その4
たかが数日で騎士団第二隊に異動となってしまったことに後悔を感じていたルディエラであったが、もちろんイヤなことばかりではない。
品行方正といわれる第二隊の人たちは寡黙な人達ばかりだとか、第二王子殿下リルシェイラは何を考えているのか判らないとか、フィルド・バネットがなんだか微妙だとかという話をすべて一まとめにして捨ててしまっても良い程にルディエラを歓喜させる事柄だってあるのだ。
「あああ、アラスター隊長の体っていいなぁ」
思わずこぼれてしまった心の本音に、クロレルは口元を引きつかせ、フィルドはぎょっとした様子でルディエラを凝視した。
「どうやったらあんな筋肉が発達するんだろう。ぼくだって涙ぐましい程の努力を繰り返して、やっとお腹の腹筋がちょっぴり判る感じだけど……アラスター隊長ってきっと脱いだら凄いですよね」
「おまえ、あんなのが好みなのか?」
「あんなって、失礼ですよ、フィルドさん。
そもそも、あそこまで素敵な体を維持するのは本当に大変なんですから。顧問なんか最近脂肪がついてきちゃって、中年太りとかって見苦しい! そのてんアラスター隊長は完璧です。もう、どうしてあの体を隠しておくんでしょう。
ああいうのは世界平和の為に惜しみなくさらけ出すべきですよ」
硬そうな盛り上がった二の腕。
隊服の下に隠されていても、皺のひとつひとつで判るその完璧な筋肉。
きっと腹筋ときたら蟹の甲羅もかくやの如くに割れていることだろう。水でも流したら峡谷のせせらぎまで聞こえてくるに違いない――自分でも意味不明。
「筋肉達磨じゃないかっ」
苛々とした口調で言うフィルドを、ルディエラは生あたたかな気持ちで眺めた。
筋肉のよさが判らないとは、なんという残念な人だろうか。
というか、世の中には残念な人が多すぎる。
あの張り詰めた完璧な体を理解できないなんて!
「筋肉程すばらしいものは無いですよ。ああ! フィルドさんってば本当の筋肉に触れたことが無いんでしょう? アラスター隊長の筋肉触らせてもらえばいいですよ。絶対に感動しますからっ」
というか、ぜひともぼくが触りたい。
くっきりと割れた筋肉と筋肉の間の筋。盛り上がった筋肉と、時折走るはっきりとした血管。こんがりと健康的に焼けた肌を流れ落ちる男らしい汗――
「おまえ、本気なのか?」
まるで病人でも眺めるかのような視線に、ルディエラはむっと唇を尖らせた。
「筋肉の良さが判らないなんて、人生の半分以上損していますよ。フィルドさんってばかわいそうですね」
先日、嫌われているのではないかとちょっぴり落ち込んだルディエラだが、それがどうやら誤解であるらしいことはクロレルの尽力によって晴れた。フィルドは「嫌ってなんかいない。むしろ好きだ」と真剣に訴えてくれた程だ。
何にしろ、嫌われるより好かれているのはありがたい。
ただ最近ちょっぴり気になっているのは――フィルドはどうやらベイゼルが普通以上に好きらしい。
それって、つまり、きっと、
大好きなベイゼルに迷惑ばかりかけているルディエラが、時々嫌いになったりするのかもしれない。
人間関係というのは複雑で難しいのだ。
まぁ、そんなどうでもいい情報はさておき――筋肉の良さが判らないフィルドは可哀想だ。
これは是非とも筋肉の良さをフィルドには理解してもらい、これからはもっと豊かな人生を歩んで欲しい。
一般論として可哀想なのはどう考えてもルディエラだったが……惚れている相手がルディエラである時点で、フィルドのほうがずっと可哀想なのかもしれない。
「お前らっ。人が話している時に何の話をしているんだっ」
朝――騎士団第二隊の隊長であるアラスターは、地の底から響くような怒号でその場を制したが、言われたルディエラはうっとりとした眼差しを返してくる為、アラスターは喉の奥で呻いた。
……なんだか判らないけれど、気持ちの悪い見習いにシャツを脱がされそうな貞操の危機を感じているアラスター隊長の最近の一日はこうしてはじまる。
***
「頭が痛い……」
第三王子殿下キリシュエータの朝は早い。
王族ともなれば昼頃に目覚めてのんびりとした生活をしていそうなものだが、キリシュエータは自らの職務上、おそらく王族の中で一番目覚めは早い。
