その4
踏んだり蹴ったり――もしくは、踏まれたり、蹴られたりだった。
第三騎士団宿舎内に作られている大浴場での壮大なる大脱出作戦は完璧な筈だったが、勢いをつけて浴槽から立ち上がり、大慌てでそこから抜け出して思い切り足を動かしたところで、ふわっと足元をすくわれるような奇妙な感覚と、頭にかかる靄によってルディエラはその場でばったりと倒れた。
それはもうもののみごとに。
幸いなことにその時の痛みにより、失いかけた意識は浮上したものの、お尻丸出しでずっこけるという、取り返しのつかないような状況に思えたが、そのむき出しの背にはばさりとベイゼルの上着が掛けられた。
なんだか罵詈雑言をがんがん叩き込まれたあげく、思い切り踏まれるし、力任せに引き上げられたあげく、大きなベイゼルの上着を引っかぶった格好のままで脱衣所へと引き立てられ――なおかつ、脱衣所へと蹴りいれられたのだ。
げしりと力任せに容赦なく。
「とっとと着替えて部屋に戻って色々反省しろっ、この糞ボケがっ」
最後にそんな台詞を吐かれた気がしたが――まぁいい。
踏まれたことも、蹴られたことも大目にみよう。
なんだか判らないが、当初の危険は去ったのだ。
あんな状態で誰一人として女と気づかれることは無く事なきを得たのだ。
脱出大作戦は成功のうちに終結した。自らの手柄とはちょっとばかり言い切れない場面と、あの状態でも女の子だと判らないヤツは目がおかしいのではないかという疑念と、それとももしかして自分ってやっぱりそんなに女の子らしくないのかなぁという憤りを残して。
まぁ、このことは綺麗さっぱりと忘れることにする。
というか忘れた。
とくに男性の身体的特徴については。
はい、これにて終了。
「これもきっと日ごろの行いがいいからだな」
ルディエラは昨夜のことを思い出し、過去は過去として頭の箪笥の引き出しにしっかりとしまいこみながら、馬房までの道のりを歩きつつうんうんっとうなずいた。
己を知らぬ者ほど恐ろしい者はない。
「あー、なんか言ったか?」
昨夜から不機嫌なベイゼルはあくびを幾つもかみ殺しながら、ギロリとルディエラを睨みつけた。
「そういえば、副長ってば昨日戻ってくるの遅かったですね。ぼく随分おきてまってたんですけど、結局先に寝ちゃいましたよ」
「あの後風呂入ってからクロさんと風呂場の片づけして、酒飲んでたんだよ、ボケ」
湯中りしたルディエラを気にかける二人を無理やり浴室に留めることにどれだけ無駄な体力と気力とを必要としたことか。
挙句の果てにクロレルには散々「第三隊の人たちは皆そんな風に見習いを扱っているのか」と苦言をだらだらと向けられてしまった。
――もう本当に勘弁して欲しい。
オレがんばったよ?
めちゃくちゃがんばったって。
誰も評価してくれねぇけどなっ。
「うわっ、副長ってば酒臭い」
あからさまに顔をしかめるルディエラの様子に、ベイゼルはぎゅっと拳を二つ作り、ぐりぐりと相手のこめかみの辺りを締め上げた。
「いたっ、いたいいたいいたいぃぃっ」
「食らえっ、酒臭っ」
押さえ込んだまま、はーっと力いっぱい息を吹きかけると、ルディエラが「やめて下さいぃぃ」とじたばたと暴れる。
丁度通りかかったクロレルとフィルドが顔を見合わせ、ベイゼルの暴挙を止めようと近づくより先に――隣接する建物の階上より声が落ちた。
「にんじん」
その声は低く、ベイゼルのそれよりも不機嫌そうに響く。
相手が誰だか気づくと、馬房へと足を向けていた数名の騎士団員達はぴたりと足を止め、胸元に手を当てて一礼した。
「話がある。来い――」
端的な言葉で命じつけ、今度はベイゼルへと続ける。
「今日の訓練はにんじん抜きで進めておけ」
建物の三階窓際で言う第三王子殿下キリシュエータの言葉に、ベイゼルは「了承いたしました」と丁寧に応え、キリシュエータの姿が見えなくなると、まるで八つ当たりでもするようにべしりとルディエラの肩を叩いた。
「おまえ今度は何をしたんだ?」
「いや、ぼく何もしてませんよっ?」
突然のことにルディエラ自身動揺しつつ、何故か周りを見回して顔をしかめた。ひそひそと小さな声で「贔屓」だの「特別待遇」だのという囁きが聞こえてくる気がする。
それは堂々と言われているものではないが、それでも――まるで忘れ去ることの許されない罪だとでもいうようにちくりちくりとルディエラの身を刺すのだ。
