れ、歓楽街になってしまう。というか女の子だと判っているルディエラに女の子のいるお店を紹介させようとしないで欲しい。しかも自分は絶賛女装中だというのに。
こそこそとやりとりを交わすリルシェイラとルディエラを疲れた眼差しで見つめつつ、ベイゼルは乾いた笑いを落とした。
「軍人が多いって、そりゃそうですよ。この店自体が王宮御用達みたいなもので、警備隊とか騎士団の連中しかいませんから。ちなみに、店主だって元々騎士団にいた人間ですよ」
「ちょっ、なんだってよりにもよってそんなとこにつれてくるかなっ」
「だーかーら、ぼく他に店知らないんですってば!」
ぎゃいぎゃいと二人で騒ぐ隣――ベイゼル・エージは肩を落とし、こちらを遠巻きにして見ている店主に持っているグラスを軽くふってみせた。
店主が軽くうなずくようにして視線を扉へと向けるのを確認し、ベイゼルはぐしゃぐしゃと自分の髪をかき混ぜ……
ここにいる自分はもしかして同罪なのだろうか、と、どこか絶望的な気分で魂を飛ばしてみた。
***
「で……?」
冷ややかなティナンの言葉に、セイムは正直に事のあらましを告げた。
「井戸に通じている隠し通路を通ってリルシェイラ様の私室に来て、そのまま中から扉を開いて報告した次第です」
「それで、それはアイギルの指示だと?」
「勿論、そうです」
セイムはリルシェイラの扉の前にいる護衛達にも同じ説明をし、こっそりと第二王子殿下の後をつけていくようにと頼んだのだ。
だがしかし、その後セイムは不審者として第三王子殿下キリシュエータの前に引き出され、勿論キリシュエータの隣にいるティナンに思い切り目をひんむかれた。
――うちの家人です……
そう口にしたティナンの台詞はセイムが今まで聞いたこともない程に絶対零度だった。
「どうしてもっと早い段階で言わないんだ、あのばかにんじんはっ」
はーっと思い切り息を吐き出すキリシュエータの一歩前、ティナンは厳しい表情でセイムを睨みつけた。
「おまえもです、セイム。何故一旦部屋から出た時にその場の警護に言わなかったんですか。おかげで問題が大きくなる」
――セイム。後で報告しておいて。
そうこっそりと囁いたルディエラの頼みどおりにしたのだ。
確かにはじめに言ってしまっておけば、第二王子殿下の脱出騒ぎなどもなかっただろう。だが、それはルディエラの望みではなかった。
「殿下を連れ出して何かあったら困るから、他の人にもちゃんと知らせておきたいとは思う。でも――殿下にほんのちょっと自由な時間を差し上げたいんだ」
「ルディ様が罰を受けたとしても?」
そっと言えば、ルディエラは少しだけ悲観するように眼差しをそらし、乾いた笑いを浮かべた。
「罰……あるかなー、ま、仕方ないよね。
リルシェイラ殿下、ぼくに友達になって欲しいって言ったんだよ? 考えてみたらぼく友達っていないし。でも、殿下の身の安全を計るのは当然のことだし――うー、板ばさみ」
どこかたそがれるような物言いに、セイムは嘆息してルディエラの短い明るい髪をくしゃりと混ぜた。
「おれは友達じゃないんですね」
「え?」
「いえ……できる限り殿下の安全を計りましょう。それで罰があったとしても、ま、なんとかなりますよ。おれもできる限りフォローしますから」
困ったような顔で最後に「ごめん」と囁いたルディエラの顔を思い出し、セイムはしかたがないと腹をくくっていた。
巻き込まれたことで面倒くさいことがあったとしても仕方が無い。
何故なら――相手はあのルディエラだから。
歩くご迷惑。
セイムは肩を下げるようにしてそっと息を付き、頭を垂れて僭越とはございますが、と口を開いた。
主のフォローのために。
「第二王子殿下のご命令にルディ様が逆らえないとしても仕方の無いことだと思います。これがルディ様にとっての精一杯の忠誠と思い、どうぞ今回の失態についてはお目こぼし願えませんでしょうか」
「連れ出されたのは第二王子殿下ですよ。
今度こそ騎士団からたたき出して――」
ティナンが声を荒げると、キリシュエータはティナンの肩に手をおきその言葉をさえぎり、その視線をセイムへと向けた。
「もう一度確認する。
お前がここですべてを報告したのは、ルディ・アイギルの指示だというのだな」
キリシュエータの言葉に、セイムは頭を垂れたまま「はい」と短く応えた。
「ふん。あの鳥頭が。少しは成長したではないか」
「殿下っ」
「ティナン、うるさく言ってやるな。確かにリルシェイラの命令であれば逆らうこともできないだろう。あいつは未だ見習いだし――元々第二騎士団の面々にはリルシェイラの言葉などある程度無視しろと言ってあるが、にんじんには難しかろう」
「ですが」
未だ何事か言おうとする副官の二の腕を親しげ叩き、キリシュエータは口の端をあげた。
「出るぞ」
「は……?」
「そうカリカリするな。
それより、あの莫迦の女装をとっくりと拝んでやろうじゃないか」
――第三王子殿下がふんっと鼻を鳴らした頃。
【アビヨンの絶叫】ではリルシェイラが「リーシェちゃん飲みまーす」と勝手に盛り上がり、ルディエラは大好きな煮込みをぱくつき――そしてベイゼル・エージは、
「ちょっ、一気飲みは駄目っすよ。
ああ、こらっ。アイギル。おまえそっちは酒だ。間違えんな、ボケっ。おまえは水でも飲んでろっ。
あああっ、リーシェ様。こぼれてますよっ」
しっかり保父さんとかしていた。