第二王子殿下リルシェイラに至っては、王家と国民の安寧の為に夜明けと共に禊をすませ、朝の祈りをささげるという宗教上の勤めがあるのだが――完全に無視している為、その目覚めは誰よりもゆっくりである。
「二日酔いですか?」
本日の予定の点検をしているティナンは、ぺらぺらと書類をめくりながら問いかけた。
「違う」
キリシュエータは言いながら、窓の外へと向けていた視線を室内へと戻した。
視界に入り込んでしまっていた赤毛の小娘のことはとりあえず保留。
アラスターに張り付いている気がして胃がキリキリするけれど、保留。
その後ろでフィルドが何事か言っているっぽいのも保留だ。
「ルークはいったいどうなっている?」
すべてを見なかったことにし、キリシュエータはそう口にした。
「三日ほど前に王宮に参じるようにという書簡を届けさせましたが――ここはあえて副官としてではなく、ルークの兄として言わせていただきますが。アレはあまり当てにはできませんよ」
いったん言葉を切りつつ、あっさりというティナンに、キリシュエータは顔をしかめた。
第三王子からの召還に対してその対応はいかがなものか。
苦言を呈したいのだが、なんといっても相手は【賢者の塔】だ。
ある種の別世界であるあの塔の人間共ときたら、自分達の価値観でしか動かない。
地位だの何だのといったところで「で?」と返される恐れがある一種異様な世界だ。最長老であるクドゥルに至っては、父王の恩師とあって今でも頭があがらないという噂まで存在している。
「うちの長兄が呼び出した時も、結局一週間以上たってからひょっこりと顔を出しました。まぁ、あの時は三日程、途中の道で迷子になっていたんですが」
考え事をしながら歩くので、まっとうに歩けないのですよね。
挙句の果てに「自分がなぜ歩いているのかという理由をうっかり忘れる」ことまであるのだ。
ここまでくると天才なのか阿呆なのか、まさに紙一重としか言いようが無い。
「誰か迎えにでも行かせろ」
苛立ちを隠さずに言うと、ティナンは吐息を落とした。
「先に言わせていただきますが、ぼくはイヤですよ。
ルークと会話するつもりは毛頭ありませんから。そもそも、なぜルークを召還なさるのか理解できません。何か調べさせるつもりか、それともお尋ねになるつもりか知れませんが、気力を根こそぎやられますよ」
「おまえ、自分の弟だろうが」
あきれ返った調子の言葉が返されたが、ティナンは顔をしかめてぶるりと身震いして示した。
「あれは未だルークが【賢者の塔】に入る前のことです。
ぼくはほんのちょっとした兄弟としての挨拶代わりに、アレが手にしていた本について尋ねたのです」
嫌な記憶を掘り起こしながら、ティナンはさらに眉間の皺をきつくした。
その当時の苦痛を思い出すように。
「その後、二刻に渡りその本についての解説を延々とされました」
「……」
「もちろん、幾度も相手の話をさえぎろうとしましたし、もういいと口にもしました。ですが、アレはこちらの話など微塵も理解しないのです。延々と――自分が言いたいことだけをただ延々と語りつくすのです」
相手が納得しようとしまいとどうでもいいのだ。
自分が満足するまで。
ぐっと拳を握り締めて切々と語る副官の様子に、キリシュエータはルークを召還してしまったことを少しだけ後悔した。
「それで、ルークにどんなことを?」
問いかけるティナンを見返せば、不信をあらわにした表情を向けてくる。
キリシュエータは執務用の椅子に体を預け、肩をすくめた。
「時には我が国の歴史について考えてみたいと思っただけだ。
年老いた博士共と話すより、年の近いルークと話をしたいと思うことがおかしなことか?」
「頑固ですね。そうまでしてぼくに秘密にしたい事柄がありますか?」
ティナンは吐息を落とし、やれやれというように首を振った。
「まさかルディのことじゃないですよね?」
さらりと言われた言葉に、キリシュエータは危うく反応してしまいそうになった。
ぐっと言葉が食道を競りあがり、うめき声をあげてしまいそうになった愚かさを罵る前に、しかし彼の長年の幼馴染にして副官――第三騎士団隊長という重責にある筈のぼんくらは、自分の口にだした言葉をきっかけに異界へと旅たってしまった。
「あああ、ルディを毎日見ることができないのが辛いっ。せっかく同じ敷地内にいるというのに、これはいったいどんな拷問ですか?