***
「フィブリスタに何をした?」
たんたんっと、執務用のテーブルを指先で神経質な様子で弾きながら言葉を捜すようにしていたキリシュエータがそう口火を切ったのは、たっぷりと三分程はたった後のことだろう。
キリシュエータの執務室にティナンと第一隊の騎士一人が控え、その顔色は少し悪いようにさえ見える。
きつく結ばれた唇に、いつもより更にその眼差しが厳しい。
なんだか激しく居心地の悪い思いを抱きながら、ルディエラは相手の言葉に首をかしげた。
「……あの」
「なんだ」
「フィブリスタって、何です?」
何か壊してしまったろうかと怯えを含ませてルディエラが言うと、ティナンが咄嗟に声を荒げていた。
「無礼は慎め。
第一王子殿下――王位継承権第一位のフィブリスタ殿下のことだ」
鬼隊長の口調で言われ、ルディエラは背中を叩かれたかのようにびしりと硬直した。
第一王子殿下――現在の王補佐の名前が確かにそんな名前であったかもしれない。だが、言わせて貰えばこの国の三王子の名前はややこしい。
上からフィブリスタ、リルシェイラ、キリシュエータ――一発で覚えられたら外交特使にだってなれそうな難関だ。少なくともルディエラにはそんな名前を一発で覚えることは完全に無理だと断言できる。
名前が悪いなどと言える訳もなく、さすがにルディエラは口を噤んだ。
しかし、まったく意味が判らない。
何故ここにきて第一王子殿下の名前など出てくるのだろうか?
たとえば、先日思い切りその絶壁頭の側頭部を殴りつけてたんこぶを作り上げてしまった、第二王子殿下リルシェイラの件でお叱りを受けるのであれば十分に理解ができる。
だが、たかが見習いであるルディエラに第一王子殿下との接点は皆目思いつかなかった。
「フィブリスタがおまえを除隊させろと言って来た」
重苦しい口調で言うキリシュエータの言葉に、ルディエラは頭の中で「変な名前兄弟め」と思考していたことがはらりと消え去り、思い切り「なんでっ」と声を上げていた。
「え、どうして? なんでっ、どうしてそうなるのっ」
「こちらが聞きたい。昨夜遅くに呼び出されて言われたことはその命令だけだ――エリックの娘、ルディエラ――おまえを騎士団から出せと」
***
「クインザム」
きつい口調で名を呼ばれ、クインザムは丁寧に一礼した。
陛下との拝謁を済ませたのだから、本来であれば一刻も早く愛する妻の許へと戻りたいのだが、呼び止めた相手は生憎と無視できる相手では無い。
王族特有の色素の薄い金髪に湖畔のような深い碧玉の眼差し。
眉間に皺を寄せてつかつかと歩いてくる青年の背後には、三人の護衛騎士がつき従っている。
フィブリスタ第一王子殿下――次期国王と目される相手。
「アレは誰だ」
「――アレ、とはどなたのことでしょうか」
「判っているだろう? ティナンが連れているあの娘だ」
言われても生憎とクインザムには覚えが無かった。
本日は第二王子殿下リルシェイラの為の壮行の為に渋々夜会などに赴いたのだ。本来であれば王宮の催しなど出席したくない類のものだが、自らの婚姻のおりに骨を折ってくれたリルシェイラからの招待には応じなければいけない。
来て早々に陛下から拝謁を命じられて王宮内部へと来た為に、ティナンが女性をつれているなどという話にもぴんとは来ない。
「ティナンが女性と? 誰か相手を見つけたのでしょうか。生憎と――」
「何故、騎士団に所属している」
苛立つように言われ、やっとクインザムは相手の言わんとしている言葉の意味を受け入れ、眉を潜めた。
騎士団に所属している娘など、他に居ない。
ならばこの相手が示すのはすなわち――自らが育て上げた愛しい妹に他ならない。
「うちの末のことでございますか?」
「何故騎士団なのだ。何故、そんな危険なことをっ」
「当人の希望ですから」
ゆっくりと言う言葉に、フィブリスタはぐっとクインザムの上着を掴み、壁際に押し付けるようにして低く恫喝するように囁いた。
「あの子は私のっ」
「お間違いなさいますな。殿下」
クインザムは低く、冷たい眼差しで相手を見返した。
「あの子は貴方様とまったく関係の無き者。
どうぞかような場で軽々なお言葉はお控え下さいませ」
「――そうだ。だが」
「殿下。私の妹をお気遣いいただきありがたき幸せに存じ上げます。
ですが、どうぞそれまでに。
あの子のことは捨て置き下さいますようお願い致します」