その3
「脱落五名追加!」
軽快な口調で言いながら、ベイゼルは息を乱してトラック上でのたうっている人間達を馬柵の外に引きずりだし、クロレルが嘆息つきで脱落者の名を質の悪い紙に書き記していく。
「絶対にケツはアイギルだと思ったのに」
ぶつぶつと口の中で文句を垂れ流しているのは、訓練がはじまる前に同じ隊内で簡単な賭けをしてしまった為だ。
――ルディエラが一番はじめに脱落すると踏んでいたベイゼルは、銀貨一枚を失ってしまったことになる。
「見習いは粘りますね」
クロレルの言葉に、まるで自らが褒められたかのように第三王子殿下キリシュエータは瞳を細めて笑みをこぼした。
「にんじんは負けず嫌いだからな」
「こういう時は新入りらしく先輩をたてるもんでしょ」
それでもってアイギルのビリに賭けていた俺をたてやがれ。
相変わらずベイゼルがぶつぶつと口を尖らせるが、ベイゼルがルディエラのビリを願ったからこそ、負けず嫌いが暴走しているともいえる。
「それにあのボケカス、嬉々として他の人間の足を引っ張ってる。チーム戦に向きゃしない」
「元々これはチーム戦じゃない。個人戦だろうに」
「相手のペースを乱したり、相手が自分を追い抜こうとするのを邪魔したり。相当性格悪いですよっ」
あの根性悪!
と、上官達が馬柵に寄りかかって面白い見世物よろしく眺めているのを尻目に、ルディエラは一定のペースを崩すことなく「どれだけ他の人間を早く脱落させるか」という悪魔の所業に白熱していた。
延々と同じ場所を走らされていたのは第二隊、第三隊総勢にして七十名足らずだったが、走り込みも気付けば終盤。
その人数はすでに二十名を切っている。
この辺りまでくればいつ倒れてもおかしくないくらいに全員が疲弊しているし、おかしな工作活動をしているルディエラに対して全員が警戒をしている。
別に最後の一人を目指している訳では無いルディエラだったが、とりあえず第二隊のフィルドよりは多く走りぬきたいという野望があった。
和解も済ませて最近ちょっぴり仲良くやっているが――当然当人だけの思い込みだが――第二隊で知っている唯一の人ということもあってルディエラはフィルドを迷惑にも勝手に目標にすえていた。
――ぼくより三周早い。
それがまた闘争心をかきたてる。
三周。
他の人間にちょっかいをかけていた為に明らかに遅れてしまった。この三周をなんとか覆す為にはいったいどうすればいいだろうか。
姿を見るたびにどうにか邪魔してやろうと画策したのだが、フィルドときたらまるで「化け物」でも見たかのように逃げていくので、逆に間をあけられてしまったと気付かない残念なルディエラは、正攻法で走っていたほうが自分の体力も削られなかったことにも当然気付いていない。
***
苦い気持ちが腹部にたまり、その表情は冷たさに磨きをかけた。
勝てる賭けだった筈だというのに、ティナンの目論見はあっけなく覆されてしまったのだ。
ティナンとアラスターとが話し合いをしている間に行われていた第二隊、第三隊合同訓練にて、ティナンはルディエラが第二隊の人間より早く脱落するか、もしくは終了の合図まで走りきったとしても、第二隊の人間より遅れて終着すると思っていた。
彼の妹は女性としてみれば身体能力は高い部類になるだろうが、男達の中で平均値を上回るものでは無い、何より慣れない走りこみに脱落するのは火を見るより明らかだと思っていたのだ。
しかし、結果としてはじき出されたのはまったく別の回答だった。
「リズムを崩されると駄目なんですよねぇ」
倒れるまで走れの言葉の通り、幾人もの男達が倒れている。
そしてルディエラ自身もへばっているがその完走周数は他の大方の隊員よりも三週は多く、その場で大の字になって倒れてはいるものの、誇らしげにすら見える。
「でも、まさかフィルドさんがぼくより二周多く走るとは思わなかった!」
顔をしかめて唇を尖らせてぼやくが、その応えは隣からあがった。
「貴様の思惑などに早々はまってたまるか」
ルディエラの隣で馬柵に腕をかけているフィルドだったが、その足はがくがくと震えていて、その走り込みの壮絶さを物語る。
「――結果について何か言いたいか?」
アラスターが意味ありげに小さく囁くことに、ティナンは奥歯をかみ締めて耐えた。
「ベイゼル」
一番初めにばてたのは第二隊の人間だったことも災いし、ティナンにとっては手も足も出ない結果となってしまったのはまさに計算外だ。
「後のことは頼みます」
きつい口調でティナンは言い、離れた場所で地面になつきながらも楽しそうににやにやとし、他の隊員からの罵声を嬉しそうに聞いているルディエラの姿に複雑な視線を走らせた。
本日のルディエラも、ものの見事にボロボロになっている。
見習い隊員としての隊服は他の隊員達とは違う色をしている為によりいっそう目立つが、その隊服も、その顔もあきれる程にドロにまみれて汚れている。他の隊員から浴びせられている罵声など、決して女の子が向けられて良い言葉ではないのに、当人はむしろ楽しそうにすら見える。
――女の子なのに。
その思いがいっそうティナンの胸を切りつける。
ルディエラが自宅で騎士を気取っている分には可愛いの一言で済ませられた。
無邪気に強くなりたい、騎士になりたいという様はただの子供の憧れで、決してかなえられない夢をただ語るだけの害の無いものだったというのに。
何よりティナンを打ちのめしたのは、今まで決して自分に逆らったことなど無い妹が、自分の言葉に逆らってこの場にいることだ。
――来るなと言ったのに。ルディエラは拒絶した。
「止めろ」
ふいの声にティナンはハっと息をつめた。
「射殺すような目でアレを見るな」
くんっと肩に手をかけられ、無理やり方向を変えさせられたティナンは掠れる口調で「殿下」と主を呼ばわった。
「本来のおまえを知らなければ、おまえがアレを憎んでいるのかとすら疑う目だ。無駄に威圧して脅しをかける必要はないだろう」
憎い……?
