その2
――倒れるまで走れ。
他隊の人間に負けたら追加訓練。
そう命じつけられた第三騎士団の面子には余裕があった。
「なんだよぉ、今日走るヤツは羨ましいぜ。俺なんか審判役で走らないからな。もったいねぇ。言うまでもなくケツは確定してるのになっ」
と、ベイゼルはにまにまといやな笑いを浮かべ、周りの隊員達と目を見合わせあう。見習い隊員ルディエラは「そうなんですか?」と首をかしげ、ついでその意味を理解すると逆上した。
「馬鹿にしないで下さい! ぼくだって少しは体力ついたし、そうそうビリになったりしませんからね!」
こうなっては自分の隊の人間は決して信用できない。
ルディエラはやけに余裕をかましている第三隊の人間達を見返すべく、以前のようにペース配分も視野に入れて馬柵で囲われている、本来であれば馬を走らせる為のトラック内を一人黙々と走っていた。
「副長二人は走らないのか?」
通りかかったキリシュエータが審判役としてスタート地点で立っている二人に声を掛けると、ベイゼルは肩をすくめ、第二隊の副長であるクロレルは苦笑した。
「片方は走ろうとしたんですけど――腕相撲で決めた審判役がエージに決まった途端、第三隊の見習いが意義を申し立てまして」
「俺は信用できないそうっすよ」
「ということで、二人で審判です」
肩をすくめる相手に、キリシュエータは顔をしかめた。
「それで、今のところはどうなってる?」
「均衡を保っていますが、この先どうなるか」
隊員達も馬鹿ではない。倒れるまで走れなどといわれたところで、正直にぶっ倒れるまで走り続けることはしない。周りを見てどれだけ走らずにいられるかを考え抜く――悪く言えば、どれだけ手を抜きつつ、決して最後にはならないようにする訓練と化していた。
ベイゼルは馬柵にぎしりと体をもたれさせ、にまにまと口元をゆがめた。
「あとは、頭脳戦スよ」
***
ティナンは書記官が作成した書類を丁寧に検分し、サインをし、滲まないように吸い取り紙で抑えると、微笑んだ。
「では、こちらの書類はキリシュエータ殿下の執務官に届けておいて下さい」
「かしこまりました」
従卒の世話係が勢いよく応えて礼をとり出て行くのを眺め、窓辺で第二隊と第三隊の合同訓練を眺めているアラスターに声を掛けた。
「どうです?」
「少しづつ動きが出だしたな。良くも悪くもおまえのところの見習いがペースメーカーになっている」
どちらかと言えば褒めるような口調の言葉に、ティナンは半眼を伏せた。
「あの子は、第三隊よりうちのほうがよさそうだ」
「どういう意味です?」
アラスターは腕を組み、窓枠に寄りかかるようにしてクっと喉の奥を鳴らした。その眼差しが面白がるように細まり、目じりに小じわが刻まれる。ティナンより十程も年齢の高いアラスターは、まるで息子でも見るような眼差しでティナンを見るから、ティナンは居心地の悪さに身じろぎした。
「あの子はアレで根が真面目過ぎるんじゃないか? 言われたことをそのままにやろうという姿勢があるんじゃないか? どうしてアレをベイゼルの下につけた? むしろおまえ自身が面倒を見るべきだったろうに」
アラスターの疑問に、ティナンは冷笑を返した。
「確かに、ぼくは間違えました。ルディ・アイギルの面倒はぼくがみるべきだった」
「そ――」
「そうすれば、今頃は尻尾を巻いて実家に帰っていたろうに」
嫌悪するかのような口調で言い、ティナンは冷笑を湛えた。
ルディエラは騎士団員としての能力は決して高くない。とりえといえば身軽さと真面目さ。訓練を怠けたりはせずに実直過ぎるほどに他の隊員達に喰らいついていく。毎日毎日あきれる程にぼろぼろになって、それを見続けるのはティナンにとって相当きつい。
「アラスター」
絶句しつつティナンを見ていた第二隊隊長に、ティナンは真摯な眼差しを向けた。
「あなたにも、ルディ・アイギルの騎士団本入隊を拒否してもらいたい」
それは保険。
