その2
「ほい、整列」
ぱんぱんっと手を打ち鳴らし、突然持病が悪化した第三騎士団隊長を無理やり撤去した第三騎士団副長ベイゼルは第二隊の副長クロレルと相談の上に本日の訓練を決めた。
「本日は突発野営訓練。持ち物は今手元にあるもののみ。食料は不可。水と食料は途中で調達。野営地は各自好きな場所。所定時間内に目的地であるあっちの山二つ先の麓の山小屋。集合時間は明日の昼――いっじょう」
もともと第二王子殿下リルシェイラが帰宅するまでの間に一度はやるようにと組み込まれていた訓練プログラムのひとつ。そろそろリルシェイラも戻る頃合の上、突然持病が悪化したティナンと持病の元であるルディエラを引き剥がしておこうというベイゼルの思惑である。
クロレルは一度異議を唱えたが、もともと予定している訓練だけに一日二日早く行われる程度のことと納得した。
「一人で大丈夫などと過信せずに、数名で行動するように。尚、これは一人ではいけないという意味ではないが、安全面の為に二名以上が好ましい」
簡単な説明を加えつつ、何か訓練上の困難があった場合は角笛などで合図を送り、それに気づいた人間はその場に駆けつけるようにと付け加えた。
全ての説明を終えると、クロレルが手を打って散会の合図とし、クロレルとベイゼルは二つ、三つ会話を重ねてクロレルは一旦官舎へと足を向けた。
クロレルの話を聞き入れ、ルディエラはほっと息をついた。
「どうした?」
隣で副隊長達の話を聞いていたフィルドがちらりと横目でたずねると、ルディエラは苦笑を返した。
「いや、少し前は体調がよくなかったですからね。その時にこんな訓練が来なくて良かった。でも、たまにはこういう訓練もいいですよね! なんか凄く筋肉つきそうだし」
ぎゅっと手を握りこんでしまうルディエラだが、果たして筋肉がつくかどうかは謎だ。
「そうだな」
淡々と、あくまでも淡々と返答しつつ、フィルドは自らの白手の飾りボタン部分をくいっと引っ張った。
何気なく、さりげなくを装いつつ。
「一緒に行くか?」
「あ、いいんですか?」
ぱっと顔をあげたルディエラに、フィルドは「ああ」と返答しつつ、実はひそかにずきりと胸を痛めた。
――こんなのに下心を持っている自分が鬼畜のようだ。
決して言わないが。
なんといっても野営訓練。
闇ばかりの山間で野営。
木々の間にある窪地に薪で暖をとったところで、未だに寒い夜だ。子供には辛いだろう。それとも、子供の体温は温かいかもしれない。
標準装備の薄い毛布といえど、一人では身が凍る。だが、二人で包まればきっと温かいに違いない。
「寒いだろ。来いよ」
と男同士の会話として、はっきり寒々しいことこの上無いこの会話が成立するまたとない機会だ。
これはアレだ。
下心とか邪な何かではなく、純粋に年下の同僚を心配する優しい先輩だ。
この面倒くさくもうざい響きの訓練がこんなに心臓を鼓動させる訓練になろうとは誰が思うか。
――普通誰も思わない。
ぱっと浮かぶ、普通という単語にフィルドはずんっと打ちのめされて思わず額に手を当てた。
「フィルドさん?」
「何でもない――それより、荷物の点検して早く」
行くぞ、と先輩風をふかすように言おうとした途端、ぐわしっとルディエラの首に腕が掛かった。
「ほれ、行くぞ。ぼけ」
勢いよくぐいーっとルディエラの首を腕で締め上げ、ベイゼルはふとフィルドを見た。
「お前さんも一緒?」
「……ええ」
ベイゼルは空いているもう片方の手でぐりぐりとルディエラの短くなった髪をかき混ぜ、フィルドのことなど少しも気にかけずぼやいた。
「あー、ちきしょうっ。髪すくねっ」
「ちょっ、まるでハゲみたいに言わないで下さいよっ」
「ハゲのほうがいっそ諦めがつくわ、このタコ」
――ハゲろ、ボケ。
ふと思い浮かんだ言葉が誰に向けたものであるかは、秘密である。
***
「おにっ、お兄ちゃんが悪かったっ」
艶やかな明るいオレンジのような髪を三つ編みに編み、リボンで丁寧に止めたモノを手においおいと泣く第三騎士団隊長の姿に、彼の上官である第三王子殿下キリシュエータは冷たい眼差しを向けていた。
「他に置き場所が無いので引き取って下さい」と先ほどベイゼルが届けに来たのだが、あまりにもうざい挙句に、まるで遺品にでもしゃべっているように見えて薄気味が悪い。
果たしてあの髪は時折出てくるが、いったいどこにあるのか謎だ。
「ことあるごとに髪が邪魔臭いとぼやいていたのは知っていただろう」
「知ってましたけど……でも、だからって切るとは思わないですよ。だって女の子なんですよ? やっと伸びてきたところなのに」
もともとその髪を切り捨てたのはティナンである。
「髪はまた伸びる。騒ぐな」
「殿下はまだ見てないからそういいますけどね! 首筋までばっちり見えるくらいの髪なんですよ? いったいいつになったら腰まで伸びるのか、考えるだけで涙が出ますよ」
