その4
ふっとティナンは窓から差し込む月明かりを見上げ、感傷的な溜息を吐き出した。
王宮、第三王子殿下キリシュエータの執務室では、夜も遅い時刻といえども蜜蝋の明かりが幾つもともされ、更にそれを水晶で乱反射させて真昼のような明るさを保っていた。
「今頃、あの子はこの寒空の下で野宿ですか……」
「そういう訓練だからな」
第三王子殿下キリシュエータは言葉と同時に鵞ペンをペン立ての中に放り込み、ぎしりと背を背もたれに預けた。
自然と片手が眼鏡を取り上げ、目と目の間をもう片方の指で揉み解す。軍事将軍と言ったところで、キリシュエータが相手にするのは書類ばかりだ。
王宮の警備について、現在遊説中の第二隊及び第二王子の動向、王宮右手にある警備隊からの報告書。
そして――最近こっそりと増えているのは王宮に届いているという縁談について。
「ちゃんと食べれていればいいですけど」
「いくら何でも一人ではないだろう。ベイゼルがついているだろうし――心配したところでどうにもならん」
キリシュエータは見たくも無い他国の姫君に関する調べ書きをじっと見つめつつ、瞳を細めた。
「殿下は冷たい。女の子が野宿ですよ? 往復で三日も」
「野宿と言っても、四方砦の管轄にある山だ。せいぜい危険があるとすれば狼がでるくらいだが、狼はわざわざ人前に出てこない――もっと大規模な訓練だと一ヶ月まるまる遠征というものもある。たかが三日だ。おまえは気にかけすぎだ」
――気にかけていないと言えば嘘になる。
キリシュエータは一瞥した書類をぐしゃりと丸め、肩をすくめてティナンと同じように窓の外――月明かりを見た。
気にかけていないと言えば嘘になる。
だが、それはティナンが考えているようなものとは別のものだろう。
自分の管理下に無い場所で、あの小娘がいったいどういった騒動を撒き散らしているかと思えば、その場に居ないことがとても残念に思われる。
そう……きっと今頃、周りを困惑させているに違いないのだから。
それを思い、キリシュエータは口元に小さな笑みを刻んだ。
***
赤々と燃える焚き火に、時折爆ぜる薪の音。
深い森の中で時折聞こえてくるのは、夜型の鳥の羽音と虫の音。
差し込むのは月明かりと、そして焚き火の光。その僅かなその明かりの中で、フィルド・バネットは呆気に取られながら、どさりと地面に腰を落としてしまった。
視線の先にはにんまりとしたルディ・アイギルがじりじりと圧し掛かり、今はフィルドの足の間から上半身を出してその片手はフィルドの腰を掴み、もう片方の手は押し込められていた筈のシャツを乱暴に引きずり出しにかかる。
頭の中が真っ白になる現状に、フィルドは焦っていた。
「おま……なにして」
「ふふふふふ、フィルドさんってば実はいい体していますよねぇ?」
もしかしなくても完璧に襲われている。
このまま放置したらいったいどんなことになるのだろうか。
本来であれば同性に襲われるなど、体中に嫌悪感が広がる筈だというのに、フィルドの体ときたら、もっと触れて欲しいという欲求に眩暈がしてしまいそうだった。
喉の奥が干上がるようにあえぎ、今あるものと言えば――こんな場でマズイ。ただそれだけだ。
そう、ここは野営にと選んだ森の中の窪地。
焚き火の反対側には上官である二人、ベイゼルとクロレルが寝入っている筈だし、どう考えても適切な状態では無いと思われる。
それでも、フィルドは湧き上がるうずきに、ごくりと喉を鳴らした。
「脱いで、欲しいのか?」
「そりゃー、当然」
小悪魔の顔をしたルディ・アイギル――ルディエラはにっこりと続けた。
「筋肉は隠すもんじゃないですよ」
さらりと出された言葉に、なんとなく眉間に皺がよった。
「筋肉……」
は?
