その1
突然のキリシュエータの言葉は、まさに寝耳に水――青天の霹靂。
ルディエラにとって思ってもいないことだった。
なんとか一月と三分の二程の日々を無我夢中ですごしてきた。
決して戦力になっていないことは認めよう。
足を引っ張っている自覚も恥ずかしながらある。
それでも歯を食いしばって、どろどろになって、傷だらけになって必死に突き進んできたのだ。
あと一月以上をこの騎士団で過ごせる筈であったというのに、突如としてその道は閉ざされた。
見たことも――正確に言うのであれば見たことくらいはあるのだが、記憶にとどめていない――聞いたこともないような相手からの突然の命令によって。
口の中が一息にからからに乾き、水分も酸素も足りないように頭にもやがかかる。
自分がいったい何をしたというのだろう。
必死に思い返してみても理解はできなかった。何か、きっと何か不興を買うようなことをしでかしてしまったのだろうが、生憎と判らない。
ただ激しい虚脱感のようなものに、ルディエラはぎゅっと自分の手を握り締めた。
短く切ってある爪が手の平に食い込み、その小さな痛みだけが現実のようだった。
第三王子殿下キリシュエータの唇から吐息が漏れた。
それが終焉の合図――
泣くことも、笑うこともできずにルディエラはゆっくりと浅い呼吸を繰り返した。
――除隊命令。
見習いは見習いのままに、三ヶ月の期日すら全うもせずに除隊という憂き目にあうとは想像してもいなかった。
それでも、ルディエラは自分がこの場に居られるのは、軍事将軍であるキリシュエータの独断という気まぐれであることは理解していた。
そして――ルディエラの除隊を命じたのが第一王子であるのであれば、キリシュエータといえども、もはやどうすることもできないのだということも。
ぽっかりと心に穴が空いたような奇妙な感覚に薄い笑みを浮かべ、ルディエラはゆっくりと腹式の要領で呼吸を繰り返し、鼻につんとくる思いを振り払った。
「つつしんで拝命いたします」
除隊命令を受ける者として、その言葉が正しいのかは判らない。ただ騎士見習いとして胸元に手を当て、正式な主を前にするように、真似事と理解していても――最後くらい立派に示したかった。
――この一月と半分ちょっとの騎士見習い期間を無駄にしたくない。
ルディエラが膝を折って示す態度に、ティナンは思わずその傍らに駆け寄り、膝をついた妹を引き上げ抱きしめようと手を伸ばした。
除隊命令を受けるのであれば、それはもう部下ではない。
見習いではなく、そこにいるのはただの――かわいい妹だ。
必死に自分の気持ちをねじふせて気丈に振舞う妹を、ただ引き上げて、抱きしめて、もういいのだと――もう、泣けばいいと慰めてやりたい。
家に帰ろう、と。
よく今までがんばったと。
その衝動のままに体は動いていた。
「触れるな」
ふっと、ティナンの手が宙をかいた。
ルディエラの腕に触れようとしたその瞬間に鋭く発せられた主の命令は、まるで刃のようにその場を引き裂き、ティナンはぐっと息を飲み込んだ。
「下がれ、ティナン」
「……殿下」
執務用の席についていたキリシュエータは厳しい眼差しと言葉で副官を制し、ゆっくりとした動作で一枚板の机に手のひらを当て、席を立った。
「にんじん。いや――ルディ・アイギル」
「はい」
「悔しいか?」
問いかけに応える前に、キリシュエータはこつりと長靴を床に叩きつけるように歩き出し、膝をついて控えるルディエラの前に立った。
「悔しいか、ルディ・アイギル。
私は、悔しい――意味も判らずただ除隊させよという命令に従わねばならん。せめて理由をと問うてはみたが、だが、フィブリスタ兄上は答えては下さらなかった」
キリシュエータは鋭い眼差しをひたりとルディエラの瞳にあわせ、ゆっくりとその心にねじ込むように口にした。
「来い、ルディ・アイギル――自らの道を塞ぐものに自らで立ち向かう勇気があるのであれば、この私が手を貸そう」
まっすぐに差し向けられたキリシュエータの白手に包まれた手に、ルディエラは考えるよりさきに自らの手を重ね合わせた。
