その1
「ああ、いいんだよ。こいつは最後に風呂掃除させときゃ」
ベイゼルが言った言葉を、クロレルはいったいどう判断したのだろうか。
ルディエラは浴室の淵をがしりと掴んだまま、頭がくらくらとどこかにイッてしまいそうなのをなんとか堪えていた。
今まで深く考えたことは無いが、いつもお風呂は最後だった。
それで困ったことは無かった。誰もいない浴場で思い切りのびのびと風呂に入り、それでも最後の風呂だから「お風呂は綺麗に使って欲しいよ、まったく」などと文句を言いつつも片付けもきちんとしていたのだ。
よくよく考えるまでもなく、こういった騎士団などでは風呂など大人数で入ることのほうが多いだろう。今までそういった経験がないのは、ルディエラが見習いとして最後に浴場の片付けをする――そういう名目があった為だ。
騎士団に見習いとして入ったときからこうなのだから、自分でも疑問にすら思っていなかった。
もちろん、ルディエラが女であることを知っているベイゼルの配慮なのだが、ルディエラとしては「見習い」はそういうものなのだろうとしか思っていなかった。
挙句、いつも掃除ってぼく可哀想くらいに思っていたくらいだ。
「なんだ、まだ入っているのかい?」
本日、第二王子殿下リルシェイラが隣国への遊説に出立し、残された第二隊の三分の一を率いるクロレルは第三騎士団との訓練に入った。
それにあたり、クロレルが提案をしたのだ。
「外遊の為に従卒などの人数も減っている。よければ風呂場を共用させて下さい。風呂洗うのはこっちでやるから」
と、気さくに言ったのだ。
別段おかしなことではない。何事も経費の削減は唱えられているし、確かにたかが十数名の為に巨大な風呂を用意する手間もある。
ルディエラとしてもどうでもいい部類の提案だ。
いつもと何も変わらない。難点があるとすれば、いつもより風呂の時間が遅くなる程度の話だったのだが――
「長風呂だな」
クロレルが苦笑と共にルディエラの入っている湯船に足を踏み入れた時、ルディエラの頭の中は完全に真っ白になった。
クロレル副長、細いのに腹筋割れてるとかそういうの抜きで。
「な、なっ、な……なんでクロレル副長が?
ぼく、順番間違えましたかっ?」
「いや。私はいつもゆっくりと入りたいタチだから最後に風呂を使ってるんだ。大勢がわいわいやっているのもうるさいからね」
湯船の淵にがしりと張り付いているルディエラと違い、クロレルはそれほど深くない湯船を歩き、一番奥まで行くと、ゆったりと腰を落ち着かせた。
おそらく、現在はルディエラの頭が見えていることだろう。
肩すらまずいかとルディエラは更に身を沈めながら、半泣きでただ前方を見つめた。先ほどクロレルが入ってきた出入り口の辺りを一心不乱に。
――見た。今、確実に女の子として見てはいけない感じのものを見た。
いや、男兄弟の中に育ったのだから、見たことが無いとは言わない。確か六歳くらいまでセイムと一緒になって川遊びもしたから、セイムのだって見た。
ああ、そうだ。見たことがある。見たさ。はじめてじゃないもんね。なんかでもイメージとちが……いや、深く考えては駄目だ。駄目だってば。
大丈夫だ。
ルディエラ――大丈夫だ、落ち着け。
こんなことは大騒ぎすることじゃない。
そうだぞ。見たから何だって言うんだ。
と、なんだか判らない応援を自分相手に必死に送るルディエラだが、すでに頭は煮えている。
せめて手で隠して入って来てよっ!