何故突然筋肉?
「胸筋さんいらっしゃあーい」
楽しそうに更に脱がそうとする相手に、フィルドはぎしりと奥歯をかみ合わせ、シャツを掴んだままのルディエラの手首を乱暴に掴み上げ、ぐいっと自分の上に引き上げた。
片手で軽く引き上げることのできる軽さに驚きながら、フィルドは欲求に負けた。
「見たいなら」
口付けてみろよ。
乱暴な気持ちでそのまま半眼を伏せたフィルドの頭を、それは見事な音付きの拳骨が落ちたのはその瞬間だった。
「酒飲ますなっていったろうがっ!」
がんがんっと二発、ルディエラとフィルドの脳天にたてつづけに拳をお見舞いしたベイゼルは、痛みにうめく二人に「そこに座んなさいよ、この馬鹿二人っ」珍しくも説教モードに突入した。
***
「酒癖が悪いんだよ」
忌々しいという口調で吐き捨て、ベイゼルはルディエラの体にばさりと薄手の毛布をかぶせた。
疲れか、酒か、それとも子供らしい睡眠欲求の高さからか、説教の最中に幾度も欠伸をかみ殺し、やがてこくこくと船をこぎ始めたルディエラの様子に、それまで横になったまま成り行きを見守っていたクロレルが「はい、そこまで」とベイゼルの説教をとめた。
気持ちよく寝ていたところでベイゼルの声で起こされたクロレルは、自分の腕を枕に三人の様子を眺めつつ状況を判断し、さほどオオゴトでは無いと傍観していたのだ。
「今回のことは、きちんと酒癖が悪いから飲ませては駄目だと言わなかったベイゼルにも落ち度がある。そういわれていればフィルドだって酒を飲まそうなどと思わなかっただろうし――正直、私も寝酒くらいなら与えていたと思う」
言われた言葉に、ベイゼルは肩をすくめた。
第三隊の人間であれば、ルディエラに酒を飲ませればどういうことになるのか承知している為に、ソコまで言わなければいけないという頭が無かったのだ。
何より、今回自分が持ち込んだ酒は確かに純度が高い。
寝入る為の補助用に持ち込んだものだから、多くを飲まずとも利くようにと思ったのが更に仇になった。
「悪かったよ。フォード」
ベイゼルは苦い顔をしてちらりとフィルドを見ると、フィルドは「いえ。こちらこそすみませんでした」と神妙な返答を返した。
「ま、悪いのはこいつだ」
ベイゼルはぎろりと寝転んでいるルディエラを睨みつけ、肩をすくめながら火の勢いの弱くなった焚き火に枯れ枝を放り込んだ。
「クロさん、フォード。寝ていいよ。俺見張るから」
「いえ、私がっ」
慌ててベイゼルの言葉を打ち消そうとしたフィルドだったが、ベイゼルは薄手の毛布を肩に引っ掛け、ぽんっとフィルドの肩を叩いた。
「オレが見張るのはお前さん。
うちのヤツに変な手出しさせる訳にはいかないんよ?」
囁くように告げられた言葉に、フィルドは血の気が一気に引くのを感じた。
這い登る羞恥心と謎の屈辱感に目の前が真っ黒に塗りつぶされていく。
――聞かれた……絶対に、聞かれていた!
ルディ・アイギルの体を自らの上に引き上げて「口付けてみろよ」と告げた、あの恥ずかしい台詞を、ベイゼル・エージに完全に聞かれた!
女相手ならばともかく、男相手に告げた台詞を。
瞬時にフィルドの頭の中を駆けずり回ったのは、どうにもできない程の絶望感。
「フィルド? 突っ立ってないで寝なさいね」
クロレルが不思議そうに問いかけるまで、フィルドは完全に硬直して動けなくなっていた。
……なんだか色々、終わっている。