その2
久しぶりに見た父はやはり素敵だった。
翌朝、馬の背をブタ毛のブラシで丁寧に撫でてやりながら、ルディエラは口元が緩むのを必死で押さえ込んでいた。
父親のエリックはまさに鍛え抜かれた筋肉美を誇る。
騎士ではなく、もともとは傭兵であったという父はがしりとした体躯に無駄のない筋肉をしっかりと備え、またその一見重そうな体を音もなくしなやかに動かして獲物を捕らえるのだ。
ティナンはその点華奢な体躯をしている。
騎士団の人間はおおむね均整の取れた体躯をもっているが、ティナンは華奢だ。
何より、王族警護という役職である三騎士団の人間は見目麗しいものと定められているのだろう。
ルディエラにしてみれば、外見の美醜などまったくもって意味は無いと思っているのだが。
そう、人間何より大事なのは顔の美醜などではない。
人間にはもっと大事なものがある。
「何にやにやしてんだよ、喜色わりぃな」
丁度朝の馬慣らしから戻った副隊長が眉宇をひそめて馬房の入り口に立った。
その手首には鞭が引っ掛けられ、胡散臭いものでもみるように馬房内をぐるりと見る。
「いやぁ、昨日顧問に会ったんです」
「あ? ああ、エリックの旦那ね。そういやぁ、戻ったらしいな」
って、顧問といえばおまえの親父だろう。という突っ込みをベイゼルは飲み込んだ。だが、その顧問の話題はルディエラにはツボなのか、ぺらぺらと口を開く。
「かっこいいですよねーっ」
――おまえ、どんだけ親父好きだよ。
「あの筋肉。あの敏捷性。あー、ぼくもいつかああなりたい」
絶対にムリ。
うぉぉ、すげーっ突っ込みてぇ!
瞬時に頭の中で浮かぶ言葉に、ベイゼルは口元が痙攣するのを感じた。
「スゴイんですよ! 顧問、胸がぴくぴく動くんですっ」
死ね!
ってかオレを笑い殺す気か、この糞餓鬼。
おかしなもん想像させんじゃねーっ。
「いいなぁ、筋肉!」
うっとりと馬の筋肉を愛おしそうになでるしぐさに、ベイゼルは完全に引きつりつつ「おま、あんな筋肉だるまがいいのかよ」と、不用意な言葉を投げかけてしまった。
「失礼な!」
「失礼って」
「筋肉は正義ですよ! あの筋肉をどれだけの訓練で維持しているのか。断然あこがれる。たるみなんてないんですよっ。さわるとカチカチですっ」
筋肉は正義……
そう、人間に大事なのは顔の美醜ではない。筋肉だ!
興が乗っている様子のルディエラは、おもむろに自らの上着の袖をまくりあげ、ぐっと力こぶを作って見せた。
得意げに。しかもかなり。
「ぼくだって結構すごいんですっ」
「ぼく言うな」
そして止めろ。その、さぁ触ってみろという誘いは止めろ。ぷるぷると右手が勝手にその軽く盛り上がった二の腕に触れようと動くじゃねぇか。
「結構固いけど、でも顧問には全然おいつかないです」
ぷるぷると筋肉が弛緩する。
ちくしょうっ。何の罠だこの野郎っ。触れといわれれば触りたい。
ベイゼルは生粋の女好きだった。
女という性別であればたとえまな板胸であろうとも。いや、駄目だ。オレの好みはボン・キュ・ボン。
こんな糞餓鬼を相手になどしたら、心の恋人、事務補佐官ナシュリー・ヘイワーズ中尉に申し訳がたたん。
あくまでも心の恋人だが。
「オレは女が大好きなんだーっ」
「ぼく男です」
死ね、オレっ。
くぅっと悪魔の誘いにがしりと二の腕を掴み、ベイゼルは呻いた。
「うわ、固っ」
思ったより固い。
そして固いと言われたことに対してルディエラは嬉しそうに口元を緩めた。
「意外と鍛えてるんですよ」
「へぇ。今までどんな訓練してきたんだ?」
本来であれば女性特有のふにゃりとした柔らかさがある筈だというのに、いがいにしっかりと筋肉がついている。確かに男の筋肉には程遠いが、それでも脂肪ではなく筋肉だ。
ベイゼルは関心しながらふにふにとその筋肉をもみ、ついでゆっくりと手を移動して二の腕から下方へと手の平を握ってみる。
一般的にルディエラの年齢であれば女性特有のしなやかな指先であろうに、そこにあるのは多少固い指先と手のひら。
幾度も肉刺を作り、そしてまた潰して作られた意外にもしっかりとした手だ。
――貴族の令嬢とはまったく違う。勿論、娼館の女とは違う手触り。
ふむ、などと呟き考え深くにぎにぎと握っていると、突然「うわーっ」と背後、馬房の入り口から声が上がった。
「副隊長が男に走ってる!」
「やべぇっ、両刀使いだったか!」
「女好きはカモフラージュ?」
部下たちのふざけた物言いに、ベイゼルは脱力しつつも振り返って答えた。
「阿呆なこと言ってねぇで――」
「そうですね、阿呆なことを言っている場合ではありませんよ。訓練の時刻はとうに過ぎている」
ひんやりとその場の温度を確実に下げる平坦な物言いに、ベイゼルは思わず自分よりもずっと小さなルディエラの背中に隠れたくなった。
半眼を伏せるようにして奇妙な笑いを口元に貼り付けた上官は、ベイゼルをひたりと見つめていた。
感情の欠落したような顔で。
「ベイ、今日は天気が宜しい。中庭で稽古を付けてあげましょう」
「……うわー、楽しみだなぁ」
――切り刻む。
確実に隊長の目がそう告げている。
「く、組み手にしてもらってイイスカね?」
剣よりは死への階段が長い気がする。
「ぼくはどちらでもかまいませんよ」
――打ちのめす。
冷ややかに主張する眼差しの前では、天国の階段の長さなど、あまり大差はないかもしれない。