その5
今日から一月自分が生活することになるという部屋に一人残されたルディは、ほうっておくとじわりと眦に涙が浮かびそうになるのをぶるりと身を震わせて堪えた。
大好きな兄に嫌われたのは物凄く痛い。
部屋の中は微妙な匂いが充たしている。男臭さとアルコール臭さと、煙草臭さ。かび臭さ。
生臭いような気もするが、そもそも男所帯に暮らしているので我慢できない訳ではない。
乱雑に置かれた荷物は洗濯物も混ざってそうだし、確かに部屋の右と左に寝台があるのだが、そのどちらにも無造作に荷物が置かれている。比較的少ないのは右側で、おそらくこっちに副隊長は寝ているのだろう。
「……ここで、寝るのか」
それはげんなりとしてしまう現実だ。
自分の部屋の片付けも得意とは言えないが、この部屋の有様は酷すぎる。片付けてしまおうかと思ったが、副隊長は兄――ティナン隊長によって連れ出されてしまった為、勝手にはできない。
たとえどんな無頓着な人間といえど、自分の知らぬ間にモノを移動されることは歓迎しないだろう。
初日から嫌われる訳にはいかないし。
嘆息すれば、耳の下で髪が揺れた。
切られてしまった髪をそろりと撫でて、その先端の位置を確かめる。
部屋の中に鏡などというものはありそうに無い為、ルディは仕方なく窓ガラスの反射を利用して髪を切ろうと窓辺によると、胸元のナイフを取り出し、首筋の辺りにすっと運んだ。
「だーっ、何やってる!」
突然の声に、ルディは危うく首筋を切るところだった。
自分のことばかりに集中していた為に、丁度部屋の扉を開けられたことに気付かなかったようだ。
びっくりして振り返り、瞳を瞬いて同室になった副隊長を見上げる。
目つきの悪い副体長はどかどかと長靴の音をさせてルディエラの前に立った。
「あの、髪を……切ろうと思って」
「かみ? ああ、髪、髪ね。
そういえば、なんだかざんばらだな。どうした?」
目つきの悪い瞳がいっそう悪く潜められる。
「――ちょっと長かったので、先ほど隊長殿に切られてしまいました」
その眼差しから逃れるように視線を落とし、ははっと言えば、ベイゼルは口元を引きつかせた。
「整えようかと思って」
「あー……しゃあねぇな、ちょっと貸せ。俺、そういうの得意だ。指先器用だから」
嘆息気味に言いベイゼルは近づくと、ルディのナイフではなく自分のナイフを出してルディの背後に回った。
――コレを男と言い張るのは少し無理があるんじゃないのか?
艶やかな髪は手入れが行き届き、けれどざっくりと切られてどこかちぐはぐだ。無残に切られた襟首が白くて華奢で、片手だけで絞められそうだ。と思った途端、すっとルディが避けた。
「あ?」
「あ、すみません……なんか、殺気のような……あれ?」
感覚は鈍くないようだ。
苦笑し「切るぞ?」と声を掛けた。すきあげるようにナイフを上下に動かし丁寧に切る。一番短い位置にあわせて揃えていく。赤みの強い金髪を切りそろえながら、なんだかいたたまれない気持ちになってしまった。
「に、しても珍しい人事だな」
当たり障りの無い言葉を選んだつもりだ。殿下の気まぐれなどいつものことだ、あまり気にすることじゃない。だが女の子を入隊させようなんてどういう酔狂だ。
「やっぱり、珍しいですか?」
心持ち構えるような口調。
怯えすら混じるそのように、ベイゼルは苦笑を隠す。
「ま、今は暇な時期だからな。目新しいことは歓迎だよ」
「――」
最後にさらりと髪を払い、切った毛を落とす。
ルディエラは不安そうな眼差しを心持あげ、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「――」
「副長?」
――男で通すって、どんな冗談だ?
いやいや、可愛い男というならいない訳ではない。確か第二隊にも随分と華奢なのがいる。あれは見た目が子猫な癖に中身ときたら猛獣だ。大丈夫。これだって男で通る。いや、通さねばならぬ――ってか、もうオレイヤナンデスガ。
「あの、ぼく、何か気にさわるような……」
「ってか、ぼくは辞めろ。なんだそれ、新手のイヤガラセなのか? 一人称はワタシでお願いします。オレも却下」
一息に言い切り、ベイゼルは「うわぁぁぁ」と叫び、自分の髪をぐしゃぐしゃと乱暴にかき混ぜた。
「ふ、副長?」
「寝台は左側! 荷物はベッドの下! 寝る時は中央のカーテンを忘れるな! オレのほうに入ってきたらぶっ飛ばす!」
指を突きつけルディエラを部屋の左側の寝台に追いやると、ざっと音をさせてカーテンを引いた。
ルディエラは瞳を瞬いて閉ざされ、軽く揺れているカーテンを見ながら首をかしげた。
――もしかして嫌われた?
え、なんで?
***
不安と期待とがない交ぜになって翌朝――寝られないのではないかという思いとは裏腹に、ルディエラはすっかりと熟睡し、鬼の隊長によってたたき起こされた。
その鬼の隊長殿も、実際はすやすやと眠る妹を物凄く複雑な眼差しで眺め、幾度も幾度も溜息をついたのちに大きく息を吸い込み、
「起きんか、莫迦者!」
と、勇気をもって大音量でたたき起こしたのだ。
――今までそんな口調で妹を起こしたことなど無かったというのに。
ティナンの心はきしきしと痛んだ。
「え、あ……にぃ」
突然枕を引き抜かれてごろりと転がったルディエラは、兄の言葉に「兄さま」と口にしてしまいそうになったのだが、それはティナンの手によってふさがれた。
――口を塞いだのでは無い。無遠慮に襟首を持ち上げたのだ。
「新兵なら新兵らしく誰より早く起きなさい! 馬房の水汲み、訓練所の水拭き、やることは山とあるぞっ」
「え、ひゃあっ?」
「おかしな声を出すな。とっとと準備っ」
――見習い一日目。
こうしてルディエラの過酷な見習いの日々は幕を開けた。