憎い訳がない。可愛い妹なのだから。
だが、ほんの少し許せないだけだ。
何故自分に背いてこんな場にいるのか。何故、この手を振り払って……不必要にずたぼろになってそこに居続けようとするのか。
こんな場所など捨て去り、さっさと実家に戻ればいい。そうすればいくらでも冷たい態度をとったことを詫びて、抱きしめて、他の何ものからも護るのに。
ルディエラさえ意固地にならなければ、自分はこんな態度をとらなくて良いというのに。
女の子がいていい場所では決してないのに。
あの日――実家になど立ち寄らなければよかった。
あの日、キリシュエータを実家にいれるのではなかった。
あの日……いくらでも湧きあがる後悔に、ティナンはぎしりと奥歯をかみ締めた。
――お恨みもうしあげます。我が君。
胸の奥で言葉が呻くように響いていた。
***
「あら、ティナン様」
にっこりと微笑んだのは淡い栗毛の少女だった。
今頃は隊員達は沐浴と着替えをすませ、酒場【アビオンの絶叫】辺りに足を向けていると思うと腹が立つ。
だが、ルディエラがいると思えば自分も足を向ける気にはなれなかった。
丁度兄から託られた使いを幸いに、ティナンは今朝方の手紙に同封されていた封書と、現金とを手に古馴染みの家を訪れることにしたのだ。
「ネティの具合はどうですか?」
エプロンをつけた娘は、曾祖母の名に苦笑しながらティナンのコートを受け取り、室内へと招き入れる。
「いつもどおり元気ですよ。最近ちょっとボケてますけど――あらいやだ。ティナン様ってばわざわざおばあちゃんに会いにいらしたの?」
からかう口調で言いながら、それでも「兄に様子を見てきて欲しいと頼まれたから」といえば、素直に二階にあるネティの私室へと案内をかってでる。
「いや、いいですよ。何かしていたのでしょう? 作業に戻って」
ティナンはやんわりと言いながら、ルディエラとたいして年齢の変わらない少女の様子に気持ちを沈めた。
あの子も――女の子らしく家庭にいてくれればどんなにいいか。
いや、女の子らしくなくて構わない。
ルディエラはルディエラらしくあればいい。
けれど今のように無理して男とてふるまうのはいただけない。
ベイゼルが聞けば「いや、当人無理してる様子は無いよ? むしろあれ素だろ」とぶんぶんと首を振りそうなことを思っていたが、生憎この場に突っ込み要員はいなかった。
重い嘆息をつき、二階にある年齢不詳の老婆の私室の扉をノックした。
「ご無沙汰しています。おかげんはいかがですか?」
声をかけると、窓辺でロッキングチェアに腰を落とした老婆が開いているのかいないのか判らない視線をティナンへと走らせ、顔をほころばせた。
一回り小さくなった気がしたのは、元々肉付きの良い女が多少やせたのだろう。クインザムが心配するのもうなずける――その様子は病に蝕まれているのがありありと判るものだった。
もとより年齢も関係するものだろうが、おそらく産まれた瞬間から付き合いのあるこの老女もそう長くは生きられないだろう。
ティナンは妙に物悲しい気持ちを抱いた。
「おや、クインザムぼっちゃんじゃないか」
「それは兄です」
「おやまぁ。じゃあ、ティナン坊かね」
ティナンですけど坊は止めて下さい。
楽しそうにあれやこれと尋ねてくれる老婆にティナンは愛想良く対応した。
「末のぼっちゃんはどうしたね」
「ルークですか? 今は【賢者の塔】で好きな研究にいそしんでますよ」
ティナンは言いながら、兄から渡されていた手紙と現金とが入った封筒をテーブルの上に置き、ついでに途中で購入してきた花も添える。
「ちがうちがう。ルークぼっちゃんの下のぼっちゃんだよ」
しわくちゃの骨と筋ばかりの手を振って笑う相手に、ティナンは微笑した。
「ルークの下はルディエラですよ。あの子は女の子じゃありませんか」
いくら男の子のような姿をしていたって、そこは間違えないで欲しい。
ティナンも慣れないむつきをかえたこともあるし、夏場の川遊びで素っ裸になるルディエラを何度たしなめたか知れない。
そんな昔のことを思い出し、ティナンはちょっとだけ切なくなった。
「自分が取り上げた子供を間違えちゃ駄目ですよ」
笑いながらたしなめるように言うティナンに、老婆は憤慨した様子で顔をしかめた。
「何言ってるんだい。誰も彼も人をボケたボケたって。失礼ですよ。
エリックの旦那さんの子は全部あたしが、この手で取り上げたんだよ。
間違うものですか。
五人ともちゃあんと立派なもんをつけた男の子だよ!」
「……はい?」
いや、ボケてますよ。
ティナンはまじまじと怒っている老婆を見下ろした。