その4
さぁっと一気に血の気が下がり、頭の中が思考能力を停止させて真っ白に染め上げられた。
今!
今、いったいぜんたい何を口にしたのか。
面前に居るのは馬鹿――ではなく、部下だというのに、まるで女性を――いや、大雑把に言えば女性という種類だが決して認めたくないにんじんだというのに、まるで淑女を相手にしているかのように。
「……殿下?」
訝しいというように眉間に皺を寄せて小首をかしげてみあげてみるルディエラの様子に、さらに追い詰められるように焦りが競りあがる。
また少しだけ伸び始めた赤毛の先端がさらりと揺れて、まるでつぶらな瞳を持つうりぼうのように可愛らしい。
っていうか、かわいいのか。
これはかわいいのか。
うりぼうって、なんだ?
認識おかしくないか?
もう自分は駄目なのか。
もういっそのこと、病気だと診断してくれ! 宮廷医だろうと怪しげな下町のまじない師だろうと構わない。なんでもいいから病名をつけろ――完全な混乱が、第三王子殿下キリシュエータの次の言葉を濁らせていた。
だらだらと背筋を流れる冷や汗に後押しされるように、それでも必死に何かを誤魔化そうと、もう一度口を開こうとしたキリシュエータの心を挫いたのは、すっかりとその存在を失念されていた第二王子殿下リルシェイラ。
リルシェイラはルディエラと同じように眉をひそめて口を開いた。
「便秘?」
「……誰がだ。というか、何だ突然」
確かに病名をつけろとまで思ったが、便秘は決して認めない。
「いや、なんか変だから。
お腹の具合が悪い時、キーシュって昔っからおかしかったから。
ああ、それよりさー、せっかく買ってきたケーキが冷めちゃう。説教する気ないならもういいでしょ? 今日のは焼きたてのチョコレートケーキなんだよ。中にとろっとろの生チョコがたっぷりと入っているヤツ。フォークを入れるととろぉとろぉって生チョコが流れ出るんだよ。限定10コなんだけど、無理いって作ってもらったんだから」
いやぁ、王族って便利だよねぇ。
呑気にそんな下らないことを言う相手に、キリシュエータは思考能力を取り戻した。
ざっと引いていた血の気が今度は逆流するかのように流れ出す。
怒りという動力を真っ向から受けて。
「この馬鹿がっ。そんなくっだらないことに王族の名を使うなっ!
お前は阿呆か、この脳たりんっ。
権威が失墜するような愚かな行動は慎めっ」
血管がぶちきれるような勢いで怒鳴ると、リルシェイラは途端にルディエラの後ろにわたわたと回りこみ、背後からルディエラの二の腕を押さえて人間の盾よろしくキリシュエータの前に突き出した。
「王族の名前なんてこれくらいにしか役にたたないんだから、たまにはいいじゃないかっ」
「貴様の場合はたまにじゃないだろうっ」
挙句に果てに、これぐらいって何だ。王族の名を何だと思っているのだ、この馬鹿次兄は。
男二人の怒鳴りあいの間に挟まれたルディエラは、おろおろとしつつも両手を突き出すようにして仲裁に入った。
「あの、殿下――キリシュエータ殿下。このたびは、えっと、ぼ……私の落ち度で」
――いや、自分の落ち度ではないのだが。
一応とはいえ現在の主であるリルシェイラを止められなかったのだから、ここは自分が責めを負うべきなのだろう。
ものすっごい理不尽だが。
ルディエラがそんな心の葛藤を抱えつつ謝罪を口にすれば、キリシュエータは片眉を跳ね上げた。
「そうだ、おまえがっ――」
勢いのままに続けようとし、またしてもルディエラを直視したキリシュエータは喉の奥で言葉をぐっと詰まらせた。
殊勝に――多少理不尽そうな顔をしているものの、あくまでも殊勝に謝罪をしているルディエラの背後。
ルディエラの二の腕をがしがしとつかんで張り付いているリルシェイラ。
騎士隊員としては小柄なルディエラの背に、更に身を縮めて隠れつつ、顔をひょこりと出しているリルシェイラは、子供のようにちろりと舌先をのぞかせている。
更にぐわりと怒りが膨れ上がりそうな勢いが盛り上がった途端、かつかつという長靴が床石を踏む音と共に、冷ややかな声が割り込んだ。
「何の騒ぎですか、殿下方。
廊下で怒鳴りあうなど無作法なまね、関心できかねますが」
淡々と「殿下」と言いつつ、その声の主であるティナンは片手に何かの書類を持ち、じろりとルディエラを睨みあげ、そして睨まれた当人はぶるりとその恐怖に身を震わせた。
――うわぁぁぁぁ、兄さまっ。兄さまってば殿下よりぜんぜん怖いっ。
殿下に話しかけるなら殿下だけを見ていてよっ。どうして殿下に進言しつつ、その癖こっちをじっとりと見ているのさ!