心がさめざめと泣いているが、もちろんクロレルにそんな義務は無い。
男しかいない筈の浴場にのんびりと浸かっていた見習いが、まさか女性であると知っていたら、堂々と入ってくることもなかっただろう。
「アイギル、風呂の片付けはやっておくから。先に出て構わないよ」
クロレルが穏やかな口調で言うのを背中から聞きながら、ルディエラはばくばくと鼓動する心臓を宥めた。
「い、いえっ。片付けはぼくがやりますからっ」
「いつも風呂の片付けをさせられているんだろう? たまには構わないさ」
その親切が仇過ぎる。
本来であれば「クロレル副長はベイゼル副長と違ってすごい親切だっ」と絶賛したことだろうが、しかし今は到底そんな気持ちになどなれない。
「そういえば、最近はフィードとうまくやってるみたいだね」
「フィルドさんとは仲良しですっ」
無駄に高い声で言いながら、それでも相変わらずがっしりと風呂の淵をつかんでいると、背後からクロレルが喉の奥を鳴らした。
「おいおい、そんなに緊張しなくてもいいじゃないか。確かに君にしてみれば上官かもしれないけれど、ベイゼルと同じ副長っていうだけだよ」
別の意味の緊張だが、当然そんなことを推し量れというほうが無理がある。
「それに、半月程は同じ訓練を受けることになるんだから仲良くしよう」
いえいえ、半月どころかもう一月と半月です。
ぼくってば第二隊への移動が確定してますから。でもちょっと色々心配なんです。だってぼくリルシェイラ様の絶壁頭にたんこぶをこしらえてしまったから。今日辺りまだたんこぶが残っているのではないかと危惧しております。
という軽口も簡単には出てこない。
だらだらと玉のような汗が浮かび、つーっと頬を流れていくのを感じながらルディエラはただただ羨望の眼差しで出入り口を見つめていた。
背中だけを見せていれば女だとバレない――
そうだろうか? 華奢とはいえ、適度に筋肉はついているしセイムの太鼓判を押されたまな板胸は……
ルディエラはつつつっと視線をゆっくりとさげ、そぉっと自分の胸元を見てみた。
――なんかちょっと最近膨らんでる気がする。
普段であれば喜んだことだろう。
そぉっと自分で自分の胸を触り「もう絶壁だの足りないだの言わせないからね」と言いたいところだが、今はえぐれていたとしても大歓迎。
自分で自分の胸を包むように触れ、ルディエラは肩を震わせた。
いやいやいやいや、ちょっと頼りない胸筋で押し通せるんじゃないかな。湯気だってたっているし!
ルディエラは意を決し、そぉっと背後のクロレルの様子を伺う為に振り返ってみた。
壁側に頭を預けるようにして入浴中のクロレル副隊長は、実にのんびりとした様子で頭にタオルをのせて目を閉じている。
それを見た途端、ルディエラは瞳を輝かせてくるりと前方へと視線を戻し、一気に退路へと思想をはじけさせた。
気配を消して音をさせず、湯船から出て一気に脱衣所へという動きが頭の中で再現される。何も言わずに逃げるように出て行くのは実に失礼だが、脱衣所とこの浴室とをつなぐあの扉の向こうから顔だけを出して「お先に失礼します!」と言い切ればこのミッションは完璧にコンプリートだ。
よし、大丈夫だ。
ぼくならやれる。身の軽さには自信がある。
まずは湯船を軽やかに出るのだ、ルディエラ!