「本気ですか、殿下っ」
ティナンは悲鳴のように声を荒げた。
「これ以上フィブリスタ殿下のご不興を買ったらどうなさるのですかっ」
「私が責任を負う」
「殿下っ」
ティナンはぐっと拳を握り締め、ゆっくりと首を振った。
「いけません。そこまでする必要はありません」
「ルディ・アイギルの命であれば保障する」
「我が君! 私が心配をしているのは貴方様の御身にございます」
だんっと力強く一歩を踏み出し、ティナンは主と視線を交えた。
その表情に甘さはなく、きつい眼差しが交差しあう中――ティナンは主を説得する為に口調をきつくした。
「冷静におなり下さいっ。たかが一介の騎士見習いの為にご自身のお立場を見失ってはなりません。相手は王位継承第一位のフィブリスタ殿下なのですよっ」
生真面目に主に向かうティナンに反し、ふっとキリシュエータの眼差しに余裕が生まれ、その口元に微笑が浮かんだ。
「何です?」
主の変化にティナンが眉を潜めれば、キリシュエータは自分の副官の肩に腕を回し、親しげに二度叩いた。
「おまえが自分の片腕だと久しぶりに思えた」
「どういう意味ですか」
「――行くぞ」
***
王宮を正面にして左側に騎士団官舎、その官舎内にキリシュエータの執務室があるのに対し、現国王補佐である第一王子フィブリスタの執務室は王宮内に存在する。
例え第三王子殿下キリシュエータといえども、王補佐であるフィブリスタへと面会を求めるにはきちんとした手続きを必要としていた。
「殿下、突然おいでになられましても、今すぐの面会などできかねます」
執務官の慌てる言葉を無視し、キリシュエータは不快を示すように片眉を跳ね上げて相手をねめつけた。
「弟が兄に会いに来ただけだ。奥においでだろう。かまうな」
「殿下っ。何事も定められていることでございますれば」
「兄の予定など気にかけていてはいつ面会が通るか判らん」
すでに執務室の前で警護に当たっている者がどうしたら良いものかとうろたえている。規定であれば、突然の面会については軍事的な問題が生じた場合にのみ許されている。だが、現状そのような事柄はなく、何よりキリシュエータは「ただ会いに来ただけだ」と言うのだ。
これまでには決して無い事柄に、官吏達が慌てるのも無理は無い。
「武器が問題というのであれば」
突如、話の矛先を切り替えてキリシュエータは自らの腰に吊るされた細剣を鞘ごと引き抜き、ぐいっと事務官へと押し付けた。
「これでいいだろう」
「キリシュエータ殿下っ、そういうことでは――」
「ティナン、おまえ達も武器をはずせ。私は別に謀反などでここにいるのではない――兄へと弟が面会を求めているのだ」
再度繰り返すキリシュエータに、事務官は根負けした様子で渡された武器を王宮警護の第一騎士団の人間に引渡し、嘆息した。
「少々お待ち下さい。ただ今フィブリスタ殿下に事の次第をご説明にあがります」
――ですがどうぞ、期待なさらないで下さいませ。
そのやり取りを固唾を呑んで見守りながら、ルディエラはぎゅっと自分の手の甲をつねり上げていた。
極度の緊張で、何かの痛みで紛らわせるしか自分を保てそうになかったのだ。
――自分が本当に騎士であるのならば。その魂を示すものならば、本来ここにいてはいけないのだ。
ティナンが正しい。
自分如きの為に主を危険に晒してはならない。その立場を脅かしてはいけない。
キリシュエータをとめもせずに、その言葉にやすやすと乗っかりこの場にいることは許されることではない。
奥にある執務室へと続く扉を開き、顔を出した執務官は心持ち堅い表情で戻り、一礼した。
「フィブリスタ殿下はお会いになられません」
「知るか」
短く、鋭く言い切るとキリシュエータは自らの背後にいるルディエラの腕を引っつかみ、足早にその扉へと駆け寄り――ルディエラを放り込んだ。
「殿下っ」
「兄からの叱責ならば後でいくらでも聞く。僅かでいい、私に時間をくれ」
キリシュエータはその場にいる全ての者を制するようにつげ、自らの背を閉ざした扉に預けて腕を組んだ。
――かなり、自分のしていることが危険なことであると自覚しながら。