――じゃあ考えるな、うざいから。
うんざりとしつつ、嘆息すると、ノックの音と共にクロレルが書面を手に頭を下げた。
「失礼致します」
ちらりとティナンを見て気がかりだというような眼差しを向けたが、すぐにその視線は第三王子殿下キリシュエータへと向かった。
「本日の訓練は、前倒しになりますが野営訓練に移行致しました。承諾の印をお願い致します」
すっと書類をキリシュエータへと引渡し、それを受けたキリシュエータは冷たい口調をティナンへと向けた。
「ティナン」
「了承いたしました――第一隊アルフォード隊長に報告し、王宮内警護の再構築を致します」
第二隊、第三隊が完全に出払うとなると王宮に残されるのは第一隊だけとなる。もともと王宮警護の要は第一隊で、第二隊は補佐、そして第三隊は基礎訓練と定められているのだから差ほど大事という訳ではないが、王宮外部の警備にいっそうの尽力をせねばならない。
先ほどまで目を腫らして泣いていたティナンは、すっと立ち上がって一礼したが、そのティナンにクロレルが心配気に声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「クロレル副長には兄弟はいますか?」
「兄がいますが」
「――可愛い妹がいない人には判らない痛みです」
まったく判らない。
「ああ、妹さんが結婚でもされたのですか? 兄としてはきっと寂し……」
とりあえずありそうなことを口にしたクロレルだったが、面前のティナンが更に顔色をかえてふるふると首を振り取り乱したことに驚愕した。
「結婚……うちの子が、あの子が、結婚っ。そんな未来は嘘だっ」
思い切り踏んではいけないものを踏みつけてしまったクロレルにキリシュエータは額に手を当て、もう片方の手でぱしりと机を叩いた。
「ティナン、仕事しろ。それと、クロレル。その馬鹿に妹の話は禁句だ、ソレは極度の妹馬鹿だからな――おまえも訓練に出るのだろう? もう行け」
さっさと出て行くようにと示唆され、クロレルは慌てて退出した。
妹という存在は自分には無縁だが――世の中の兄妹というのはあれ程までに深い愛情を持っているものなのだろうか。
きっと妹に何事かあって動揺しているのだろう。
実はティナンは家族思いの人格者なのだろうか。
……いや、なんかちょっと違う気がする。
***
「よっ、と」
勢いをつけて細剣で水面下を貫き、はっきりとした手ごたえと同時に剣を引き抜いたフィルドは剣先に貫かれビチビチと動くニジマスに口元を緩めた。
ベイゼルの発案で山の畔の辺りで食料をまずは確保することにしたのだが、フィルドはとりあえず近くの川で魚を取ることにした。すでに魚は四尾取り上げ、ついでに沢蟹も捕まえてある。他の人間が獲物をとれなくとも、とりあえずの空腹しのぎにはなるだろう。
「わー、フィルドさん凄いですね」と褒め称え、賞賛の眼差しをきらきらとさせる子供の顔まで浮かんできそうだ。
フィルドは口元が緩むのを感じつつ、少しばかり期待に鼻を膨らませ、短剣で手早く内臓を取り出した。川水で綺麗に血を流して手馴れた所作で近くの葦のような葉でエラに通して魚をまとめあげると、フィルドはベイゼルが薪を熾して待っている集合地点に到着した。
「お、大量だな」
そう言うベイゼルは、どこから持ってきたのか芋っぽいものを火にくべて棒の先でつついている。
栗も拾ったのか、すでに幾つか食べたあとまで見える始末だ。
「アイギルは?」
「そろそろ戻るんじゃないか? あまり時間は掛けるなって言っておいたからねぇ」
言いながらベイゼルはさっさと薪のひとつを手にとり、魚を串刺しにする為の串をナイフで削り始めた。
「獲物が見つからなくて戻れないんじゃないですか?」
「いやいや、何もなくても戻るでしょ。結構アレは図太いっしょ」
肩をすくめて笑ってみせるベイゼルの態度に眉を潜め、フィルドは一旦その場に座りかけたが、思いなおして体制を戻した。
「ちょっと見てきますよ」
「過保護だねぇ」
「そういう訳じゃ……」
おかしそうにニヤニヤと笑われ、むっとしつつ視線を上げるとフィルドの視界の中に低木を揺らしながら現れるルディエラの姿が入り込んだ。
なんだか困惑したように眉を潜め、
「これって、食べれますかー?」
ルディエラが両腕で抱えるようにして持ち上げたのは、丁度まるまると良く太った子犬よりも多少大きな、灰色っぽい毛むくじゃらのどしりとした大きな手と肉球。
更にするどい目を持つ生き物で、ソレはがぶがぶとルディエラの腕を噛んでいた。
「おまえが食われてるぞっ」
「ちょっ、狼だよな。それっ。ちっこいけど狼だよなっ。
お母さん狼のところに返して来なさいっ!」
――保存食ゲット。