「そういえば、今日の訓練では――」
湯船の淵に手を掛けようとした途端、背後から掛けられた言葉に危うくルディエラはずるりとすべって顎を打ち付けそうな程に動揺した。
バシャンと無駄に大きな音をさせて手が湯を叩く。
それに驚いたクロレルが瞑っていた目を開けた。
「アイギル? 風呂場では暴れるなよ」
「す……すいません」
「もう子供ではないのだから。まさか泳ごうとしていた訳じゃないだろうね」
そんなことはしていません。
ルディエラは背中を向けたまま棒読みで返しながら心の中で涙を流した。
先ほどまで頭の中で描いていた「第三騎士団浴場脱出作戦」ががらがらと音をさせて崩れていく。
こんなにも困難な作戦は今までに無かった。
「今日の訓練で怪我をしただろう? 大丈夫だったかい?」
「ああ……あれは、だいたいいつもあんな感じですから」
昨日、優しかったティナン兄は、日付をまたいだ途端に鬼隊長に戻っていた。
それを思うとルディエラは湯船の淵に落ち込むように顎を預けた。
判っていたことだが、兄の豹変振りはある意味賞賛に値する。あそこまで公私を分けることができるのは立派だ。
ただ、ルディエラにしてみれば寂しいが。
ふと、本日訓練中にルディエラが怪我をした時のティナンの何ともいえない表情を思い出してルディエラは身震いしてしまった。
剣先をよけきれずに二の腕を切ったルディエラに舌打ちし「愚か者、この程度よけずにどうする。貴様は幾度死ぬ気だっ」と怒鳴られるのはいつものことだ。だが、今日のティナンはルディエラの傷口をぐっとつかみ、自分の塗れた白手をぺろりと舐めた。
そのしぐさが……腹の奥が冷える程に怖かった。
そう、怖かった。
その凄絶さを振り払うように、ルディエラは軽く首を振った。
「あ、でもぼくよりフィルドさんのほうが酷くやられてた気がしたけど――フィルドさん大丈夫かな」
ルディエラはがばりと顔をあげ、視界に入る脱衣所と浴室とを隔てる扉が押し開かれるのを見てしまった。
そう、脱衣所のほうから開かれるさまを。
「ああ、フィード。おまえも風呂最後か」
――クロレルの言葉に、ルディエラは更に深く湯船に沈んだ。
***
「家族というのは、どうやったら判別が利くものだろう」
王都から馬で駆けて一刻程の場所に作られている寄宿学校等の一角に、その塔は抜きん出た高さを誇って存在する。
別名【賢者の塔】――国で一番の蔵書を誇る図書館であり、資料館であり、そして限られた研究者達が研究にいそしむ為の地。
突然現れた三男ティナンの言葉に、四男ルークはしばらく兄を見つめ。
「どっち?」
と返した。
「……どういう意味だ」
「上、下?」
無表情で言われる言葉をじっくりと吟味し――ティナンは額に手を当てた。
「下」
「……半年と二十一日ぶりだ、ティナン兄さん」
「おまえまでぼくとクイン兄さんを見分けるのが困難なのか」
確かにティナンとクインザムは似ているといわれているが、だからと言ってそうそう間違えられることは無い。クインザムの方が身長は高いし、持っている雰囲気といえば冷徹。あの兄と一緒にされるのは、あまり良い気がしない。
「困難とは言っていない。面倒なだけだよ」
ルークは言いながら小首をかしげた。
歴代三位の若さで【賢者の塔】入りを果たした青年は、時折理解不能な言動をとる。
腰まである髪をゆるい三つ編みにしているルークは、外見を気にかけている訳ではなく切るのが面倒という理由で髪を伸ばしている無精者だ。
「で、何しに来たって?」
「家族の判別は何か無いかと思って。たとえば――血の味が、違うとか」
ティナンはふとルディエラの血を舐めた時の味を思い出し、小さく笑った。
ルディエラの二の腕を傷つけ、そこからあふれた血に胸が激しい程痛みを訴え、その血が自分の白手を汚したのを見た時、無造作に舐めていた。
自分の血の味と違う気がした……酷く甘い気がして、何故か落ち着かない気持ちで弟を訪ねてしまったのだ。
血の味など、判りようもないのに。
そんなことで判るのであれば、王族の処女判定など必要はない。
自分でも判ってはいるのだ。
「安心して。クインとティナンは間違いなく兄と弟だ」
ルークの言葉に、ティナンは引きつった。
「誰がそんな心配してますか」
「けど、ぼくとルディは違うかもしれないな」
ルークの言葉に、ティナンは息を詰めた。
とくとくと心臓が激しく鼓動する。まさかずばりと確信をつくような言葉をルークが言うとは思っていなかった。
耳鳴りまでしてきそうな緊張に、口の中が乾いてくる。
ごくりと生唾を飲み込み、ティナンはゆっくりと――あせらずにゆっくりと問いかけた。
「その根拠は?」
「ぼくと兄妹にしては、ルディエラは馬鹿すぎる」
「……」
どっこいだよ。
ティナンは激しい脱力を覚えたが、おそらくキリシュエータがいたのであれば「おまえもな」と付け足してくれたことだろう。