キリシュエータは三ヶ月見習いとして過ごした後に騎士隊長の全員の了解を得て騎士に序すると言っていたが、あの時と今とでは少しばかり違っている。
――自分が反対したとして、他の隊長が許可したということで他隊に配属させると言い出さないとも限らない。
「騎士団第三隊騎士団長! おまえは自分が何を言っているのか判っているのか?」
窓枠に預けていたからだを起こし、体に怒りすら滲ませたアラスターは珍しく声を荒げた。
「隊長としての資質に関わるぞ」
「どうとでも。何度でも言いましょう――ルディ・アイギルは騎士団に入隊させる訳にはいきません」
ティナンはふっとその冷たい表情に陰りを浮かべ、相手の激昂を流すように視線を伏せた。
吐息とともに口が開き、閉ざされる。
幾度かの迷いを見せて、ティナンはそれまでのきつい眼差しではなく、迷い子のような切なげな眼差しを憤りを見せているアラスターへと向けた。
――兄でも妹でもないと言ったのは自分だ。
ここで妹なのだと告白することはできかねて、ティナンは振り払うようにその瞳に力を込めた。
「アラスター。ここでこう言うのは卑怯かもしれませんが――以前、貴方はぼくに言って下さいましたね。父エリックに命を救われたことがあると。息子であるぼくに困ったことがあれば何でも言えと」
「ティナン、それを盾にこの私に信念を曲げろとか言うつもりか?」
更に怒りを膨らませる相手に、ティナンはゆっくりと首を振った。
「賭けをしましょう。
ルディ・アイギルが貴方の隊員に勝てるようであれば、あなたは貴方の信念のままにあの子を貴方の天秤に掛けるといい。騎士団に残すも、弾くも貴方の意思で」
ティナンはその視線を窓の外――第二隊と第三隊の人間が走り続けている馬柵へと向けた。
「ですが、もし貴方の隊員に負けるようであれば。
もともとが足手まといでしかないのだから。
騎士団には不要だと思いませんか?」
***
「おめぇらちゃんと水は飲めよっ」
と、ベイゼルが口元に手を当てて時折怒鳴っている。
前方の方、柵にぶらさげた皮の水袋をちらりと眺め、ルディエラは自分が何週走ったか考え、苛々を募らせた。
確実に他の隊員が自分よりも一周多く、もしくは一周少なく走っているのを感じる。虎視眈々とルディエラの速度や様子を考え、できるだけ楽をしようという魂胆が丸見えだ。このままではいけない。そして絶対にこのまま馬鹿にされたまま終わらない。
ルディエラは皮袋の手前からゆっくりと速度を落とし、皮袋の前で足踏みをして極力ゆっくりとした速度で水を口に含んだ。
皮の味のする生ぬるい水は決して美味くはない筈だが、疲れた体には存分に染み渡る。ルディエラはシャツをたくし上げ、自分の手首の辺りをぺろりと舐めた。
――塩気が舌先を刺激する。
水分補給と塩分補給は必須だ。
自分の体から精製された塩……どんな時でも生き残る精神を教えてくれたのは父エリックだが、エリックが自分の腕を舐めているのを想像すると、父大好きなルディエラでもちょっぴり微妙だ。
「せんぱーい、水飲んだほうがいいですよ」
そしてルディエラは自分の脇をにやにやと通り過ぎようとする男達を片っ端から引っつかみ、そのペースを乱して水袋を押し付けた。
「うわっ」
と声をあげて多々良を踏む男ににっこりと水袋を差し出し「はいっ」と微笑んで見せる。
そうしている時も自分の足はしっかりと足踏みをし、一定のペースを保っているが、相手は突然ペースを乱された為に一気にぶわりと汗を噴出した。
「おまえっ」
「水飲まないと倒れちゃいますからねっ」
言いながら、自分はひらひらと手を振ってその場を離れようとしたが、丁度その時通りかかった第二隊のフィルド・バネットの存在に瞳をさらにきらきらと輝かせた。
「フィルドさんめっけ」
思わずペースを乱して思い切り速度をあげたフィルドは、忌々しい子猿の存在に「今度は何の罠だっ」と内心でののしり声を上げたが、それは珍しく――正解だった。