その1
「ほいほい」
ベイゼルは手馴れた様子で言いながら酒を口に含み、思い切りクロレルの足の傷に吹きかけた。
途端にクロレルの足の筋肉がぎゅっと盛り上がり、喉の奥で小さなうめき声があがったが、ベイゼルは気にすることなくその足の傷口に焼いたナイフを軽く押し当て、クロレルの体が跳ね上がるのを無視して包帯を巻きつけた。
「すみません……クロレル副長」
「たいした怪我じゃないよ」
「たいした怪我でしょ。ったく――犬やら狼やらに噛み付かれて足が腐るなんて話は山とあるんだから、気ぃつけないと」
皮膚のこげた匂いと黒ずんだ足を見るとルディエラは胃が引き攣れるような嫌悪感を抱いた。
さほど大きな傷ではないことにほっとしたというのに、クロレルもベイゼルも真顔でさっさと「焼いたほうがいいだろ?」と話しだし、こうして手当てするに至ったのだ。
あまりの痛々しい様子に自然と眉が潜まり、ともすればじんわりと涙が浮かんできてしまいそうだ。
こんなふうにクロレルに傷を負わせたのは、どう考えてもルディエラが悪い。
「クロレル副長、ごめんなさいっ」
「大丈夫だよ。この程度の傷何ともない――でも、アイギルも気をつけなさい。野生の生き物はどんな病原菌を持っているか知れないのだから、多少の傷とあなどってはいけないよ?」
しゅんっとうなだれているルディエラの頭を軽くかき混ぜるように撫でて苦笑したクロレルは、地面に座り込んだままベイゼルとフィルドを見た。
「訓練の時間もある。先に行ってくれるかい?」
「しゃあないね。クロさん一人で官舎に戻れる? いや、訓練のほうはいいからさ。応急手当は済ませたけど、ヘタすると発熱のおそれがある。このまま続行するより、官舎に戻ってくれたほうがこっちとしてもありがたい」
ベイゼルの言葉にクロレルが「仕方ない足手まといになるわけにはいかないな」と呟いて了承すると、ルディエラは懇願するようにベイゼルを見返した。
「ぼくっ、クロレル副長についてていいですか?」
「アイギル、私は一人でも戻れるよ」
「でもっ。馬に乗った後は平気かもしれないですけど、乗り降りとか補佐する人間がいたほうがいいですよ。ぼくやりますからっ」
それに、発熱してしまった場合一人で立ち往生してしまうおそれがある。
「いや、だったら私がクロレル副長に付き添う」
フィルドが声を上げたが、ルディエラは生来の頑固さをみせて首を振った。
「クロレル副長が怪我をしたのはぼくのせいですから、ぼくがっ」
――どう考えても何かあった時の対処としてはフィルドのほうが良さそうだが、頑迷に言い張るルディエラの様子に、ベイゼルとクロレルは顔を見合わせて苦笑した。
「じゃあ、アイギルに付き添ってもらおう。ベイ――他の連中を頼むよ」
簡単に仕事の確認をしあい、ルディエラが狩って来た鴨で簡単な朝食をとると、クロレルはベイゼルを指先で招いた。
「なん?」
「アイギルのことなんだが」
言いながらクロレルは顎先でルディエラを示した。鴨の食べ残しを何故かちぎってちび狼に与えているルディエラと「鳥の骨はあげるなよ」と忠告しているフィルドがいる先。
「確か年齢が――」
「十五」
実際の年齢は間もなく十七になる十六。
さすがに華奢な体には無理がある為、ほんの少しだけ誤魔化している。
クロレルはベイゼルの言葉に渋い表情を浮かべ、自分の襟首に手を掛けた。
「喉仏が無いんだ」
「……」
「――どういうことだと思う?」
ひたりとむけられたクロレルの言葉に、ベイゼルは視線を上に逸らしてぐしゃぐしゃと自らの髪をかき混ぜた。
「成長が遅いにも程がある。声変わりもまだのようだし。あの子はどこの家の出なんだい? まさか食べ物も満足に食べられないような生活だったのではあるまいね? 今は隊舎でちゃんと食べているのかい?」
「あー……そっち、そっちですかー」
ベイゼルは一瞬緊張してしまった自分を恥じるようにしゃがみこみ、頭の上でひらひらと手をふった。
「うんにゃ。ただの当人の体質でしょ。
あいつの家は一般以上の家だし、兄弟には可愛がられているみたいだし――飯は人一倍食べてるよ。
ま、多少は偏った偏食もあるから、それが原因じゃね?」
言いながらベイゼルは肩をすくめた。
――ホント、するどいようでボケるよなー、クロさん。
「でも、本当は女の子なんだね?」
ひらひらと振っていた手がぴたりと止まり、ベイゼルは三拍息を止めて視線をあげた。
「ベイ、キリシュエータ殿下はご存知なんだろうね?」
眉を潜めて言うクロレルの口調はすでに断定的で、ベイゼルは珍しく厳しい眼差しでクロレルを睨みつけた。
「――引っ掛けたな」
***
「ご報告申し上げます。第二王子殿下リルシェイラ様が港入りを果たし、最後の宿泊地を出立致しました。今夜には御帰城なさるものと思われます」
きびきびとした口調で言うティナンの言葉に、第三王子殿下キリシュエータは嘆息した。
「ああ……面倒なのがまた帰って来るな。もういっそ、また他の国に遊説に行かせるか?」
外見はいいものだから、黙って立たせて手でもふらせておけば外交的には役に立つ。
「お気持ちはわかりますが、他で面倒事を撒き散らされても困ります」