――目は口程にものを言うとはよく言ったもので、ティナンのその口はキリシュエータ殿下を諌めつつ、雄弁なるその鋭い眼差しは思い切りルディエラに対して説教をかましている。
曰く――また何をしているんだ、おまえはっ!
じんわりと背筋にいやな汗を覚えつつ、リルシェイラの為の人間の盾となっているルディエラは誰が見ても完璧な敗北宣言を出していた。
「もう、もう本当に申し訳ありませんっ」
謝ったモン勝ちである。
すでに何に対して謝っているのか判らない。
それでもただひたすらに謝罪の言葉を口にする。
そうすることでこの場をしのげれば、ルディエラはいわれの無い謝罪だろうと何だろうといくらでもぶちかます。
すでに兄がひたすら怖い。
そんなルディエラをかばうようにリルシェイラは相変わらずルディエラの二の腕を背後から押さえながら面前に立つ二人に対し、非難の言葉を向けた。
「謝ってるんだから許してあげなよ。
苛めはみっともないよ。
いい大人、しかも上役なんだから寛容な気持ちでもって相手の心からの謝罪はさらりと受け取って、あとはにっこりと笑って許してあげるのが人間としての道だと思うな。
本人だってこんなに反省してるんだから」
実にもっともらしい口調で言っているが――
「で、アイギルは何をしでかしたのですか。あいにくと謝罪を向けられたところで、その謝罪の意味が私には理解できかねる現状ですが」
冷静に問いかけるティナンに、リルシェイラははたりと動きを止め、キリシュエータは引きつった笑みを浮かべた。
「悪いのは貴様だろうが」
何を偉そうに言っている!
***
ともすれば奇妙な音が口からもれた。
「くふっ」
「……」
「ぐふふっ」
にやにやと自然と歪んでしまう唇。剣先を潰した訓練用の剣を振り回しつつ、そんな薄気味の悪い笑いをこぼすルディ・アイギルことルディエラの姿は実に――不気味であった。
「真面目にやれよ」
たとえ恋に盲目になっている男といえども、惑わされたりしない程度には気色悪い生き物と成り果てているルディエラ――一応乙女。
ルディエラは突然の声に、待ってましたとばかりにくるりと振り返りつつ剣を振り回し、フィルド・バネットはそれを避けるべく飛びのいた。
顔を更にしかめて。
「うちの隊長って、ホント、かっこいいですよね!」
「――」
瞳をきらきらと輝かせ、手にしていた剣の切っ先を下へと向ける。さすがに地面に突きつけたりはしないものの、その扱いはあまりにも乱雑。鞘に収められていたら、そのまま寄りかかりそうな勢いだ。
「ぼくが第三隊隊長に叱られていたら、颯爽と現れたんですよ!」
そのティナン隊長もある意味颯爽と現れていた訳だが、今のルディエラにとって大事なのは素敵筋肉の固まり、麗しの第二隊隊長――アラスターである。
第三王子殿下キリシュエータからの説教の後、ティナンへとシフトしてしまったお叱りのその場に現れたアラスターは、身を寄せ合っている第二王子殿下リルシェイラと第二騎士団見習いであるルディエラの姿に、眉間に皺を寄せた。
「ティナン、私の部下に落ち度があったとしても、その叱責をするのは私の仕事だ」
手を引けと深いバリトンで発せられた言葉に、ルディエラは神を見た。筋肉教の教祖はアラスター隊長ではあるまいか。背中から後光がびしばしはしってさえ見える。更にその後光がアラスターのメリハリのある肉体美を更に際立たせるかのようだ。
あああ、もうちょっと日焼けして下さい。
オイル塗るといいらしいですよ、隊長!
