その1
エリックは自分を信用している。
自分の勘を、視力を、本能を。その全てが告げている――殺せと。
「っっっ」
馬房の片隅、壁にボロ雑巾が引っかかっていた。
見習いを示す藍色の隊服は薄汚れ、赤みの強い金髪――というかむしろ赤オレンジのような目立つ髪は汚 れがついてところどころが固まっている。それを眺めるようにして立つ男は手の中で乗馬用の鞭を弄び、呆れる様子で何か言っているのだが、そんなものはエリックには関係が無かった。
本能で体が動く。
あの体の曲線が、あの髪が、顔を見なくとも自らの宝だと告げている。
腰に下げた長剣を引き抜き、一気に間合いをつめて今にも壁に手を掛けてボロ雑巾と化して逃れようとしている娘に手をかけようとしている男を叩き切ろうと動いた。
「うわぁっ」
「貴様っ、そこに直れっ」
「って、なにをするんですっ」
一瞬にしてルディの存在を見破った父親は、瞬時に相手の首に切っ先を這わせて一気に切り離そうとしたが、その相手が自分の息子だと気付くのはあまりにも遅すぎた。
そう、娘はタダ一人の宝だが生憎と息子は一山幾らでナンボ状態の父だった。
「これはどういうことだ。ティナン」
「報告が遅れましたが――それは顧問が巡視に出ていたからです」
第三騎士団隊長であるティナンは軽く切られてしまった首にハンカチを押し当てて冷たく父親を見つめた。
王宮指南役――現在は顧問として所属しているエリックは、ぎらぎらと戦闘意欲にあふれた眼差しで息子を睨み付けている。
「何故、ルディエラがここにいる? ここは軍の馬房じゃないかっ」
苛立つように言いながら、エリックは息子を睨みつけ、ついで壁によりかかって寝ている少女を哀れむように視線を向けた。
「この髪は何たることだ! 私のルディの美しい髪がっ、誰だこんなことをしたのはっ、殺してやる」
「……ぼくです」
「死ね!」
「実の息子になんということを」
「私だからこんなものだが、おまえ他の三人に知れたら闇討ちだぞ。おちおち寝ていられると思うなよっ」
「……息子を脅すような真似やめてください」
それでなくとも、すくなくとも西砦に在勤中の兄を思うと恐ろしいというのに。
長男であればまさに人を雇って襲わせそうだが、次男ときたら当人が大剣を振りかざしてくるだろう。弟は――ナニかはしてくる気がするが、ナニをしてくるかは予想が付かない。
騒がしい父親の声に、ボロ雑巾と化した娘はずるずると身を沈め、床に腰を打ち付けてやっと顔をあげた。
「はれ……とーさま?」
「おおっ、父様だぞ。おまえのカッコイイ素敵な父様だぞ」
まるで幼子でも相手にするように身を沈め、視線を合わせてやりながら途端にエリックは相好を崩し、ついで痛ましいというように唇を戦慄かせた。
「かわいそうに、なんでこんなことに……誰が虐めたんだ? 父様に教えてごらん。安心おし、おまえの髪を切ったティナンは角刈りにしてやるから。後頭部にバカっていれてやろうか? おまえを虐めたやつは百倍にして仕返ししてやるぞ。足腰どころか両手足だってしばらく使い物にならない蓑虫を作ってやるぞ」
その言葉にティナンは思わずびくりと反応して一歩下がってしまった。
「顧問っ、余計な手出しはそこまでにして下さい。アイギル、おまえはまだ仕事が残っている。さっさと起きて動けっ。夕飯を食いっぱぐれるぞっ」
ティナンは鬼隊長の言葉で命じつけ、びくんっと反応したルディエラはがばりと立ち上がり敬礼をするとぺこりと頭をさげた。
「隊長、すみませんでした」
寝入った覚えもあるし、何よりエリックのことを父様と呼んでしまった。咄嗟のこととは言え、兄とも父とも思うなといわれているのだ。失態だ。
顔を手の甲でぬぐうと、馬特有の獣臭と馬糞の香りが肺一杯に広がった。確か馬糞の始末をつけて、馬達に新しい寝藁をしいてやって餌をやり終えた安堵感に壁によりかかってしまったのだ。
失態だ。安堵などしている場合ではない。
一気に意識を持っていかれてしまった。
ルディエラは普段から馬の世話はしていたが、それだとて自らの使う葦毛、シルフェーヌだけだ。他の馬は幼馴染であり、下男であり庭師であり――つまり何でもこなせる便利アイテム、セイムがやっている。
だがここでは基本の手入れは馬の持ち主である者が行うが、後始末の全ては新兵であるルディエラの仕事なのだと命じつけられた。
もう四日の間行っていることだが、総勢十七名の騎士の馬の相手は並大抵では無い。
それでも隊長副隊長、および予備の為の馬の世話は他の馬房で専用の馬長が行っている。これでも、ルディエラが任されているのは、第三騎士団の馬だけなのだ。
よれよれと馬房を出て行く愛娘を見送り、それまでまるで好々爺の如く顔を緩めていたエリックはすくりと立ち上がり、がしりと息子の腕を逆手に掴みあげた。
「説明しろ」
「……文章で届けます」
「今、ここでだ。腕をへし折るぞ」
ぎりぎりと腕を締め上げて冷ややかに口元を緩める父親に、ティナンは溜息を落とした。
***
「くっせーよ!」
夕食も終わろうかという頃合に、よれよれと食堂に入ってきたルディエラの姿を認め、副隊長であるベイゼルはつまみあげるようにしてその後ろ襟首を引っつかんだ。
「風呂入ってから来いっ」
他の人間の迷惑だ!
「でも副チョー、食べないと食事がなくなりますー」
すでに二度の経験済みだ。
一日目はあまりにも疲れ果てて夕食など食べようという気にもなれず、汗とドロとボロにまみれたまま寝台に倒れこみ、一瞬後にはティナンにたたき起こされ、挙句朝だった。十分な睡眠をとった覚えなど無かったというのに、朝だった。
二日目はそれでもなんとか食堂に行くことができたのだが、すでに食事は食べつくされた後でその日の夕食も抜きだった。
なんと軍の食事は朝と夜だけ。
昼に関しては食べたいものは自分で時間配分をみて勝手に食べるというのだ。
それでも必死になって昼にはビスケットなどを食べる。
もともと三食、更には三時におやつまで食べていたルディエラにとってここの食生活はまさに地獄だった。
「そんな悪臭漂わせた人間が食堂にいると迷惑なんだよっ」
ベイゼルは忌々しいとばかりに吐き捨て、ついで仕方ないと呟くと近くにいた従卒に命じた。
「夕食のプレートを二つ、オレの部屋に届けておいてくれ」
そう命じつけると、途端にルディエラは瞳を見開いて歓喜した。
これで今日は夕食が食べれる! しかもきちんと風呂にも入れるのだ。
「副チョー」
「あんだよ」
「いい人ですね!」
猫の子のようにほぼぶらさげた状態のルディエラが、きらきらとした瞳をしてぐるりと顔をめぐらせて言うや、ベイゼルは「うわぁぁぁぁ」と叫んだ。
「もうなんだか知らんが勘弁しろーっ」
……やっぱり嫌われてるのかな。
でも副隊長はいい人だな。うん、いい人だ。
ルディエラは自分の心の日記に「副長に好かれるように努力しよう」と書き記した。
自分のその決意が「迷惑」であるなどと欠片も思わないルディエラだった。