さくりと言うティナンに、キリシュエータは眉を跳ね上げ、意地悪く鼻を鳴らした。ティナンの言葉ももっともで、すでに他国で逃亡を図るなど面倒くさい問題を起こしていた。相手からの激しい謝罪にこちらも謝罪で返さなければならず、むしろ叱責して欲しい程だ。
「お前の父親も随行しているだろう。エリックに首を絞めあげてもらえばいい」
「お言葉ですが、どちらかといえば顧問の場合はリルシェイラ殿下と一緒になって抜け出して市井の様子を楽しむものと思いますが」
あくまでもエリックは護衛として付き添っているだけで、リルシェイラの手綱を引き絞れる男では無い。
「アラスターの苦労がしのばれます」
騎士団第二隊のアラスターの名が出たことに、ふとキリシュエータは机の表面を弾いた。
「アラスターが戻るということは、にんじんの異動か――リーシェはアレが女であることを知っているが、アラスターにも知らせなければならないな」
「あまり吹聴して欲しくはないのですが」
ティナンは眉間に皺を寄せた。
「女の子が男共と寝食を共にしていたなどと外聞が悪い。嫁の貰い手がなくなったらどうしてくれますか」
きびきびと言う副官に、キリシュエータは珍しく驚いた様子で瞳を瞬き、確認するように問いかけた。
「嫁にやるつもりがあったのか?」
「一般論です。当然ぼくとしては嫁になどいかなくていいと思っていますよ。当たり前じゃないですか」
どの辺りが当たり前なのか。
何故そこまできっぱりと言い切れるのか、まったく理解できないキリシュエータだった。
「嫁なんて冗談じゃありません!」
「……おまえ、言っていることが支離滅裂だぞ。嫁に行かないほうがいいなら評判などどうでもいいだろうに」
呆れた口調で言えば、ティナンは眉を潜めた。
「嫁にはいかなくていいですが、評判が落ちるのはいただけません。あの子に傷一つつけてもらっては困ります。もういっそこれで見習いを終了させて実家に帰らせてしまえばいいと思いますが?」
その全ての決定権を持つ主に静かに視線を向けてくる副官を睨み返し、キリシュエータは執務用の椅子から立ち上がった。
「三月といったものが二月ではにんじんが納得するまい。誰の名のもとにそれを約したと思っている? 私の名に傷をつけるつもりか?」
「じゃあ、もういっそフィブリスタ殿下の命令ということで」
「お前、にんじんがフィブリスタ兄上に泣き付いたら更に私の名前に傷がつくんだぞ!」
――すでに現段階で実の弟だというのにいちいちお伺いをたてて面会要請をしないといけない自分とは違い、ルディエラときたら直接フィブリスタの執務室に出向くことが許されているのだ。
そんな状態で「フィブリスタの命令で見習い期間短縮」などと言った日には、ルディエラは文字通りフィブリスタに嘆願することだろう。
はたして兄は弟の思惑――ではなくティナンの個人的な思惑だが――をくんで「騎士など諦めたほうがいい」と慰めて諦めさせてくれるかと言えば「私は知らない。キリシュエータが勝手に私の名をかたっている!」と騒ぐことだろう。
「もっと悪い結果しか思い浮かばないじゃないか!」
皇太子の名を騙るなど恐ろしいことできる筈が無い。それでなくとも、今現在フィブリスタに極力関わりあいたくないというのに。
「お前がどういったところで変わらない。にんじんの見習い期間は三ヶ月。リルシェイラが戻った時点でにんじんの所属は第二隊に異動」
「了承致しました」
ティナンは吐息と共に手にしていた書類をぱたりと閉ざし、ふっと遠い眼差しで窓の外、中庭を眺めた。
「……禁断症状でしょうか……うぅっ、あの子の幻まで見えますぅっ」
「そんな腐った目玉は捨ててしまえ!」
何よりそんな腐った部下を捨ててしまいたい。
切に。
***
「なつかれたようだね」
クロレルの足の怪我の為に速度をあげないように進む馬の後ろ、一定の距離を保ってついてくる仔狼の様子にクロレルは苦笑を落とした。
餌を与え、窮地から救ってくれたルディエラに恩義を感じているのかもしれない。
ルディエラは顔を顰めはしたものの「噛まないならついて来ていい」と偉そうに言っていた。相手に通じているかどうかは判らないが、今は仔狼もおとなしくいうことを聞いているようだ。
あの後――ベイゼルはしゃがんだままの姿勢で視線をあげ、険しい眼差しでクロレルを睨みつけていた。
「殿下も隊長も勿論知ってる」
ぶっきらぼうに告げられた言葉に、クロレルは一つうなずいた。
「ならいい。たかが一隊員である私がとやかく言うことではないのだろうからね。ただできればもっと早く言っておいて欲しかったな……」
確かに華奢で子供っぽさばかりが目立つ子だ。
だが、女など居ないという常識が壁となって「女の子」であると見ることは無かった。
主である第二王子殿下リルシェイラなどもむしろ女性を思わせる人だから、ルディエラ程度なら「まあ、いないとは言い切れないか」という判断だった。
それでも自分はルディエラと一緒に風呂にまで入っていた筈だ。あまりにも自分の洞察力の無さにうんざりとしていたら、少し前を行くルディエラが振り返った。
「クロレル副長? 少し休みますか?」
「いや……」
咄嗟にクロレルは意味不明に焦りを覚え、
そう、咄嗟に。
「痔の具合はどうだい?」
爽やかな笑顔で問いかけてしまった。