その6
すがすがしい朝の冷たい空気。
ぱきりと音をさせたのは、軍靴が踏みつけた枯れた小枝。そしてつま先に触れるのは、いつ落ちたのか、すでに微塵に砕けて土へと戻るのをまつばかりの枯れ葉。
薄靄が冷え切った地面を撫でるようにとろりと流れ、鳥の鳴き声が朝を語る。
クロレルはぐっと背中を伸ばし、肩を回しながら微笑を浮かべ、天候が崩れなかったことに感謝した。
昨年度の訓練では四六時中雨が降っていたものだ。
その為に現状を見誤ったものが幾人か怪我をした。
今回は無事に――何事も無く、済んで欲しいと切に願う。
「……無理かぁ」
顔を洗う為に湖畔へとやってきたクロレルは、水の中で「このやろぉっ、ちょっと落ち着けってばっ」と何故か暴れている最年少の見習いの姿に、どこか疲れた笑いを落とした。
まさか溺れているのかと軽く駆け出したが、ルディエラはそれより先に岸辺へとあがっていた。
その腕にぐったりとした灰色――というか塗れて黒くなったゴミのような微妙なモノを持って。
「あっ、クロレル副長」
「……何、しているの?」
水を滴らせているルディエラは、犬のようにふるふると首を振りつつ、ふと思い出すように顎先で湖面を示した。
「副長、あそこに鴨が浮いているからとっといて下さい」
「鴨? いや、ああ、うん――?」
それよりも気になるのは、ルディエラに抱え込まれているその物体だ。一抱え程の大きさにぎろりとした目だけがこちらを睨んでいるが、すでに体力がない為に暴れるそぶりはないが。
「また……」
「聞いて下さいよ、この犬っ! 犬の癖に泳げないんですよっ。ぼくが射た鴨に食いつこうとして水に落ちて溺れたんですよっ」
「いや、狼だよ――」
まさかまた食べるなどと言わないだろうな?
クロレルは不信な視線をルディエラに向けた。
そもそも、狼は国旗にも描かれる我が国の守護獣。食べるなど不遜なこと、本来であれば誰も思わないだろうに。
びしょぬれですでに気力のなくなっている毛玉を地面におろし、ルディエラは今度こそ盛大にぶるぶると身を震わせて水を弾いた。
「さむいっ」
「そりゃ、こんな時間に水に入れば寒い筈だよ」
クロレルは苦笑から破顔にかえ、肩をすくめるようにしてルディエラの隊服の襟に手を伸ばした。
「脱ぎなさい。早く乾かさないと風邪をひいてしまうよ?」
悪意の無い苦笑を前に、ルディエラは引きつった。
***
気まずい……
僅かなりとも眠ることができたのか、できなかったのか――自分の体のことながら判然としないフィルドは、もそもそと使っていた薄手の毛布を畳んでいた。
他人の気配に敏感なほうではないが、いかんせん睡眠がよくなかった。
第三隊の副長であるベイゼルがルディ・アイギルを起こした時には目覚めていたし、その後で自分の上司である第二隊の副長のクロレルが目を覚まし、てきぱきと身なりを整えて湖畔の方へと歩いていってしまう気配も感じていた。
寝ているのはベイゼルと自分だけという状態になって、やっと身を起こしたフィルドだったが身を起こした途端に転がっているベイゼルと目があった。
「はよーさん……」
ニヤニヤと笑いながら声をかけてくる相手は、悪意だらけなのではなかろううか。
呻くようにその言葉に応え、苛立ちをぶつけるように言葉を続けた。
「まだ寝ていたらどうですか?
一番寝ていないのでしょうから」
「そかー? どっちかってぇとお前さんのほうが寝れてないんじゃね? 一番寝てたのはうちのボケなのは確定だけどさー」
絶対にこの人は人が悪すぎる。
こんな上官持ちでなくて心底良かったとフィルドは思いつつ、すでに半ば自棄で相手を睨みつけていた。
「何か言いたいことでも?」
針のむしろはごめんだ。
言えるものなら言ってみろ。その気持ちを込めて言い放った言葉は、まるきりストレートに返された。
「おまえ趣味悪い」
――直接的過ぎてどう答えていいのか頭が真っ白になった。
フィルドの顔がさぁっと血の気を失せさせて白くなり、ついで羞恥の為に赤くなった。
「つうか、何? 真面目に男好きな訳?」
「なっ、なんの話ですかっ。私は純粋に女性が大好きです」
「いや、今更っしょ?