アラスター隊長ってば無頓着なんだから、もったいない。
「ぼく第二隊の仕事は苦手だけど、アラスター隊長にはどこまでも着いていきます!」
「そんなに」
熱弁をふるうルディエラに、第二隊の先輩であるフィルド・バネットの眼差しは冷ややかを通り越して無に近い。
「そんなに」
「ん? 何ですか?」
「そんなにアラスター隊長が好きか?」
ぼそぼそと言われる言葉に、応えるルディエラはあくまでも無邪気だった。
「そりゃあ勿論! 隊長かっこいいし、何よりあの発達した後背筋の見事なことといったら。誰だって触りたい気持ちになっちゃうと思いませんか? 胸筋とか、きっとあれってばかっちかちに硬いんでしょうねー
大剣を振るときのあのフォームがなんとも素晴らしい」
うっとりと夢見がち――完璧乙女モードなのか、それとも腐れ頭なのか理解不能だが、ルディエラのきらきらとした瞳を上から覗き込むようにしていたフィルド・バネットは幽鬼のごとくふらりと身を翻した。
「あれ、フィルドさん?」
「――ちょっと休憩……」
よれよれと立ち去る男をきょとんと見送り、ルディエラは手の中の剣をくるりと返し、素振りに戻ることにした。
「筋肉、筋肉っ。目指せアラスター隊長!」
鼻歌交じりのおかしな歌を背に聴きつつ、フィルドは暗澹たる気持ちでふらふらと中庭を歩き、やがてその視界にがしりとした体躯の三十四歳、妻と死に別れて現在独身のアラスターを入れると、ぴたりと足を止めた。
「どうした? フィード」
「隊長……」
「具合でも――」
ぬぼぅっとした部下の様子に眉を潜めた大男は、気遣うようにそう口にしたのだが、気遣われた方は何を思ったのか、突然キっと相手を睨みつけ、指を突きつけた。
「負けません!」
「は?」
「負けませんからっ」
自分の言いたいことだけを告げて、足音も高く歩いていってしまう部下を見送り――筋肉番長アラスターは呆然とした。
「なんだ、今の?」
――おそらく、きっと……知らないほうが幸せ。
***
考えることは山とある。
他国との外交。防衛。自国内の小さな小競り合い――だから、おかしなことなど考えている暇など本来ならある筈は無いというのに。
ああ、本当に平和だよな。
自分の執務室に戻った第三王子殿下キリシュエータはうんざりとしつつ、自らの髪に指を差し入れて肩を小さく震わせた。
そう、自分はたかが小娘などに振り回されていていい立場には無い。
ついでに言えば、馬鹿兄リルシェイラの逃亡にいちいち反応してやらなければならないのもシャクに触るし――何より。
何故にいつの間にかあの二人は仲良くなっているんだか。
四六時中あの馬鹿リルシェイラはルディエラの腕やら肩やらを掴んでいたのはいったい何事か――もちろん、ただリルシェイラは純粋にキリシュエータから身を守る為にルディエラを盾にしていただけなのだが、その程度のこともなんだか気に障る。
考えれば考えるほどに果てしない場所にいきそうな思考回路を中断させ、キリシュエータはばしりと執務机を叩いた。
「――判った」
苦痛のように震える声で呻き、そして体を起こして突きつける。
「言いたいことがあるなら、言え!」
反対側にある応接用の椅子で能面顔になっている自らの副官にびしりと言えば、騎士団第三隊隊長ティナンは不要になった書類をぴりぴりと一枚づつ丁寧に引き裂きながら「ただ見ているだけですのでお気になさらず」とさらりと言った。
そう、先ほどからじっと見られている。
凝視だ。
イライラとした雰囲気を垂れ流し、何故か細かく細かく紙を引き裂き、冷たく上官を見る。ただじぃっと見続けるという、それだけの所作なのだが、あまりにもうざったい。
自らこそが色々と問題を抱えている時ならばなおさらだ。
――まるでこちらの心を覗き込もうとしているのでは無いかという程の視線に耐えられず、キリシュエータは剣呑な眼差しを返した。
「言いたいことがあるのだろう?」
「とても個人的なことですので」
「いいからっ。言いたいことがあるなら、言え」
「職務に反するかもしれません」
「かまわん」
ぽんぽんと言葉を応酬させると、ティナンは言質を得たりというように、そのままの勢いで言った。
「ルディを返してください」
「イヤだ」
――さくりと返答したキリシュエータは息を飲み込み、言われたティナンは冷たく細めていた瞳を瞬いた。
血の気が一気に下方へと流れ、体温がざっと下がっていく。
自分の口にした言葉の意味を求めるかのようにキリシュエータは唇をあわてて動かしたが、それはもつれて奇妙な発音で飛び出した。
「え、あ、ちょっとまて。
いったい何の話だ?」
「ぼくの隊にルディを戻して欲しいという話ですが――殿下? 顔色が悪いですよ?」
顔色が悪い?
否――もしかして自分は頭が悪いのではないのか?
キリシュエータは半ば本気でそう思った。