でもおにいちゃんは我慢です。きっとあの子だって辛いに違いないですからね。だってあの子はおにいちゃん大好きなおにいちゃん子なんですからっ。そんな風に必死に我慢しているあの子を思うとちょっとオイシイ……じゃなくて、第二隊で心細い思いをしていないかとても心配です。
フィルドの馬鹿者にいじめられてないだろうかって、お兄ちゃんは心配です」
異界、というか信じられない程間抜けな蝶が飛ぶお花畑だった。
――お前のかわいいイモウトは、隊長は隊長でも第二隊のアラスターがいればそれで良さそうだが。
なんとなく底意地の悪い気持ちで言ってやりたい衝動にかられたが、その後が面倒くさいのでやめておく。
キリシュエータはちらりと窓へと視線を向け、嘆息を隠した。
一人で考えてもラチなどあかず、心のそこから考えを放棄したい。
兄の娘であろうとも、父の娘であろうとも――結果として身内ということで終了だ。
では自分は何がしたいのか?
その地位を戻してやりたいとでも?
本来であれば皇女――王宮内で蝶よ花と育てられ、果てには隣国へと嫁ぐべき者。王位継承権がある訳ではないが、それでもその地位は今とは雲泥の差。
だがあのにんじん娘が皇女だなどと片腹痛い。
当人だとて望んでいないだろう。
では、自分は何がしたいのだろう。
放置しておけばいい。
ぜんぜん、まるきり、自分とはまったく関係の無い場所で。
そう、理解しているのに。
どうしてもじっとしていられない衝動。
もやもやと体内でめぐる奇妙なうずき。
時間があれば考えてしまう――明るい髪と、そして好奇心に溢れた瞳。
そう――この感情はアレだ。
「手に入らないと知った途端……駄々をこねる子供みたいじゃないか」
ぼそりと吐露した言葉が、じんわりと自分の中に広がった途端にキリシュエータは勢いをつけて立ち上がって「うわぁっ」と声をあげていた。
「殿下? いったい何事です?」
「何っ、でもない!」
どんどんと体温があがり、ばくばくと心臓の鼓動が激しく耳の細い血管までも振動させる。
口からありえない何かが飛び出してしまいそうな想いに、とっさに片手で口元を覆いつくした。
「どうされたのですか?」
「だんじて、ぜったいに、なんでもない!」
だから、そんな訳は無い。
「ええいっ。
とにかく! 誰でもいい。
早々に迎えを出してルークを連れて来いっ」
***
「で、ね。アラスター隊長の筋肉ときたら本当に凄いんだよ。
父様の若い頃みたい」
差し入れの菓子と着替えとを届けに来たセイムを相手に楽しげに話すルディエラに、いつもと同じようにその足をマッサージで揉み解しながらセイムは苦笑した。
「異動してよかったですね」
「でも、良いことばかりじゃないんだよ。第二隊の仕事って、ちっとも体鍛えたりしないし。これじゃせっかく培われた筋肉が減退しちゃうよ」
心底からそう思うのか、深いため息を吐き出すルディエラに、セイムは苦笑を浮かべて肩をすくめて見せた。
「それでも騎士のお仕事でしょうに」
「そりゃ、そうだけど……でも、実働って、ぼくが考えていたこととは何だか違うみたい」
ルディエラは落胆したように吐息を落とした。
第二隊はリルシェイラのお守り部隊。
そして、第一隊は騎士としての花形――俗称白騎士と呼ばれる王宮警護を主体としている。
「結局、ぼくが考えていた騎士って騎士じゃないのかも」
「おや、珍しい。ルディ様が考え事ですか?」
「どういう意味さ」
「失礼、失言ですね。で、ルディ様がなりたかったものというのはいったい何だとご理解されたのですか?」
面白そうにたずねてくるセイムをにらみつけ、けれどルディエラは困ったように顔をしかめた。
「ぼくは父さまみたいになりたかったんだよ」
「そうですね」
「それがどういうことなのか、正直まだちょっと判らないけど」
少なくとも、毎日のように逃げ出す王子を探したりする仕事は違う! さらに言えば、王族の為に扉の前で控え続けるのもまた違う。
第三王子殿下や第二王子殿下にいつも付き従っている純白の白騎士達の姿にはあこがれるけれど、実際に彼らが剣を携えて戦う姿は想像ができない。
「ぼく……ずぅっと第三隊にいたいなぁ」
ルディエラの考える騎士は、基礎訓練に明け暮れ、体を鍛える日々を送る第三隊が一番しっくりとくるのだ。
「あ、でも隊長は兄さまより断然アラスター隊長がいいけど」
セイムのマッサージにうとうととしながら本能のままに呟くルディエラに、セイムは笑い出してしまいたいのをこらえ、小さく――本当に小さく囁いた。
「ティナン様には聞かせられませんねぇ」