ってか、いいや。訂正してやる――アイギルがそんなに好きかね?」
よいせっとベイゼルは身を起こし、大仰な調子で首を振った。
「お前さんの態度はみえみえです。
あのちびすけが気になって仕方ないって――でもよー? よく考えてみ? 性格は悪いし、意味不明な筋肉宗教信者だし、まっすぐっちゃ聞こえはいいが、ようはまっすぐしか行けない猪突猛進。ただの阿呆よ?」
ベイゼルは言いながらもそもそと四つんばいで自分の荷物を引き寄せ、中から巻き煙草のケースを引き出すと、器用に乾燥された葉を紙で巻きつけ、口にくわえるとそのまま四つんばいで焚き火の燃えさしで火をつけた。
ふーっと大きく深呼吸するように一服目を吸い込み、吐息のように紫煙をくゆらせる。
「何よりまだガキなのよ。
男がどうとか、女がどうとか念頭にもないようなお子ちゃまなんだよ。
あんま無茶してくれないでよ」
何か琴線に触れたのか、カっと自分の中で何かが弾かれた。
激しく攻め立てられていたらまた違っていただろう。頭からおかしいと言われていればまた違っていた筈だ。
ただ、何かが腹の中で弾けて苛立ちが口をついていた。
「ベイゼル副長には関係がない。
これは私の――私とあいつの問題です」
その言葉が否定ではなく、肯定を示していると理解していても言わずにはいられなかった。
自分の中で色々と抑圧されていることが噴き上げて、ただ苛立ちだけで――今更取り繕うこともできずに、内心をさらけ出していた。
「それ言われると痛いわー
でも悪い。関係あるっちゃあるんだ――騎士団にいる間にあいつに何かあったら、オレあいつの兄貴に惨殺されます」
目を細めて肩をすくめ、まるで教師に宣誓でもするかの如く片手をあげたベイゼルはあっさりと言った。
「なんか僻地に飛ばすとか西砦の鐘楼から蹴り落とすだとか言われてんのよ?
可哀想でしょ?」
「は……?」
僻地に飛ばす。
果たして騎士団の人事について言及できる人物がどれ程いることだろう。
その言葉にフィルドが瞳を瞬くと、ぶるっとベイゼルは身震いして煙草をもう一度深く吸い込んだ。
「言っておくけど、真面目にあいつの兄ちゃん怖いのよ?
オレの弱み一杯握ってるしさー。性格悪いしさー。笑いながら人を投げ飛ばすんよ?
呆れる程アイギルのこと溺愛しちゃっててさ、もう本当にこっちは悲惨」
あーやだやだと言いながら、フィルドは短くなった巻き煙草を、今はすでに炭だけがくすぶっている焚き火の中に放り込んだ。
「ナイショよ?
絶対にばらしてもらっちゃ困るんだけどさ。
つうか、俺がこのこと知っているのをアイギルにもばらして欲しくないんだけどね?
つまり――うちの隊長、第三騎士団隊長にして第三王子キリシュエータ殿下の副官であるティナンっつーのが、アイギルの兄貴なんだわ」
それは牽制になる筈だった。
大事な部分は伏せて、けれど牽制の一つとしてしっかりと釘――それは大きな楔となる筈だった。
しかし、生憎とベイゼルの思惑は大失敗に終わった。
――すでに崖っぷちのフィルドは違う解釈をしたのだ。
もしかして……この時すでに彼は崖から落ちていたのかもしれない。
「なんだ! じゃあ――ティナン隊長がアイギルを好きなんじゃないかっていのうは勘違いなんですね!
良かったっ」
フィルド・バネット――へんなところでポジティブ。
***
ぎゃあっ!
ルディエラは突然直面した事態に奇妙な声をあげて後ずさりした。
服を脱げ?
そりゃあ勿論、濡れたら服は脱ぐだろう。
普通の隊員であればまったく問題は無い。今までだって訓練の中で上半身裸になっていた隊員達は一杯いる。
だが、ルディエラにそれを求めるのは間違っている。
じりじりと後退しつつ、ルディエラは遠慮するように口元に笑みを浮かべてふるふると首を振った。
「いや、大丈夫です」
「駄目だよ。キミみたいな小さな子はすぐに肺炎だなんだと病気にかかって、挙句あっさりと逝ってしまう。私はそういうのを山と見てきた。
とりあえず水分は拭ったほうがいい。早くシャツを脱ぎなさい」
優しい口調で、されど頑固なクロレルはじりじりと後退するルディエラを一歩でおいつめて無理やり襟首のホックを外しにかかろうとする。
「大丈夫ですってばっ」
「大丈夫じゃないよ」
生真面目な調子で言うクロレルは、怒ったようにルディエラを軽く睨みつけた。
ぐっと二個目のホックまで外され、完全に退路をたたれたルディエラが肺一杯に空気を吸い込んで「ぼくっ、女なんですっ」そう叫んでしまおうかと思った瞬間。
「うわぁっ」
クロレルは突然悲鳴をあげてルディエラから手を離した。
その勢いに突然重心を崩したルディエラが尻餅を付き、慌てて襟元を押さえ込んで絶望に身を沈めた。
――見られた? 見られた? ばれちゃったの?
最近ちょっぴり膨らんだ忌々しい胸に気づかれたの?
さぁっと一気に血の気を失せさせたルディエラが、混乱のうちにそう思ったというのに、しかしクロレルが悲鳴を上げたのはまったく別の問題だった。
「アイギルっ、すまないがコレ外してくれっ」
悲痛な声にきょろきょろと視線をさまよわせたルディエラが目にしたものは、クロレルの足にがっつりとかぶりついているちび狼だった。